3-11. 王の孤独

 珠理のバイト先までは、安井家のマンションから車で一〇分ほどの距離だった。

 国道に沿った、大型スーパーと一〇〇均とコインランドリーが駐車場を共有する、無名のショッピングモールのようなもの。その隣に、ロードサイドの開発に抗うか、あるいは取り残されたように、床屋と洋品店と書店が三軒連なった建物がある。

 気を利かせたのかスーパーで買うものがあると言う父と別れ、良は書店の前に立った。軒先には、厳つい黒の、年季が入ったスポーツカーが停まっていた。

 〈しのはら書店〉という名だった。それでようやく、珠理がバイト先のことを話したがらなかった理由に思い当たった。もし知っていたら、ショッピングモール入居している大型書店で本を買うことなどなかった。

 隣の洋品店はシャッターが降りていたが、書店からは煌々と明かりが漏れていた。良は反応の悪い自動ドアを抜けて店内に入った。

「らっしゃーせー」と聞き慣れた声がした。

 入口付近に書籍の新刊・話題書の台と雑誌コーナー。右手に文芸・文庫の列、左手に学習参考書や語学書、技術書の類いが並んでいる。奥のレジ付近に漫画類の棚があった。

 文芸の棚から恐る恐る窺うと、制服の上からエプロンを着けた木暮珠理の姿があった。レジ台の上に参考書を広げ、難しい顔でノートに何か書き取っている。

 落ち着け、と自分に言い聞かせ、書棚を目で追う。すると、うってつけの一冊があった。手に取ると、心臓の高鳴りが少し収まった気がした。

 足音を殺し、レジの前に立って、その一冊を珠理に差し出した。

 太宰治の『走れメロス』。最近刊行されたモダンな装丁の新装版文庫だった。

「すみません」

「はいはい……」珠理はペンを置いて顔を上げ、そして露骨に唇を歪めた。「誰に聞いた」

「獅音くんから、多紀乃経由で」

「あの野郎……」珠理は舌打ちする。

「……勉強?」

「家じゃ騒がしいし。ここ、叔父さんの店でさ。教科書販売と、そのへんの店が定期購読してる雑誌で回ってるから店舗は暇なんだって」

「表のすごそうなクルマって叔父さんの?」

「そうそう。R34とかいうらしいけど……知ってる?」

「いや全然。赤木くんが好きそうだね」

「あいつたまにあのクルマ目当てで来るんだよ。はた迷惑な……」

「そんなにすごいの?」

「らしい」珠理は端末で本のバーコードを読み込む。「……なんで走れメロス?」

 焦ったときに走れメロスの文章を思い出していることを正直に言ったら、また『文系極まってんな』と笑われそうだった。代わりに、思いついたことで応じた。

「太宰治って風邪薬で自殺未遂したらしいし。ほら、カフェインって風邪薬にも入ってるって、珠理さん言ってたじゃん。それで思い出したっていうか……」

「ふーん……カバーは?」

「要らないです」

「袋は?」

「つけてください」

「三円な」と珠理。

 こんな話をするために来たのではなかった。

 会計を済ませ、椅子に座ったままの珠理から袋を受け取る。そしてまた参考書に戻ろうとする珠理に、良は意を決して言った。

「ごめん、珠理さん。昼間のこと。無神経だった」

「……それ言いに来たのか?」

 良は頷く。

 珠理の両目が無表情に良を見上げていた。目を合わせていると、次第に顔に血が上ってくるのを感じた。鼓動が早鐘を打っていた。カフェインを過剰摂取したかのように。

 今し方受け取った本の一節が脳裏に蘇った。

 王は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ――。

「僕、恵まれてたから。珠理さんからしたら、鬱陶しかったよね。上から目線だった。ごめん」

「そうでもねーだろ。お前、親の離婚でこんな田舎に飛ばされてきたんだろ? お前が恵まれてるなら、あたしはなんなんだって話じゃん」珠理の手元でペンが一回転する。「その、なんだ。あたしも悪かったよ」

「珠理さんが謝ることは……」

 すると珠理は、ペンを置き、ノートを閉じた。そしてノートの表紙を見たまま言った。「……お前さ、科学部の元部員が全員あたしに追い出されたって話、聞いてる?」

「なんとなくは」

「支倉……じゃ、ないよな。あいつは本人がいないところでそういうこと言わないし」

「誰からかは言わない。でも、みんな言ってるとも言わないよ」

「誰でもいいよ。事実だし」珠理の指先が置かれたペンに触れる。前に転がす。後ろに戻す。それを繰り返しながら珠理は続ける。「気に入らねえ連中だったんだよ。調査研究活動もしない。実験だってろくにしないし、やるとしてもおもしろユーチューバーがやってるようなのの真似ばっか。つまんねえからつまんねえって言ったら、ある時全員一度に退部届出しやがった。ヨッシーが泣きそうな顔してたよ」

