3-3. 父と兄妹
ブラックライトで照らした妹、多紀乃からの手紙には、『ママの新しい彼氏がマジで無理。助けて』と、蛍光不可視インクで書かれていた。
それを知った父、弘行は即座に動いた。良も後で知ったことだが、多紀乃が持ち、良が連絡先を知っていたスマホは、母・麻美が管理してメッセージアプリ等のやり取りをすべて監視していた。だが父は、万が一の連絡用にと別のスマホを多紀乃に預けており、心得ている多紀乃もそのスマホで、別のアカウントから、父に連絡を取った。
そして母が新しい恋人と二泊三日で温泉旅行に行く隙を見て、多紀乃は家出を敢行したのである。
放課後、良はバスで前崎の駅前に出て、仕事を早上がりした父と合流。一つしかない改札口で、行き交う人々をじっと睨んだ。そして事前に連絡があった電車の到着時刻になり、ややあって、セーラー服の制服を着て、大きなボストンバッグに振り回されるようにしてホーム階から改札階に降り立つ妹を見つけた。
父と並んで大きく手を振る。多紀乃は少し呆れたように片手を挙げ、改札を抜けた。
「久し振り」と良は言った。「ちゃんと電車乗れた? 迷わなかった? 混んでた?」
「いや、ちゃんと来てるじゃん。てかお兄ちゃん、相変わらず気が利かないよね」多紀乃は抱えていたバッグを父に押しつけた。「でも……一応、ありがと」
見えないインクで書いたSOSのことを言っている。伏し目がちな多紀乃が伝えたいことは、言葉が足りなくても手に取るようにわかった。
「まさかあんな書き方するなんて思わなかった」
「手紙、ママに検閲されてるから。お兄ちゃんが気づいてくれなかったら、まあ、いいかなって思ってたし」
「検閲……? じゃあ、僕からのも母さんに読まれてたってこと?」
「……近くに車停めてるから」多紀乃の鞄を軽々と片手で持った父が言った。「晩ご飯まだだろう。何か食べに行こう」
多紀乃は歯を見せて笑う。「どうせ外食ばっかなんでしょ。ほんとに料理してるの?」
「してるさ。良は味付けがなってないからな。あれじゃ病院食だ」
「父さんは包丁が雑だろ。多紀乃聞いてよ。父さん、トマトのへたのところも切らないんだよ? どう思う?」
「それは……ありえない」
「野菜はなるべく余すところなく食べるのがいいんだ。お前たちもそうするといい」
「切るのが面倒なだけだろ……」
「なんか不安になってきたんですけど」多紀乃は苦笑いした。
小雨が降る中、駅前にいくつかあるコインパークに向かい、良は多紀乃と並んで後部座席に座る。そして父は車をチェーンのファミレスに向けようとする。だが多紀乃は「そういう気分じゃない」と言った。
すったもんだの末、最終的に向かったのは、テーブル席が多くファミリー客が多く訪れる、チェーンのラーメン屋だった。地方都市のロードサイドに多く店舗を構えているが、都内には一店舗もない。
明るく、一人客と家族連れが半々くらいで賑わう店内。父はお手拭きで顔を拭いつつ言った。
「普段、食事はどうしてるんだ」
「普通になんか作ったり、ウーバーしたり」と多紀乃。後ろが少し膨らんだようなショートヘアは、横から見ると菱形のシルエットを作っていた。「ママ、夜、あんま帰ってこなくて、お金だけ置いてくこととか結構ある」
「父さんの先輩が言っていたんだがな、あの手の食事配達サービスを頻繁に使う人ってのは、やはり真っ当な生活リズムが崩れていることが多いんだそうだ。CMでは真っ当な生活を送る忙しい人の手助けのように演出しているが、実態は違う」
「メンヘラってこと? ママもかなりそうだし」
「言葉を選びなさい。口にした言葉は、いつか自分に跳ね返ってくる」
はいはい、と気のない返事をして、多紀乃はタッチパネルで手早く注文を済ませる。その慣れ方だけで、この二か月あまり多紀乃が送ってきた生活が目に浮かんでしまう。
良と多紀乃の母、麻美は、フリーのイラストレーターだった。新聞コラムの挿絵を担当したことをきっかけに父、弘行と出会い、結婚。一男一女――つまり良と多紀乃の兄妹に恵まれた。
多紀乃は現在十四歳で、中学三年生。十六歳で高校二年である良からは二歳下になる。
良は、あまり妹の面倒を見ていた記憶がない。時間の自由が利く仕事だった母が、細々とした家事も子育ても一手に引き受けていた。一方で、多忙を極める仕事のために不規則な生活を余儀なくされる父。安井家は、両親が不足したところを補い合いながら上手くやっているのだと、まだ幼かった良の目には映っていた。
だがそんな母も、良の中学受験が終わり、多紀乃が塾に入るか入らないかという頃になると、お金とメモだけを残した夜の外出が増えた。
最初は、ちょっとしたイベント気分で、良も多紀乃を外食に連れ出していた。親のいない、子供だけでの食事は、それだけで特別な時間だった。だが次第に、浮かれた気分も沈んでいく。良は、ラッシュの電車に揺られて帰宅してから、母が残したお金を持って、近所のスーパーに食材を買いに行くようになった。そして、包丁遣いが危うい多紀乃と二人で並んで台所に立つようになった。母がいなくなるのなら、その役目は自分が埋めなければならないと、直感的に理解しての行動だった。
やがて家庭からは、安らぎが失われていった。
