3-13. リンモリブデン、DNP、ニンヒドリン、ドラーケンドルフ
「UVで芳香環を見るのは使えない。全部入ってるから」珠理はスマホを取り出し、メモアプリを表示させた。「まずはここを見ます」
珠理が指差したのは、メチルフェニデートの、黒い球から赤い球へ二本のジョイントが伸びた部分だった。
「これ、なんですか?」と良。
「COですよ」吉田はこともなげに答えた。
「この分子模型では、黒が炭素で赤が酸素、青が窒素で水素は略されてる。C二重結合Oのカルボニル基だ」珠理は横の良に言って、正面の吉田に向けて続ける。「これの有無で、コカイン、メチルフェニデートとそれ以外を識別できます」
吉田は眼鏡の位置を直して応じる。「いいでしょう。次は?」
「ここです」珠理はアンフェタミンの端にある青い球を指差す。「一級または二級アミンならアンフェタミン類またはメチルフェニデート、三級アミンならコカインです」
「一級……?」
「Nは基本三つの結合手を持つんだけど……」首を傾げる良に珠理は未組み立ての分子模型部品から青い球を取り出して見せる。言う通り、穴が三箇所あり三方向にジョイントを挿せるようになっている。「水素以外のものが一箇所に繋がってたら一級、二箇所なら二級、三箇所なら三級になる。アミンってのはN的なやつのこと」
「アミ……アミノ酸とかの?」
「アミノ酸ってアミンとカルボン酸なんだよ。NH2とCOOHがCHを挟んで、Cの空いた箇所にもう一つ何かくっついてるのがアミノ酸」
言う間に珠理は手早く分子模型を組み立てる。瞬く間に、珠理の掌の上にアミノ酸の骨格が出来上がっていた。
吉田は小さく頷いて言った。「アンフェタミン類二種はどう識別します?」
「スポットの色で見分けます。一級と二級ですから」
「すべてTLCですか。それなら、危険は小さいでしょう。加熱の際は面倒がらずに十分注意してください」
「でもこの方法、色々試薬が要ります」珠理はメモに目を落とす。「えっと……ニンヒドリン試薬とDNP試薬と、あと念押しでドラーゲンドルフってある?」
「ありますよ」吉田は、何か悪巧みでもしているかのようににやりと笑った。「本校の化学準備室にないものはありません」
「おっしゃ。やるぞチャールズ」珠理は良の肩を叩く。「ニンヒドリンは皮膚のタンパク質でも反応するから絶対手袋しろよ」
「怖っ。なんか必殺技みたいな名前もあったし……」
すると、瀬梨荷が「チャールズねえ……」と言った。
「君ら仲直りしたの?」
「なんだそれ。あたしがこんなモルモット手放すわけねえだろ」
「ふーん」瀬梨荷は口の端で笑った。「良くんやるじゃん」
「何その笑い。何もないよ」
一方、吉田が鼻歌交じりに立ち上がる。「四人。生徒が四人。熱心な生徒が四人。科学技術立国。ふふふ……」
準備室の扉が、猫背で寝癖頭の化学教師の姿を隠す。
残された四人で顔を見合わせ、珠理が肩を落として言った。
「あれさえなきゃ、いい先生なんだけどな……」
瀬梨荷と康平が集めた後混合の混ぜ物成分は、想定通りヨウ素デンプン反応に対して冷時青紫色を示し、高い確率でデンプンが添加されていることが示された。一方、良をアシスタントに珠理が実施したTLC分析により、カフェインではない未知物質の正体が明らかになった。
その未知物質は、ニンヒドリン試薬に対し黄色を示す二級アミンであり、一級アミンではなかった。ドラーケンドルフ試薬、およびDNP試薬に反応しないため、三級アミンまたはケトン、アルデヒドが含まれる可能性は排除される。UVへの反応から芳香環を持つことが示唆されている。
一方、未知物質は反社会的勢力と対立して東京から地元の前崎に逃げ帰ってきたという元ホストの須永が『商売』に用いることから、覚醒剤成分である可能性が極めて高い。グループの若者・小池海翔が中毒症状を起こしても救急車を呼ばずに処理したことからも、彼らはその非合法性を認識していると考えられた。
「結局と言えば結局なんだけど、最終的には、一番ありふれた物質である可能性が高いと判断した」黒板の前に立った珠理はそう言って、分子模型の一つを取り上げた。
