3-8. 大体解けた?
翌日曜日は天候に恵まれ、父が運転する車で市の北方にある山の方へ向かった。葛折りの峠道を抜けた先には、このあたりでは一番の観光名所である湖があった。世代を超えて根強い人気のある漫画の聖地でもあるらしく、キャラクターを印刷した看板や劇中に登場する車両に寄せたファンの車を多く見かけた。一般的には、海のない県内では珍しいマリンリゾートが楽しめる土地であり、陽光を受けて煌めく湖上には多くのボートやカヌーが行き交っていた。
近くにある温泉街を散策して昼食を取り、午後は市内に戻って大型ショッピングモール〈フレンテ前崎〉へ足を運んだ。先日の〈グリーンモール前崎〉より規模は少し小さく、設備は少し古い。しかしシネマコンプレックスを併設しており、隣にはこれまで見たことがないほど巨大なアミューズメント施設があった。買い物をするぞ、なんでも好きなものを買ってやるぞと意気込んでいた父だったが、結局多紀乃の興味はモールよりもゲームに向いてしまった。
クレーンゲームと格闘する多紀乃とその後ろで小銭を数える父を置いてアーケードゲームの薄暗いフロアに行くと、意外な人物に遭遇した。
「おおっ、ヤッシーじゃん」と言ったのは、梅森永太だった。その隣には、つまらなそうな顔をしなければ死んでしまうとばかりにつまらなそうな顔をした松川博斗。そして彼ら二人をギャラリーのようにしながら、ロボットが対戦するゲームで華麗に敵機を蹴散らしていたのは、竹内淳也だった。
話を聞くに、元々梅森が好きなゲームだったのだという。しかし最近新規実装されたキャラクターの声優が竹内の最推しであったことから、勝利時のボイスを聞きたくてたまらない竹内がめきめきと腕を上げ、とうとう梅森をギャラリーにするまで上達したのだという。
その梅森が、さらに意外な名を挙げた。
「元々小池が、ここの大会とかじゃ敵なしの最強だったんだよ。俺も散々ボコられたし」
「小池って、小池海翔くん?」
そうそう、と梅森。筐体の前に座った竹内は、乱入してきた相手を見事に倒して歓声を上げている。
これ見よがしな溜め息をついて松川が言った。
「小池のやつ、大学行かずにプロゲーマーになるとか抜かしてた。それで俺は見限ったがな。eスポーツはスポーツだから、体育会系だ。体育会系は敵だ」
「もうちょっとフレンドリーでもいいんじゃないかな……」
「でも小池くん、最近全然見ないね」と竹内。「なんか先輩によく呼ばれるようになって、こっちには顔出さなくなっちゃったんだって。一回対戦したかったなあ」
松川は腕組みで画面を見下ろしている。「大体こんなもの、何が楽しいんだ。何もないところから銃やら剣やら湧いて出る。なんだこのビームは。意味がわからん」
竹内が苦笑いで応じる。「その割に声かけたら絶対来るよね……」
うるさい、と応じた松川が竹内の脇腹の脂肪を突き、竹内はゲームのキャラクターの声真似をしながら「もうやめるんだぁ! ヘェア!」と騒いでいる。呆れた梅森に「ヤッシー今日はどうした?」と訊かれ、「父親と妹と来ててさ」と応じる。
頭では別のことを考えていた。
小池海翔。動画の中で嘔吐し全身を痙攣させる姿が目に焼きついていた。
「ねえ、その小池くんのプロゲーマーになるって話、どれくらいの真剣度だったの?」
「結構マジだったと思うぜ」と梅森。「理系だけど、文転するつもりだったらしいし。受験の科目少ないから。で、一応大学に行って親を納得させつつ、ゲーム漬けの大学生活を送るんだとかなんとか言ってたの聞いたことある」
それが度々先輩に呼び出されるようになり、ゲーセンにも姿を見せなくなる。木暮獅音は、同じ中学校のグループの中ではいじられキャラだったと言っていた。中学生である獅音や、原一磨という獅音の親友さえ、年上の高校生である小池海翔のことを下に見ていた。
そしてプロゲーマーといえば、毒々しい色使いのエナジードリンクだ。
きっと小池は、先輩たちにプロゲーマー志望であることを知られ、そのことでずっといじられていたのだ。当日も、眠気を訴える彼に、プロゲーマーなら飲めよ、と言われて無理にエナジードリンクを多量に飲まされたのではないか。そして錠剤を併せて摂取したことで急性カフェイン中毒になり、肝試しの最中に突然嘔吐するに至ったのだ。
移ろう時代と若者文化の中から生まれた新しい職業。だが、その文化は、すべての若者に共通しているわけではない。特に塗装工として働く男や元ホスト、彼らと親しいが自分は同類ではないと思っている大学生などからは、嘲笑の的になってしまうだろう。
スマホが震えた。多紀乃から、ネットで人気のキャラクターを象った大きなぬいぐるみを両手で抱えた写真が送信されていた。
梅森が言った。「そういや例の、小池のハリコババァ憑依動画も科学部で調べてんの?」
「うん。でも、大体解けた」良はスマホをポケットに収めた。「待ってて。週明けにはいい報告ができると思う」
「……違うスポットがあったんだよ」と珠理は言った。
週明けの放課後、小池についての新情報を伝えようと向かった化学室では、木暮珠理が難しい顔をしていた。
前崎市は梅雨空で、その日も朝から弱い雨が断続的に降り続けていた。原付バイク通学の康平は雨が止んでいるうちにと急いで帰宅してしまった一方、低気圧で怠いという瀬梨荷が、実験台にエアピローを置いていつものように脱力していた。
そして珠理はというと、ドラフトチャンバーの前で金髪を後ろで束ね、白衣を着て保護眼鏡を装着し、耐熱手袋を着けてガスバーナーでガラス管を炙っていた。
そして、ガラス管が柔らかくなったのを見計らい、珠理は一気に両腕を広げてガラスを引き延ばした。
「何してるの、それ……」
「キャピラリー」珠理はガスバーナーを消すと実験台に移動し、金属やすりを使って針のように細長くなったガラス管を切断していく。「これくらい細いとごく少量の液体を毛細管現象で吸い上げるのにちょうどいいんだよ。で、これを……」
珠理は耐熱手袋をゴム手袋に変え、ドラフト内の端に除けて並べていたいくつかのビーカーから液体をキャピラリーに吸い上げ、白いコーティングがされた付箋大のガラス板にスポットしていくことを繰り返す。そして最後に、ピンセットでガラス板を摘まみ、少量の透明な液体が入った透明な広口小瓶にそっと入れた。
「薄層クロマトグラフィ、略してTLC。板の上にシリカが塗布されてて、物質に固有のシリカとの馴染みやすさで分離するんだよ。似た構造だと結果も似ちゃうんだけど、ちょっとした置換基でも大きく変わったりする。こっちの……」珠理は小瓶の底を指差す。「展開溶媒次第で物質のTLC上の移動速度が変わるから、何を見たいかでアレンジは必要だな。上まで行っちゃったりいまいち上がんなかったり。水に溶けるものと脂に溶けるものとあるだろ?」
「分析してるのは……これ?」良は実験台に置かれていた袋を取った。
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