3-4. 兄と姉
翌日は土曜日であり、夜は長かった。母と二人の暮らしぶりについて話し込む父と妹を横目に、良は引っ越し直後にリサイクルショップで買ったソファに座って、スマホ片手に音量を落としたテレビのニュースを眺めていた。
野球の試合結果。政治家の失言。特殊詐欺に闇バイトの強盗事件。遠くの街の豪雨被害。いつも通りの驚くべき事々。
そしてスマホには珠理からの連絡があった。
『チャールズ明日暇?』
『暇だけど』『何かあったの?』
『おもしれーのが出たんだよ』
『休み時間に言ってたやつ?』
『そうそう』『これ』
珠理から何かのURLが共有される。
他でもない、旧針金山トンネルの心霊憑依映像だった。
教室で話したことを思い出し、良は返信を打ち込む。
『ハリコババァは戦後になっても帰らない息子の無事を祈って千人針を一人で縫い続けたおばあさんが元ネタらしいよ』『支倉さんが言ってた』
『支倉かよ!』犬か何かのようなキャラクターがそっぽを向くスタンプが貼られる。
父と多紀乃の話は続いていた。
「……なんかわかっちゃったんだけど。ママが新しい男の人と急いで結婚したがるのって、結局お金のためで、それってひいては私のためって感じで。めちゃくちゃ恩着せがましいっていうか……お前のために頑張ってる、察しろって感じが、マジで無理」
「母さんが、そう言ったのか」
「はっきりとは言わないけど、そういうのって大体わかるじゃん。イラストレーターのお仕事ってそんなに稼げないんだなーとか、じゃあ普通に働くのは変なプライドが許さない感じとか、それで男はいいのかよって感じだけど」
「よくないと思っているから、認めてほしいんだろう。望んだ形と違っても懸命に頑張っていることを、誰かに認めて、褒めてほしいんじゃないのか」
「野間口さん、新しい男の人ね、すごいお金くれるんだよ? 会うたび五万とか一〇万とか。でもそんなの、パパ活と同じじゃん。ママも無理だし、ガチ恋して無邪気にお金渡しちゃう野間口さんも無理」
「多紀乃。言葉を選びなさい」
「だって……私、中学出たら働きたい。ママみたいになりたくない」
「……働くのは、お前が考えているほど楽なことじゃない。だからみんな、学校に通って、働くための準備をする。働くとは、人と企業の間で行われる価値の交換だ。しっかり準備した人ほど、企業から効率よくお金を分捕れる。準備が足りない人は、企業にとって効率のいい、安値で使われる人材になってしまう」
多紀乃はむくれて返事をしない。相手の言っていることの方が自分の考えより正しいとわかった時、多紀乃はいつも口を閉ざして目を逸らす。
両親の離婚は揉めに揉めた。母は当初、良と多紀乃の二人とも自分が育てようとしていたのだ。そのために、財産分与として父の貯金の半分を要求した。だが父はそれを受け入れず、浮気を根拠に養育能力のなさを指摘した。すると母は主張を変え、家庭を顧みず家事・子育てを押しつけた慰謝料または対価として、やはり父の貯金の半分を要求した。そこで父は、財産分与もしない、代わりに子供は二人とも自分が引き取ると主張した。
子供の年齢が十五歳以上であれば、離婚にあたって、どちらの親と共に暮らしたいか子供に意見を聴取しなければならない。また同時に、子供は家庭における主たる監護者――子育てにより深く関与した側の親と暮らすのが望ましいとされている。当時、良は十五歳で、多紀乃は十三歳だった。そして、家庭における主たる監護者は、母だった。
最終的に、財産分与は行われなかった。そして良は父親を選び、多紀乃はどちらを選ぶこともできず、慣例や判例、通例、原則に従って母と暮らすことになった。本来、兄弟姉妹は引き離さない方が好ましいとされているが、裁判になって長期化し、良と多紀乃の今後に支障を来すことを避けるため、両親は互いに妥協したのだ。
そして父は娘に会えず、兄は妹と離れ、母は息子を奪われ金銭的にも追い詰められ、娘は孤独になった。
少し途切れていた珠理からのLINEが再開する。
『怪談のネタ元はいいとして』『なんで吐くのか意味わかんなくね?』
『それは確かに』
教室では、支倉佳織に解説されたことで不思議な出来事の謎が解けたような気分になってしまった。だが、何一つ解けてなどいない。郷土資料館に展示されているという千人針の哀しい物語は、若者が悪霊に憑依されたかのように突然痙攣・嘔吐した現象の答えにはならないのだ。
『調べてみようと思う』
『科学部で?』
『おう』『実はちょっと関係者に伝手がある』
『関係者って何』
『動画に何人かチャラい連中が映ってるじゃん』
見た目ギャルな人がそれ言う、と一度入力してから消去し、『映ってる』とだけ返事をする。
