3-9. 彼女の問題
中には、白い三角形の錠剤のようなものが五錠ほど入っていた。薬局で処方されるものより少し大ぶりで、形のせいもあってかお菓子か何かのように見えた。
珠理は頷く。「須永たちからくすねてた原一磨くんから、獅音を通じて入手したもんだ。で、乳鉢で粉砕して、熱水に溶解させて、分液漏斗入れてクロロホルムで抽出して脱水して……」使用済みらしい実験器具を一つ一つ指差す珠理。最後に二つ並んだ栓つきの小さな三角フラスコを指差した。片方には錠剤と同じ三角形、もう一方には『標』と書かれている。「まあ要するに、カフェインだけが入っているはずの液体がこれ。ヨッシーに言ったらどこからともなく出てきたカフェインの標準品を溶かしたものがこれ。TLCは、分析する試料溶液を左、真ん中に試料と標準溶液をダブルスポット、右に標準をスポットするのが一般的だな。違うのが入ってたら一発で分かるようにそうするんだ」
へえ、と応じて良は言った。「分析って、なんかすごい機械とかじゃなくてこんなのでもできるんだ」
「一番早くて一番原始的、っていうか、高校の化学室と大学や研究機関が同じように使える数少ない手段かな。ここでできるのは定性だしこれだけで化合物を同定するのはちょっと信頼性に欠けるんだけど」
そう言うと、珠理は先程の小瓶からTLC板を取り出し、展開溶媒が吸い上がったところに線を引く。見る間に揮発し、濡れていた板はすぐに真っ白に戻った。
「……なんも見えないけど」
「あんま喋んな。タンパク質とかつくと結果がおかしくなるから」珠理は手で良を追い払う。「で、これだけでもUV、ほら、こないだのブラックライトみたいなのを当てれば物によっては見えるんだけど、もうちょい見やすくするぞ」
続いて、化粧水でも入っていそうなプッシュ式のボトルを珠理は持ち出した、中身は、緑とも黄色ともつかぬ色に染まった怪しげな液体である。
リンモリブデン試薬な、と珠理。その黄色い液体をTLC板に吹きつけると、今度はドライヤーを厳つくしたような道具を取り出す。
「ヒートガン。ロボット研究会から借りた」
「……ビームとか出る?」
「出ねえよ。熱収縮チューブに使うんだってさ」珠理は手袋をまた耐熱のものに交換する。そして右手にヒートガン、左手のピンセットでTLCを摘まんでドラフトの中に両手を入れた。「五〇〇℃くらいになるから絶対に人には向けない。で、これでリンモリブデンに浸したTLCを焼くと……」
ドライヤーにしては逞しい送風音。明るい黄緑に染まったガラス板が熱風で乾き、程なくして、青黒い点が板の上に現れた。
「おおっ……これがカフェイン?」
珠理は頷く。「始点からさっき線引いたところ、展開溶媒が上がってった上端と、このスポットが出たところの比率をRf値っていって、流れすぎない限り展開溶媒によらず物質に固有の値を取る」
焼いたTLCを実験室用の使い捨て紙タオルの上に置く。他に二枚、同じように黄色に染まったTLC板が並んでおり、いずれも同じような発色を呈していた。
保護眼鏡を外して髪を解く珠理。
ふと目を向けると、寝ていたはずの瀬梨荷が頬杖で何か心得たかのように笑みを浮かべていた。
その瀬梨荷に、髪に手櫛を通しながら珠理が言った。
「何ニヤニヤしてんだよ」
「別に?」瀬梨荷はまたエアピローに頭を預ける。「私や康ちゃん相手より楽しそうだなーって思って」
「おめーは寝に来てるだけだろうが」珠理は指示棒代わりのボールペンを手に、TLCに視線を戻した。「で、問題は、ここ」
三枚並んだガラス板は、いずれも中心より高い位置に三つのスポットが生じている。つまり、試料、ダブルスポット、標準品のいずれも、カフェインが含まれているといえる。しかし、やはり三枚とも、試料とダブルスポットのみ、低い位置にカフェインと比較するとごく小さいがはっきりした別の変色点が見て取れるのだ。
一回だけならなんらかの夾雑物かもしれない。だが三回続くのなら話は別だ。
「別の物が混ざってるってこと?」
「それもクロロホルムで抽出されるものが。他の錠剤成分かなって思ってごく一般的なカフェイン錠剤の成分調べてみたけど、他がセルロース誘導体とかばっかりだからクロロホルムに入ってるとは思えない。ごく微量のステアリン酸マグネシウムとかかもしれないけど、それにしては見えすぎてる」
