3-2. ハリコババァの伝承

 制服が夏服へと切り替わり、憂鬱な雨の季節が訪れる。バス通学者が増え、教室の後ろにバイク通学者のレインスーツがハンガーに吊して置かれるようになる。まだ夏本番には遠いことが信じられないほどの蒸し暑い日が続き、冷房のスイッチと設定温度を巡る生徒と教職員の戦いが日に日に激しさを増していく。

 嫌なことばかりの季節。だが朗報もある。図書室の立ち入り制限が解除され、とうとう利用できるようになったのだ。貸し出しカウンターの横にある、文芸部が活動に利用している談話室も含めて。

 自腹を切った化学担当の非常勤講師、吉田計彦の尊い犠牲は、とある二年の女子生徒が挙げた素晴らしい功績の陰に隠れている。再度の環境測定と、室温を上げてからの換気を繰り返すという力業、そして再々度の環境測定を経て、保護者説明会が行われた。安井良の父、安井弘行は、記者ではなく保護者として参加し、そして翌日、記者として学校を訪れ一連の顛末を取材した。数日後の地方版の社会面には、安井弘行が筆を執った記事が掲載され、狭い範囲で大きな話題となった。

 そんな喧噪も、一週間、二週間と経てば、日常の渦に押し流されていく。校門に時折出現していたユーチューバーが消え、保護者説明会の内容が全く理解できないのにひたすら職員室の電話を鳴らしていた保護者も大人しくなる。

 そんなある日の、放課後まであと一コマを残した休み時間のことだった。

「B組の小池海翔のこと知ってる?」とスマホ片手の梅森永太が言った。

 鼻で笑って松川博斗が応じた。「知らん。誰だ小池って。なんか運動部っぽい名前だな。敵か?」

「松川って、内弁慶だよね……」柔和そのものな笑顔でちくりと刺したのは、竹内淳也だ。

「知らない人だけど……その人がどうかしたの?」と良は応じた。

 よくぞ訊いてくれたと意気込んだ梅森が言うには、小池という生徒は今週の頭からずっと欠席中。それだけならば、コロナを経た今となっては珍しいことでもない。問題は、小池の欠席理由だった。

「土曜の夜に、このへんじゃ有名な心霊スポットに行って、呪われたらしいんだよ」

 旧針金山トンネルとは、前崎市の北方の、山間の地域にある、大正期に開通した文化財級のトンネルである。現在は近くに新道が開通したために日中でも交通量はないに等しいが、夏になると、若者たちが肝試しに訪れる。かつてこの地域を治めていた戦国大名に滅ぼされた落ち武者の霊が出るとか、トンネル工事で息子が死んだ老婆の霊が出るとか、噂は様々である。だが一番有名なものが、針金山のハリコババァ伝説だった。

「ハリコババァが出たらね、五円玉を投げるといいんだって。だから僕、いつも五円玉持ってる」と竹内。彼はどちらかというと信じやすい性質のようだった。

 一方、「何がハリコババァだよ」と鼻を鳴らしたのは、やはり松川だった。彼はどちらかというと信じないし、むしろ少し馬鹿にしているきらいもある。

「でさ、さっき回ってきたんだけど、これ」梅森はスマホを差し出す。どちらかというと内向的で人付き合いがあまり得意ではない三人と良だったが、梅森は多少いじられキャラになるのも厭わない性格が幸いして、学年の話題についていけるくらいには交友関係が手広いのだ。

 スマホで撮影されたらしい動画だった。車のライトに照らされたトンネルの入口で、派手な若者たちが気勢を上げている。件の旧針金山トンネル。そしてカメラの中で、カイトと呼ばれていた若者が、突然手脚を痙攣させ、そして嘔吐してその場に崩れ落ちる。

 倒れてからも手脚をばたつかせて苦しむカイト。平静を失った若者たちは、何かから逃げ出すように倒れたカイトを車に乗せようとして、映像が途切れる。

 木暮珠理が好きそうだな、とふと思った。まるで邪悪な何かが乗り移ったようなカイトの姿は、悪魔とエクソシストをテーマにした陰鬱なホラー映画から切り抜かれたワンシーンのようだったのだ。

「ハリコババァに憑かれた? 馬鹿馬鹿しい」やはり松川は鼻で笑う。「車酔いか何かだろ。こんなもんで騒ぐなんて」

 竹内は大きな身体を縮こまらせる。「ねえ梅くん。この『カイト』って……」

「ああ……」おどろおどろしい声色で梅森は応じた。「その小池海翔らしいんだ」

「え、じゃあその小池くんて、悪霊に取り憑かれて休んでるってこと……?」

 梅森が頷く。良は身震いする。

 証拠映像だ。

 呪いと言われているものを、これまで科学部の活動を通じて二件、解決してきた。だがそのいずれも、悪魔や心霊の関わる余地のない科学的な説明をつけることができた。科学部の金髪ギャルの言葉を借りるなら、『理性で説明可能な科学現象』である。