作業の過程で散らばった粉末を集めていた康平と、同じように抽出に用いた溶媒類を水系と有機系で二つの容器に集めていた瀬梨荷が、そろって手を止めて珠理に注目した。PC作業をしていた吉田も腕組みで珠理を見守りっている。もちろん良もだった。
一同を見渡し、珠理は言った。
「メタンフェタミンだ。一番ありふれてるってことは、一番厄介ってことでもある。強い中枢神経興奮作用があり、最初はめちゃくちゃ頭が冴えるけどすぐに効果は消えて激しい倦怠感や疲労、脱力感に襲われることになる。そこでもう一回、もう一回と摂取すると、次第に効き目が弱くなってくる。依存症が進行すると精神病のような症状が出て、まともな社会生活を送ることが困難になってしまう。薬の力に意思の力では抗えない。だから最初の一回を防ぐことが重要だ。大量に摂取すると目眩や吐き気、手脚の震えが出ることもある」
「じゃあ、あの動画に映ってたのって……」
良が口を挟むと、珠理は首を横に振る。「あれの主因は状況から言ってカフェインで間違いない。そもそも、一錠にそんな量のメタンフェタミンを突っ込んで、パシリみたいにしてる高校生に飲ませるわけがない。理由は二つ。知識があれば、危ないとわかるから。知識がなくても、めちゃくちゃ高くてそんな使い方をしたら勿体ないから。覚醒剤はグラム六万円するんだよ」
「地域によりますけどね」と吉田が補足する。「グラム六万円は警察が使う標準的な、いわゆる末端価格でして、地域によってはそれ以下の価格で取引されることもあります。品質もそれなりだそうですが」
「というわけで」珠理は分子模型を置いた。「あたしらのできることはここまで。後は警察に通報する」
康平が抗議の声を上げる。「折角ここまで調べたのに? どうせなら俺らで須永グループやっつけようぜ。獅音くんだってあいつらに巻き込まれてたんだろ?」
「……あたしの不肖のバカ弟についてはあたしが説教するとして」珠理は首筋のあたりに手で触れる。「そもそも、覚醒剤ってのは持ってるだけで犯罪なんだ。厳密に言えば、今あたしら全員犯罪者ってこと」
「それマジ?」瀬梨荷は両手を挙げて廃液から遠ざかる。「私なんもしてませーん。知りませんでしたー。金髪の怖い人に脅されましたー」
「おいコラ」
代わって吉田が言った。「今、こうして覚醒剤であることがほぼ確定した時点で、皆さんは手を引いてください。頑張っていただいたところ申し訳ないですが。以降は錠剤も廃液もすべて僕の責任で管理し、警察とは僕が話します。今日は、実験器具の片づけ等も僕がやりますので、みなさんは帰宅してください。今後、警察から形式的な事情聴取などはあるかもしれませんが、罪に問われることはまずないでしょう。みなさんは、動画の中で悪霊に憑依されたように突然倒れた同級生の身を案じて調査していただけなのですから」
良は化学室内を見回す。康平も瀬梨荷も、これ以上混ぜ返すつもりはないようだった。
珠理がぽんと一つ手を叩いた。「じゃあそういうことで。念のため手袋とかも回収するから、持って帰ったり勝手に捨てたりすんなよ」
「それはわかったけどさ、珠理ちゃん」と康平。「もしかして俺ら、科学捜査してた?」
「その入口の入口だけどな」
「やべえ」
「洒落になんないけど、こういうのもたまにはいいね」瀬梨荷は大きく伸びをして言った。「幽霊部員だけどもうちょっと足生やそっかな」
「はいはい、みなさん犯罪者になりたくなければ早く帰ってください」吉田は丸椅子から立ち上がった。「これ校長にどう説明しよう。安井くん、どうすればいいと思います?」
「警察が先でいいんじゃないですか?」
「ですよね。僕は非常勤講師ですし」吉田は自分に言い聞かせるように頷く。
そして荷物をまとめ、吉田に後を任せて化学室から表の廊下に出た時だった。
「珠理ちゃん、スマホ鳴ってる」と康平が言った。
マジか、と応じて珠理は鞄のポケットからスマホを取り出す。「噂をすれば獅音だよ。あの野郎あとでちゃんと説教しなきゃ……もしもし?」
立ち止まり、スマホを耳に当てる珠理。
二言三言話すと、その顔色が変わった。
「……お前、今須永と一緒なのか?」
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