「あの人、なんか時々そういうところあるよね」

「生徒が科学に関心を持つことが、あの人にとっては何よりの喜びだから。喜びすぎてガキになる」

「なってるなってる」

「一人じゃもっとつまんなかった」転がり続けていたペンが止まった。「瀬梨荷や康平はいたけど、あいつらとりあえず籍置いてもらってる数合わせだし」

「二人とも結構気まぐれだよね」

「お前のこと引っ張り込んだのも、それこそ気まぐれだよ。でもさ、なんか……思ってた以上に、全然違った。お前文系だし、モルモットみてーにぷいぷい鳴いてるし、なんか頓珍漢なことばっか言ってるけど、それでも、一人じゃないって、全然違うんだよ」

「科学部のプロジェクトのこと? 僕、ほんと何もしてないし、一番肝心なところは全部珠理さんが……」

「それはあたしがちょっと科学の心得があるってだけ。同じ課題に、同じ熱量で、同じように向き合う誰かがいるってことが、こんなに楽しいなんてあたし知らなかった」

 昼間の化学室で交わした会話を思い出した。瀬梨荷は、良相手に一方的に説明する珠理を見て、いつもの眠そうな顔で『私や康ちゃん相手より楽しそうだなーって思って』と言っていた。

 珠理は斜め下の方ばかり見ていた。目を見て話せよ、と彼女に何度言われただろう。

「だから、ちょっと過度な期待してたっていうか、他の人に言われてもスルーすることにマジギレしちゃったのはそういうこと!」珠理は会計台を叩いて立ち上がった。「はいこの話終わり! 帰れ! もう閉店!」

 目が合った。珠理の、一目でわかるほど赤面した顔が、良の目の前にあった。

 互いに押し黙る気まずい沈黙。

 何を言えばいいのかわからなかった。乾いた喉から出てきたのは、一番馴染んだ定型句だった。

「はい。どうも……」

「なんだそれ、ウケる」珠理は吹き出し肩を揺らして笑う。「そういやお前、あたしが図書室に放り込む前に訴訟がどうのとか言ってたの、あれなんだったの?」

「それはちょっとした手違いというか、勘違いというか……じゃあ僕も折角だから訊くけど、なんで化学室で牛タン焼いてたのか結局答えてもらってないんだけど」

「ああもう、またそれかよ。うるせえな……言えばいいんだろ言えば!」珠理は深く息をついた。「白衣を着てアルコールランプで牛タンを焼くのにずっと憧れてたんだよ! 悪いか!」

「何そのコテコテの変人キャラみたいなの」

「チャールズお前マジで何もわかってねえな。あれは夢なんだよ。漏斗とビーカーでコーヒー淹れるのと同じ!」

「同じ……?」

 その時、珠理の後ろにある、店舗のバックヤードに繋がると思しき暖簾が揺れ、一人の男が姿を見せた。

 髪の八割ほどが白髪になった、髭を生やした五〇歳台ほどの男性だった。長身の珠理よりもさらに背が高く、表情が読みづらかった。

 シノさん、と珠理がその男を呼んだ。

「……今日は賑やかだね」男は良にじっと目線を注ぐ。「お友達か、珠理。康平くんじゃないんだな」

「うん。チャールズ」

「ああ、君が……」

「安井良です。木暮さんとは、学校の同級生で」

 そうか、と男は頷く。「篠原純一郎という。姪が世話になっていると聞いている」

 こちらこそ、と定型句で応じる。珠理は〈しのはら書店〉は叔父さんの店だと言っていた。彼が店主のようだった。

 篠原純一郎は、珠理の母親の兄にあたるのだという。店を手伝っていた子供が独立し、店番を任せるアルバイトを探していたところに、派手な金髪で万引き除けにうってつけの人材が親戚にいることに気づいたのだとか。

 暇な店だから、と男は皮肉たっぷりに笑う。

 珠理に勉強場所を与えたかったのかもしれない、とふと思った。親に言われて自分の気持ちを押し殺し、才能や興味を埋没させようとしている姪のために。

「何やら心霊現象を調べているとか」とその篠原が言った。「謎は解けそうなのか」

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