『実はそのうち一人、あたしの不肖の弟でさ』『しょーもねークソガキなんだけど』
『マジで』『弟さんは呪われなかったの?』
『門限破りで父親にぶん殴られたけど』
『呪いより怖い』
『だろ?』悪巧みするように笑う犬のキャラクターのスタンプが飛んでくる。良も、正体不明な生物を象ったキャラクターが大笑いするスタンプを返す。
ダイニングテーブルの父は難しい顔をしていた。
「野間口の人となりについては、父さんも昔の伝手を辿って調べてみる」
「……また奥さんいる人とかだったら、嫌だしね」
「多紀乃にそんな心配はさせたくなかった。すまない」
「なんでパパが謝るの? 悪いのママじゃん」
「いいとか、悪いとかじゃないんだ。こういうことは」
「意味不明」多紀乃は椅子の上で膝を抱えている。「ってか温泉旅行ってマジで何? ドラマみたいでキモすぎなんですけど」
「一応、母さんには連絡しておくからな。お前がここにいること」
「え、やだ。やめろし。日曜日中に帰ればバレないしいいじゃん」
「そういうわけにはいかないだろう。母さんが家に電話すればバレるぞ」
「家電ないし。ママが知ってるスマホにも連絡ないし。今頃二人でよろしくやってるし、パパから連絡したら逆に最悪だって。やめなよ」
しかしな、と父はスマホ片手に固まっている。
しばらく意味のないスタンプの応酬が続いても、珠理からのLINEは途絶えなかった。
『実はうちのバカ弟、今親戚の叔父さんのところに預けられててさ』『あたしも動画の話聞けてねえんだよ』
『親と喧嘩したから?』
『木暮家の習慣』
『なにそれ』
『喧嘩したらクールダウン』『あたしも結構叔父さんにはお世話になってる』
『なんかいいね』と打ち込み、親戚付き合いが希薄な安井家のことを思い返す。
前崎市は父の故郷であり、親戚も多い。小学生の低学年だった頃、夏休みに父に連れられて訪れたこともあった。先日も、転居の挨拶のため父と二人で『本家』と呼ばれている父の実家を訪問した。
養護教諭の新井奈々には、父が次男だからしがらみも薄いと説明した。だが、実態はもう少し複雑だった。『本家』において、東京から帰らずに勝手に就職し、勝手に結婚し、勝手に離婚して帰ってきた次男は、歓迎される存在ではなかったのだ。兄嫁や、父から見ての従兄弟筋の人々に、父は敬語を使っていた。実家は父にとって、くつろげる場所でも頼れる場所でもなかったのだ。
『弟迎えに行きつつどっかで合流しようぜ』
『明日?』
『そうそう』『昼頃に市役所前のファミレスでいい?』『こないだお前に説教したところ』
『弟さん連れてくるの?』
有名映画の殺人鬼をアレンジしたキャラクターが首が千切れそうなほど頷くスタンプが飛んでくる。『二人で事情聴取な。いい警官と悪い警官やろうぜ』
『僕がいい警官?』
『お前は悪い方に決まってんだろ』
どう考えても珠理は悪い警官の方が向いている。
画面に向かって苦笑いして、どう返信したものが思案する。気づけばテレビのニュースは終わっており、知らないドラマが流れている。
いつの間にか、話が終わったらしい多紀乃が良の背後に回り込んでいた。
「お兄ちゃん何ニヤニヤしてんの」
「なんでもいいだろ」良はスマホを伏せる。「父さん、明日の昼ちょっと出かけてきていい?」
「食事はどうするんだ? 外で?」
「うん。そのつもり」
「えっ、ちょっと待って、木暮珠理って」と多紀乃。隠したつもりの画面は、LINEの相手の名までしっかり見られていた。「手紙にあったあの金髪ギャルの木暮珠理さん!? やっば!」
「画面を見るのは……」
良の窘めなど多紀乃の耳に入っていなかった。「パパ! お兄ちゃんが女の子とデート!」
「何……?」父は立ち上がり、仕事鞄から財布を取り出す。「十六歳だったな。一六〇〇〇円持っていけ」
「いや、違う、そういうんじゃない」
「相手がそういうつもりだったらどうするんだ。備えあれば失礼なし。違ったときの憂いは飲み込めばいい」
「新聞記者なら慣用句はちゃんと使えよ……」
多紀乃は良の座るソファを掴んで揺さぶる。「ヤバいヤバいヤバい! デートデートデート!」
「だから違うって。珠理さんの弟さんも来るらしいし」
「あー、それ予定が変わって来れなくなるやつだー。絶対二人きりになるやつだー」
「だから違うって……そんなに言うなら多紀乃も来る? あとら抜き言葉ね、それ」
「えー? 邪魔しちゃ悪いしぃ」わざとらしく指先を頬に触れて言う多紀乃。
ああもう、と応じ、良はLINEに入力し、送信した。
『ごめん珠理さん、こっちも一人増やしていい? 不肖のバカ妹なんだけど』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。