3-10. 傷は浅いうちに

 遅れて姿を見せた吉田に、話せることは何もなかった。すみません、と応じて良も下校することにした。

 三階から一階。努めてゆっくり階段を下りても、知っている顔には出会わなかった。靴を履き替え、正体不明の像が建つ広場を抜けて校門を出て、徒歩一分のバス停から駅前へ向かうバスに乗っても、良は一人だった。

 瀬梨荷からLINEが着信していた。

『良くん地雷踏みすぎ』『明日説教ね。ガチめの』と書かれていた。『ごめん』とだけ返信した。既読になったまま応答は途切れた。

 今にも雨が降り出しそうな曇り空だったが、まだ明るかった。日が伸びたせいだろうか。それとも、最近はいつも科学部の活動に巻き込まれて、帰りが遅くなっていたせいだろうか。

 家に帰ると、「おかえり」と多紀乃が言った。数日はこちらにいることになった彼女は、ソファで俯せになってゲーム機の画面に熱中していた。

 だがその多紀乃が、画面を消してソファに座り直した。

「……お兄ちゃん、なんかあった?」

「何もないけど」

「嘘つけ。死にそうな顔してるけど」

「逆だよ」リュックサックを下ろして良は言った。「もう死ぬような目には遭わない。モルモットにもされないし、急に拉致もされないし、ヤバい金髪ギャルのパシリにもされない。これで平和な生活になる。せいせいした」

「ふーん」多紀乃はまたゲームに戻る。「お兄ちゃんがそれでいいなら別にいいけど」

 なんだよ、と言うと、別にいいって言ってんじゃん、と多紀乃は応じる。それ以上問い詰める気にもならず、良は着替えて台所に立った。

 十八時過ぎに父が帰ってきた。

「今日は早いじゃないか」とその父が言った。

「別に普通だろ。部活もやってないし」

 すると手伝う素振りも見せない多紀乃が言った。「お兄ちゃん珠理さんと喧嘩したんだって」

「喧嘩? お前が?」

「別にそんなんじゃない」

「取材の話をしたのか」

「一〇〇パー善意で言ってる上から目線がムカつくって」良が言う間に父は居間に鞄を置き、台所に入ってくる。

 そしてガスコンロの火を消し、換気扇も消した。

「何すんだよ」

「大事な話だ。入試の助けになるとも言ったのか」

「言ったよ。それが何か?」

 父は冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出そうとして手を止め、冷蔵庫を閉じた。「お前のことだ。心から、彼女のためを思って言ったんだろう」

「そうだよ」良は包丁を置いた。「家がそういう方針だからって、あの人が進学しないなんておかしいだろ。僕とか、前の学校の友達とか、みんなそんなに真面目でもないしやりたいこともないのに全員進学するつもりだろ。なのに珠理さんが……」

「『地方』で『高卒』の人間は、『下』か? 彼女は『上』であるべきか?」

 締め損ねた水道から流しに水滴の落ちる音が、やけに大きく聞こえた。

 父は記者の顔をしていなかった。

「世の中には多様な人々がいる。何が正解かなんてわからないし、彼らの人生を不幸だと決めつけることもできない」

「それはわかってるよ」

「頭ではな。だが、身体に染みついたものはそう簡単に抜けるものじゃない。『上』だけで人間関係を固めていれば、上下のことなど考える必要はない。だが、自分には与えられているが全員に与えられているわけではないものに気づくには、お前はまだ若すぎる」父は大きく息をついた。「今お前が感じている腹の中のわだかまり。それが誰かを傷つけるということだ」

「……傷つける?」

「同質な集団にはいいこともある。その集団の中にいる限り、傷つけられることが少ない。でも代わりに、誰かを傷つけることに鈍感になっていく。多様な集団こそが正義というわけでもないけどな。誰も傷つけないための薄ら寒い笑顔ばかりが得意になる人間ばかりだよ、世の中」

「世の中関係ないだろ。なんの話してんだよ。物申したいことがあるなら、記事にでも書いてろよ」

「個人は世間と無関係ではいられない。だが論じるより優先されるべきは、対話だ」父は三段目まで開けていたシャツのボタンを留め直した。「父さんが思うになあ、木暮さんから見たお前は、自分が欲しいものを全部持ってたのに、それに無頓着なムカつくやつだぞ」

 知った風に言うなよ、と応じようとした。

 代わりに良は蛇口に手を伸ばして、滴が落ち続けていた水道を止めた。

 高校生が当たり前のように大学へ行く土地から来た少年がいる。そうでない土地に暮らす少女がいる。少年は、機会さえあれば彼女も当たり前に進学するものだと思っている。彼女が抱えているしがらみや困難は、彼の目には見えていない。

 獅音から話は聞いていた。酔った父が語ったことで、知識も仕入れていた。だが、木暮珠理の中にある葛藤のことは知らない。ちゃんと想像しようとしたかと問われれば、答えはノーだった。

 ゲーム機をいつの間にかスマホに持ち替えていた多紀乃が居間から言った。「何も事情知らないのに『やればいいじゃん、なんでしないの?』って言ってくる人ってめっちゃムカつくよね。よくわかんないけどそういう話っしょ? お兄ちゃんそういうとこあるもんね。なんかママに似てる」

 確かに、と父が頷く。「野菜炒めに入れる人参は厚みを均等にしろとかな」

「それは均等にしてほしい……」

「動物園から国立公園だっけ」多紀乃はスマホを見ながら言った。「動物は飼育員にお膳立てされなくたって交尾するし、お兄ちゃんもそうすれば? うちら監視員としてもそっちの方が楽しいし」

 父はまた冷蔵庫を開け、今度こそ缶ビールを取り出した。「明日朝一で謝っておきなさい。鉄は熱いうちに打て、傷は膿む前に塞げ。時間は何も解決しないぞ」

 そうする、と応じてまた良は包丁を持つ。まな板の上には切りかけのキャベツ。父は缶ビールのプルタブを開ける。

 その時、多紀乃が「待った!」と叫んだ。

「今から行けば? 珠理さん今バイト先にいるらしいし」

「なんでそんなこと」

「獅音くんに聞いた」多紀乃はスマホを持った手を挙げた。「営業時間八時までらしいから、まだ間に合うよ」

「飲まなくてよかった」父は口をつける寸前だったビールを冷蔵庫に戻した。「良、行くぞ。車で送っていく」

「え、いいよ。晩飯の支度途中だし、明日で。そんな用事で親に送らせるなんて……」

「親でもなんでも使え」父は早くも車のキーを手にしていた。「木暮さんがいない学校生活なんか、つまらないだろ?」

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