「……それって、何が?」
「わかんねえ。でも、効かないかさ増し成分の類いじゃないと思う」
「粗悪品?」
「いくら海外はおおらかだからってこんな思いっきり別の成分入らないと思うけど……」
「じゃあ別の想像をしなきゃ」考え込む珠理を横から覗き込んで良は言った。「須永が、個人輸入したカフェイン錠剤を砕いて、何か別の物を混ぜて、もう一回押し固めた」
「なんのために」
「さあ……?」ただの思いつきであり、それ以上のことは良にはとてもわからなかった。
代わりに、梅森たちから聞いた小池海翔の話を珠理に伝えておくことにした。
プロゲーマー。エナジードリンク。先輩たち。同じ中学出身者のグループ内で、小池海翔の立ち位置は底辺に近く、中学生にも見下されていたこと。
「文転ねえ」想像通り、珠理は小池の行動には否定的だった。「そうやって文系に行って上手くいった例ってあんま聞いたことないけど」
すると、また起き上がっていた瀬梨荷が応じた。「やりたいことがあるならいいんじゃない? お気楽だなーとは思うけど。大学行かなくてもできるじゃん、そういうの。半端な逃げ道だけは用意してるってことだよね」
「プロゲーマーが狭き門だから人生の選択肢を残しておくってのは、おかしな話でもないような……」
「ま、考え方によっては、逃避じゃなくて現実的な選択肢としてプロゲーマーを見てるとも言えるんじゃね。知らんけど」珠理は発色したTLCを睨んでいる。
「優しいね」
「自分の人生をなんとなく、周りに言われたから、とかの理由で決めるやつが、あたしは虫が好かねえんだよ。そういうのに比べれば、小池はまだマシ。それだけ」
針を刺されたような心地だった。
東京にいた時から、なんとなく大学進学するつもりでいたし、勉強はしておいた方が今後の人生が上向くと思っていた。進学の意義について多紀乃に語る父の言葉には心底頷いていたし、疑問の余地もない当たり前の事実だと思った。だがそれは、裏を返せば、自分の頭で何も考えていないからなのではないか。
獅音から聞かされ、ずっと引っかかっていたことがあった。訊かずにはいられなかった。
「珠理さん、大学進学しないって本当?」
少しの沈黙があった。
珠理はゆっくりと顔を上げて良を見た。「そんな話、お前にしたっけ」
「獅音くんから聞いた。珠理さんの家、進学には否定的だって。そんなの勿体ないよ。今だって、高校生なのに、科学捜査みたいなこと一人でしてるのに」
「それなんかお前に関係あるか?」
応じた珠理の、目の冷たさに、背筋が凍った。父が言っていたことが脳裏に蘇った。果たして彼女はそれを望むのか。
だが、間違ったことは言っていないという確信もあった。こちらが正しいのに、威圧されたからといって黙る理由もなかった。
頭の中の半分が、言葉にブレーキをかけようとした。だが止まらなかった。
「僕の父さん、新聞記者って言ったじゃん。珠理さんに取材したいって言っててさ。ほら、この前の、図書館の件で。大人たちも手を焼いて、生徒たちには怪談話が出回った事件を華麗に解決した、科学部のリケジョ女子高生、みたいな」
「興味ねえな」
「そんなこと言わずにさ。新聞に載るみたいなはっきりした実績があれば、推薦とかAO入試で有利になるかもしれないし……」
「おい、安井」珠理は白衣を脱ぐと実験台の上に放り出した。「どうせお前は一〇〇パー善意で言ってんだろ。だからムカつくんだよ。そのクソみてえな上から目線」
「珠理さん、あの……」
「帰る」
そう言い捨て、珠理は実験器具もそのままに、通学鞄を手に足早にその場を後にする。瀬梨荷が慌ててエアピローを手に後を追う。
追うべきだと思った。だが身体が動かなかった。自分が言うべきでないことを言ったことはわかっても、代わりにかけるべき言葉は何一つ浮かばなかった。
扉に手を掛けた珠理は、最後に肩越しに振り返って言った。
「あたしは、一人でやってるつもりはなかったんだけどな」
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