3-7. 賃金、進学率、50歳時未婚率

 夜、肉じゃが、焼きナス、冷奴、サラダの食卓に着いた多紀乃は、怒り冷めやらぬ様子だった。

「意味わからん! 今時女は大学行くなとかどこの田舎!?」

「田舎だけどね、ここ……」

 二本目の缶ビールを開ける小気味いい音を響かせて父が言った。「現在の日本の大学進学率は六割弱。裏を返せば四割強は大学には通わない。加えて、日本で一番子供の多い東京の大学進学率は八割近い。低い県だと四割程度になる。この街なら、進学校でも大学進学を選ばない子がいても不思議じゃないさ」

 父の淡々とした理屈にも多紀乃は食い下がる。「でも珠理さん、超絶頭いいんだよ? もったいないじゃん。東大とか絶対余裕だし」

「インフレと親世代の賃金の伸び悩みによって、地方出身者が東京の大学に通うハードルは上がり続けている。今の大学生は、生活と学費のために奨学金とアルバイト漬けになるのが普通だ。理系なら特にね。奨学金の申請には当然、親の同意や収入証明書の提出が必要だし、もしも親が非協力的な家庭の子なら、大学進学は昔より今の方が困難を極めるだろうな。女性なら最後の手段がないではないんだが……支払うものが大きすぎる」焼きナスを摘まみつつ父は缶ビールを呷る。アルコールが回った父は、いつもより饒舌だった。「収入証明書が鬼門になることもある。自営業者の場合は確定申告書か。雑な経理処理のどんぶり勘定で作った、有り体に言えば脱税してる確定申告書に審査が入ることを嫌うんだ。それを親たちが高校生に説明することは決してない。私大の特待生にでもなれば話は別だが、どの大学でも狭き門だ。地方の進学校のトップであろうとも、東京の名門中高一貫校との戦いになれば、勝てるとは限らない。そもそも勝負がフェアじゃないからだ。良、なぜかわかるか?」

「一貫校は五年でカリキュラムを終わらせて、最後の一年を受験に使う」と良は応じた。直近の定期試験でさえ、良はその効果を思い知っていた。「実績から来る指導のノウハウもあるし、明らかに有利で、フェアじゃないよね」

 父は直箸で肉じゃがを取り皿に移す。多紀乃の抗議は無視していた。「予備校だってそうだ。良もそのうち知るだろうが、名物講師はみな東京近郊で授業をやるものなんだ。教室で彼らの話を聞き、自習室で同じ目標を持つライバルと切磋琢磨する環境と、録画された映像をヘッドホンで聴きながら見るのとではまるで違う。そもそも、東京近郊住まいなら、東京の大学を受験するのに新幹線や飛行機に乗る必要も、宿泊する必要もない。すべてにおいて、フェアじゃない。だが、点数以上にフェアな方式が存在しないのもまた事実だ。他よりマシだから不本意ながら資本主義を選択せざるを得ないように」

「推薦とか、AOとかあるだろ」

「面接官受けのいい学校外での体験や経験を積みやすい土地はどこだ? ボランティア。留学。資格取得。それらのロールモデルとなる人々が集まっているのはどこだ? 明らかに東京だろう。父さんは、AOよりも点数で線引きする方がまだフェアだと思うがな」

 そっか、と良は応じる。そして今聞いたことは学校では話さないことを決意する。内容はともかく、これを受け売りしてはまた社会派だと笑われそうだった。

 代わって多紀乃が言った。「このへんって、女の子は大学とか行くな! 家にいろ! って風潮なの?」

「父さんがお前たちくらいだった頃は、女子は出ても短大だったな。今は全く違う。大学進学率は、男子の方が一貫して高いがその差は数パーセントだ。だが一つ、考えなきゃならんデータがある」三本目の缶ビールに手を伸ばした父はますます饒舌になる。「女性の未婚率は、学歴が高いほど高い。親の価値観も、若い人の価値観も変わり続けているから、何を幸福と捉えるかはその人次第だ。だが、未婚率が上がる属性に踏み込まず、結婚し子供を育て、家計の助けになる程度にパートで働き主たる家計支持者を支える生活が不幸であると断じることは、必ずしも正しくない。子供にそれを願うことも、その願いによって不幸になる人がいるとしても、間違っていると断罪することはできないと父さんは思う。社会部の同僚には、それこそが悪だと信じるタイプもいたが。多紀乃はどう思う?」

「どうって言われても……」多紀乃は肉じゃがのしらたきを丁寧に取り除いていた。「よくわかんない」

「考えることだ。時間はある。ただ一つ、はっきりノーと言えるのは、周りのせいにする理屈を考えることだけに必死になることだ。下した決断の数、固めた決意の数だけ、人生は自分のものになるからな」

「……なんかいい話風になったけど」多紀乃は口を尖らせている。

「まずしらたき食べたら?」と良は横から言った。

「やだ。しらたきと椎茸は絶対食べない。幸せになるための私の決断だから」

「そんな大袈裟な……」

「そうだ、多紀乃」父は席を立ち、充電ケーブルに繋いでいたスマホを持ち出して言った。「母さんに連絡した。もう何日かいていいそうだ。学校には母さんの方から連絡するって」

 多紀乃は顔を跳ね上げた。「は!? ママに言ったの?」

「言わなきゃ仕方ないだろ。父さんは多紀乃を誘拐したことになる」

 多紀乃は箸を置いて湿っぽい溜め息をつく。父の行動については一応納得したようだった。「最悪。絶対家で野間口さんとよろしくやるつもりじゃん」

「その野間口だが、父さんの昔の仕事相手経由で独身であることは確認が取れた。また妻子ある相手というわけではなさそうだ」

「……ふーん」

 納得していない様子の多紀乃に良は言った。「応援してあげてもいいんじゃない? 無理にとは言わないけど」

「余計なお世話だから。お兄ちゃんは珠理さんと悪霊憑依の謎でも解いてればいいじゃん」

 父はまたビール片手に戻っている。「図書室の呪いの次は悪霊憑依なのか。最近の高校生活は随分と刺激に満ちているじゃないか」

「いや、悪霊じゃなくて……」と応じた時だった。

 連想が繋がってアイデアになった。良は言った。

「父さん。珠理さんのこと、取材してみない?」

「噂の金髪JK科学探偵をか?」

 良は頷いた。「図書室の件なら保護者の注目も高かったんだろ? 新聞記事に珠理さんが出れば、それは課外活動のわかりやすい実績になるし、AO入試とかにも有利になるだろ」

「……取材先としては魅力的だが」父は中身を残した缶ビールをテーブルに置いた。「果たしてあの子自身はそれを望むのかな?」

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