 だが、健康な人間が突然痙攣し、嘔吐するような科学現象などありえるのだろうか。加えて彼らは、何かから逃げているようだった。

 映像が途切れた時、旧針金山トンネルで、若者たちは何を目にしたのか。

 まさか本当に、両手に針を持った老婆の霊を目撃したのだろうか。

 その時、ハリコババァの姿を想像し、もう一度身震いした良の肩を誰かが指先で叩いた。

「ひっ……」

「あ……ごめん。ちょっと見てられなくて、つい」ポニーテールにセルフレームの眼鏡をかけた、今月になってようやく活動場所を取り戻した文芸部員の一人、支倉佳織だった。

 その佳織は、良の後ろに立ったまま梅森たちを指差した。

「そこの松竹梅。安井くんに変なこと吹き込まないで」

「うるせー支倉」と梅森。

「女子は引っ込め。今俺たちは、男と男の話をしている」と松川。

「ごめんね……」と竹内。

「ハリコババァっていうのは、この街の民間伝承なの。歴史は浅いんだけどね」眼鏡に手を触れて佳織は言った。「お子さんが戦争に行ったきり帰ってこなかった女性が、終戦後も一人で千人針を縫い続けたって話が前崎の北の方、ちょうど針金山トンネルがあるあたりに残っててね。三〇年くらい前にその方は亡くなっちゃったんだけど、彼女の千人針は郷土資料館で現物が展示されてる。その話が、いかにも不気味なトンネルと合体しちゃったのが、怪談の正体」

「……五円は。投げると呪われないんだろ」梅森が不満げに言った。

「ほんと、教養ってのがないよね」佳織は鳩尾のあたりで腕を組んで応じた。「千人針には五銭貨幣を縫い込むことがある。『死線』を越えて、大切な人が無事に帰ってこられるようにって思いがこもってるの。それが神社でお賽銭に五円玉を投げる習慣とくっついちゃって、現代まで伝わってるってわけ」

「……なるほど」梅森は一応納得したようだった。

「ほら、だから俺の言った通りだったろ。呪いだの心霊だの、馬鹿馬鹿しい」

「松川、郷土史みたいなこと一ミリも言ってないよね……?」穏やかさの化身のような顔で、また竹内が松川に針を刺す。

「……というわけで」佳織は椅子に座っている良と目線の高さを合わせて言った。「こんな郷土史研究みたいなこともしてる部活があるんだけど……安井くん興味ない?」

「あ、やっぱりそこに繋がるんだ……」

「どうかな? 綺麗になった図書室の談話室も使えるようになったし」

「でもこの流れってちょっとまずい気がする」

「……まさか」佳織の笑顔が強ばった。

「先回りしてみよう」良は席を立ち、教室の扉の前に立った。その直後だった。

 勢いよく扉が開いた。

 良の目の前に、学校でたった一人の、髪を派手な金色に染めた女子生徒がいた。

「マジで……?」

「うお、チャールズ」

 他でもない、科学部唯一の地面に足を着けている部員、木暮珠理だった。

「今日はどういったご用件で……」

「ちょうどよかった。次のプロジェクトが決まった。お前……」

「木暮さんっ!」大股で歩み寄ってきた佳織が、良と珠理の間に割って入った。「あなたA組でしょ? もう休み時間終わるから。早く戻ったら?」

「支倉さあ……」緩く癖のついた金髪の根元のあたりを掴むようにして珠理は言った。「世の中にはみんなで守ると得をするルールと、守るやつだけが損をするルールってのがあんだよ。学校の規則なんてのは全部後者だ。もうちょっと肩の力を抜いて生きろ、な?」

「それ校則とかの話で時間割関係なくない?」

 即座の反撃に、珠理は斜め上に目線を逸らし、腕組みし、頷いて応じた。「それもそうだな。お前が正しい」

「……そう。わかればいいの」

「そもそも関係ねーけど」珠理は拍子抜けしているらしい佳織を躱してF組の教室に入って良の前に立った。「チャールズ、今日放課後化学室な! おもしれーもんが出てさ」

「それなんだけど」良は顔の前で手を合わせた。「ごめん。今日は無理。実は……妹が来るんだ。東京から」

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