母は、仕事ばかりで家のことを省みない父を大声で詰るようになった。一方の父は、気障か、あるいは社会派な物言いばかりしていたのが嘘のように、寡黙になった。父はますます家に帰らなくなり、良はピーラーなしでじゃがいもや人参の皮を剥けるようになった。多紀乃は人の目を見るよりゲーム機かスマホを見ている時間の方が長い子になっていった。
浮気、という言葉を先に使ったのは、良ではなく、多紀乃の方だった。良ももちろん、家を出る時の母の華やいだ姿や、父が遠方への出張で数日帰らないとそれに呼応するように数日家を空ける母を見ていて、気づかずにはいられなかった。だが、良はスーパーの特売に目を光らせる代わりに家の中にある現実から目を背け、多紀乃は自傷的で残酷な言葉遣いを身に着けてしまっていた。
良が高校に上がり、結局公立校へ進んだ多紀乃が多感な中学二年を迎えた頃、両親の口喧嘩に『離婚』の一語が使われるようになった。どちらが先に言い出したのかは今となってはわからないし、尋ねようとも思わない。それ以外に選択肢がないことは明らかだった。
子供たちが独り立ちするまでは、などと父が言っているのを盗み聞きしたことがあった。母の相手が仕事を通じて知り合った出版社の編集者で、しかも妻子ある人物なのだと良に教えたのは多紀乃だった。
そして家庭内での言い争いは、ある日を境として突然に静まった。それが関係の改善のためだと無邪気に信じられるほど、良も多紀乃も子供ではなかった。婚姻関係の解消に向けて法律関係者を交えた話し合いが開始されたためであり、その話し合いは『親権』の一語のために大いに難航しているのだと、気づかずにはいられなかった。
そして最終的に、良は通っていた中高一貫校を退学して前崎中央高校の編入試験を受けて父と共に前崎へ行くことになり、多紀乃は母と共に東京に残ることになった。
ラーメンに載った山盛りの白髪ネギを割り箸で摘まんで多紀乃は言った。
「こんなん切れないよね。やっぱり機械が最つよ」
「厚切りの方がいいこともある」と父は機械で薄切りにされたチャーシューを箸で持ち上げる。「価値観は多様だ。ラーメンとは、人生である」
「行儀悪いからやめろよ……」
はーい、と返事をして、多紀乃は黙々とラーメンを啜る。父が、多紀乃の器に自分のチャーシューを乗せる。その多紀乃は、「いらない」と言ってチャーシューを良の器に移し、代わりに煮卵を奪っていく。この週末は新鮮な卵をゆで卵にして醤油ダレに漬けようと良は決意する。
母はずるずると音を立てて麺類を啜るのが嫌いだったな、とふと思い出す。家庭がまだ平穏だった頃、父はよく、母に麺を啜る音で文句を言われていた。
「ねえ、多紀乃」箸を休めて良は言った。「手紙も検閲されてたって本当?」
「うん。マジ。超最悪」ラーメンだけを見て多紀乃は応じた。「スマホは前から見られてたじゃん? だから手紙にしたけど、お兄ちゃんからの手紙、普通に封筒開けて私の机にあったし」
「この国では信書の秘密が保障されてるはずなのに」
「パパみたいなこと言うなし」顔を上げた多紀乃は砂でも噛んだかのような表情だった。
「明治憲法にも定められてる」日頃の習慣のためか、父は大盛りのチャーシュー麺を誰よりも先に完食して箸を置いていた。「親子とはいえ、よくないな」
「ママからしたら裏切りみたいなもんだし。たぶん。知らんけど」麺を啜って多紀乃は続ける。「ママ、パパのこと『安井』って言うんだよ。私も今の苗字は鈴木だけど。正直まだ慣れない」
「母さんが連れてきた人ってのは、どんな人なんだ」
「野間口さん? なんか、ライターの人なんだって。ウェブライター」
「知ってる人?」と良が訊くと、父は首を横に振る。
「直接は知らない。系列のウェブメディアで、数字が取れると重宝されてる男だとは聞いていた。父さんたちみたいな古いブン屋からは、あまり好かれてなかったな。文章に我や思想がなく、無難すぎた」
「ネット記事だったらそのくらいがちょうどいいんじゃないの」
父は頷く。だが、納得はしていないのだ。田舎に引っ込んでも、腹の底には記者魂を燃やしているのが、安井弘行という男だ。それは美点であり、同時に欠点でもある。
良は、ごちそうさまでしたと言って箸を置いた多紀乃に言った。
「野間口さんのこと、多紀乃的にはどうなの?」
「別に、普通」と多紀乃。「なんか、私のことは、恐る恐るって感じ。腫れ物扱いってこういうのなんだーってなった」
「端的に訊こう」父はテーブルに身を乗り出すようにして言った。「撫でられたり、触られたりは、したか? お前の嫌な気持ちを無視するようなことを、野間口はしたか?」
沈黙があった。
眉を寄せる父。目を瞬かせる多紀乃。店内の有線放送が全国共通の流行歌を流している。
そして多紀乃は、吹き出してお腹を抱えて笑い声を上げた。
「いや、ないない! そういうのじゃないから! マジでウケるんですけど!」
父は表情を変えない。「本当か? 何を言っても、多紀乃の責任じゃない。父さんがどんな誤解をしても、それは多紀乃のせいではなく、父さんのせいだ。言えずにいることが、もしあるなら……」
「だからそういうんじゃないって! お兄ちゃんなんとか言ってよ、もう」
「いや、だって、マジで無理って言うから、そういうことだったらどうしようって、僕も父さんも……」
「無理は無理なんだけど」一頻り笑うと椅子に背を預けて息を整え、多紀乃は言った。「ママ、あの人のこと、好きでもなんでもないと思う」
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