3-17. 眼鏡はナメられる?
化学室へ行くのは少し憂鬱だった。
事件後、例によって報告書を作るように命じた吉田計彦教諭は、やはり例によって参考資料の類いをファイル一式にして珠理に手渡した。そして書類が嫌いな珠理は開きもせず、結局今、その一式は良の手元にある。
開いてみると、まず最初に目に飛び込んできたのは、ネット通販の商品ページを印刷したものだった。『薬物簡易検査キット』と書かれていた。コカイン、エフェドリン、メチルフェニデート、そしてアンフェタミンやメタンフェタミンが含まれているか即座に検出できるものである。価格は五〇〇〇円ほど。これを使えば、回りくどいTLC分析をショートカットできたことになる。
しかし、吉田のメモが貼りつけられている。『木暮さんは遠からずこの手段に気づくでしょう』『ですが今回の手段なら、違法薬物だと気づいたタイミングを分析途中または完了後だと主張でき、よりみなさんの活動の合法性が高まります』『彼女がどこまで考えていたのかは、訊かないことにしましょう』と書かれていた。
完全に珠理ではなく良に向けた文面。書類が珠理の手をスルーすることは想定済みのようだった。
注目すべきは、印刷された日時だった。
珠理が不可解なスポットに気づいた日の夕方。つまり、違法薬物の可能性に良と珠理が気づいた〈しのはら書店〉での夜より、時系列的に前なのである。
思えば吉田は、図書室の忌書の時も、あらかじめ原因がテキサノールなどの物質であることに気づいていたような素振りだった。気づいていたから、珠理が標準品がないか訊いた時にすぐに化学準備室から持ち出せたのかもしれない。
〈ヨミガミ〉の時も、示温インクだと合点しかけた珠理や良、康平に、温度測定を勧めたのは、吉田だった。あの時も、温度に依存しない不可視インクの可能性に気づいていたのかもしれない。化学室にはブラックライトも常備されている。
吉田計彦はすべてをお見通しだったが、生徒たちが主体的に課題に取り組むのを陰ながらアシストしていたのではないか。
だが、その可能性について、良は自分の胸にしまっておくことにした。
生徒ではない吉田計彦は、理系ではない安井良だからこそ、自分のアシストを仄めかしたのだ。吉田は少し性根が歪んでいるが、あくまで高校生の科学部員である生徒たちに向かって知識量で優位に立って喜ぶような男ではない。もちろん、時には生徒の生意気さに負けることもあるようだが。
その吉田計彦教諭は、化学室に集まった幽霊を含む部員たちを前にいつになく上機嫌だった。
「いや、みなさんも木暮さんの弟さんも、軽い事情聴取程度で済んで本当によかったです。小池くんも無事学校に復帰したようですし。事前に報告しなかったので校長と教頭はお冠でしたが、感謝状と聞いて掌を返しました。学校のPRになりますからね」
「なーんか、それ、嫌」と瀬梨荷が言った。「学校の評判のためにやったんじゃないんですけどって感じ。まあ私何もしてないけど」
「俺は間に合わなかったし……バイトしてデカいバイク買おうかな」消化不良が残っているような康平。だが彼にとっては、もっと大事なことがあるようだった。「そんなことよりあの時すげー速さのRX-8に追い越されてさ! シルバーの!
「50cc以上のバイクは通学使用の許可が下りませんよ」と吉田。クルマについて語るつもりはないようだった。代わりに良に向けて言った。「畑中先生から聞きましたよ。入部届を出されたとか。歓迎しますよ、安井くん」
「はい、どうも……まあ、流れっていうか、いつの間にか型に嵌められていたっていうか」
すると康平が手を挙げて言った。「いや、聞いて、ちょっと聞いて。俺さ、遅れて〈アンバランス〉の前に着いたんだけどさ、あそこRX-8が路駐してあったじゃん。あれ絶対俺が追い越されたRX-8だと思うんだよ。なんであそこにいたんだ……?」
「そんなことよりさ」吉田の秘密を尊重することにして良は言った。「珠理さん、どうしたの?」
言葉少なの珠理は、頻りに自分の金髪を撫でたり持ち上げたりを繰り返していた。腕を上げ下げするたびに、手首のクラウンエーテルが控え目な金属音を鳴らしていた。
「いや、黒染めした方がいいのかなって。感謝状って警察署で受け取るんだろ? 一応公の場所に出るわけだし」
「やめて」瀬梨荷が即座に応じた。「私とキャラ被るじゃん。絶対似合わないから、やめて」
「そうか?」
今度は康平が言った。「金髪なのがいいんじゃん。なあ良くん」
「うん。僕も黒染めはやめてほしいかな。新聞記事になった時の話題性とか考えると、金髪の方が美味しい」
「社会派通り越して記者目線になってんぞ」乾いた笑みで珠理は応じた。「ま、お前らがそんなに言うなら……ヨッシーは? このままでいい?」
吉田は頷いた。「もちろん。染色とは最もプリミティブな化学的営みの一つですからね」
よっしゃ、と言って珠理が立ち上がった。
話題性のことを言ったのは、照れ隠しだった。父が言っていたことを思い出したのだ。
青春とは、鈍色の日々を金色に変える、錬金術だ。
科学は現実を暴き、錬金術は奇跡を招く。今こうして、転校前には想像だにしなかった場所に座って、関わるとも思わなかった人たちと話しているのは、金色を纏った同級生が招き寄せてくれた、奇跡だった。だから彼女には、あるがままでいてほしかった。できれば生え際も染め直して。
「なーにぼんやりしてんだよ」いつの間にか正面に立っていた珠理が言った。
「いや、青春だなあって思って……」
「またそれかよ。んなことより、これ、お前の」珠理は良の座る実験台に抱えていたものを置いた。
新品の白衣と保護眼鏡だった。
「メタンフェタミンのゴタゴタで共用の白衣とか全部処分することになったから、新品買った。名前書いとけよ」
「もらっていいの?」
「部員だしな。買ったのヨッシーだけど」
その吉田は心なしか意気消沈している。「部の予算がないんです。が、安全のためなので背に腹は代えられません。大事に使ってくださいね」
ありがとうございます、と応じて、良は保護眼鏡の方を手に取った。透明アクリルの、一見するとチープで、機能だけを追求したものだった。
顔を上げると、覗き込んでいた珠理と目が合った。
「コンタクトじゃないけど我慢しろよ、チャールズ」
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