2-16. 大勝利?
*
「……お疲れ様でしたあ!」
放課後の化学室に赤木康平の声が響いた。
主演、林瀬梨荷。助演、赤木康平。脚本・助監督、安井良。そして監督、木暮珠理。筒井駿太を相手にした芝居が無事成功を収めたことを祝しての集まりだったが、化学室は飲食禁止だった。
「瀬梨荷さん、凄くいい感じでした!」と良は言った。「そっちの世界の知り合いがいそうな怪しげな雰囲気。ぴったりだった。瀬梨荷さんじゃないと無理だったと思う」
瀬梨荷は長いストレートの髪を払ってなびかせる。「ふふっ。ざっとこんなもんですよ。でも偶然だったよね。筒井くんのお母さんが事故に遭いかけてたとか、サッカー部で怪我人が出てたとか」
「身の回りの人全員を考えれば、一人くらいは危ない目に遭ってる人いるから。占い師とかの技術なんだけど、上手くいくかは瀬梨荷さんにかかってたから……」
「そこそこありそうだもんな。いやでも、筒井が母親の話の後に部活の話した時はヒヤヒヤしたわ」珠理は即席の台本を手にしていた。「『そのくらいでよかった』の台詞に入りかけてたじゃん。リカバーできてよかったけど」
「そういや良くん、支倉さんは呼ばなくてよかったの?」と康平。「あの人には事情話して協力して貰ったんだよね?」
「呼んだんだけど、遠慮されちゃって」
「それでいい。あいつが来ても鬱陶しいだけだから」珠理は自分の言葉に頷いている。
「素直じゃないんだからさあ」瀬梨荷は呆れ顔だった。「でも、これで筒井くんは手紙の送り主のこと気にしなくなるし、中島ちゃんは平穏無事だし、オールオッケーじゃない?」
「大変なのはこれからかもしれないよ」と言ったのは康平だった。「たぶん、また噂立つんじゃない? 超常現象でお悩みなら科学部に相談って」
「そうしょっちゅうこんなことがあってたまるかよ……」珠理が露骨に嫌そうな顔で肩を落とした時だった。
入口の扉が開き、使い込んだスリッパの足音が部屋に入ってきて、そして止まった。
染みや焦げ跡だらけの白衣を着た、ぼさぼさ頭に猫背の非常勤講師、科学部顧問の吉田計彦だった。その吉田は、しばし呆然と化学室内を見渡す。その手元から、ファイルや書類が滑り落ちた。
「四人もいる。放課後の、この化学室に、熱心な生徒が四人も……」
康平が足元に置いていたリュックサックをそっと掴み、瀬梨荷も実験台の上に置いていた鞄のファスナーを音が立たないようにそっと閉じる。
「いや、これはたまたまというか……」と珠理。
「みなさんもサイエンスの素晴らしさに気づいてくれたんですね。僕がこれまでしてきたことは無駄ではなかった……」吉田は眼鏡を外して目元を拭う。「しかし申し訳ない。今日は実験指導はできないんです」
「珍しいじゃんヨッシー。何か用事?」
「いえ、新井先生から食事に誘われまして」吉田は眼鏡を掛け直す。「何やら話すことが支離滅裂で、一体どういう理由で一緒に食事に行くのかさっぱりわからないのですが、奢ってくださるそうなので行こうかと」
「……いや、それどうなの」帰り支度をしていた康平が言った。
「それはちょっとないよ、ヨッシー……」と同じく隙を見て帰ろうとしていた瀬梨荷。
「ヨッシー、見損なったな……」珠理は良を見た。「どう思うよ、チャールズ」
「え、僕? 僕は……」集中する一同の目線に気圧されながらも良は言った。「非常勤講師の吉田先生より正規教員の新井先生の方が経済的には安定してるはずだし、価値観の押しつけはよくないんじゃないかな……って、思います」
一瞬、沈黙が流れた。
「この社会派!」珠理が実験台を叩いた。
「ひっ……」
「男子校!」瀬梨荷が立ち上がる。
「ひいぃ……」
康平は引きつった笑みになっている。「え、良くんマジで言ってる? そこもどうかと思うけど、そこじゃないからね?」
「この文系! 反省しろ!」珠理は良の襟首を掴んだ。「じゃあヨッシー、今日はこいつを説教するんであたしらも帰るから」
「そうですか。三十四番の進捗報告もお願いしますね」
「明日!」と珠理は言い捨てる。
「いや、ちょっと待って、あの、なんなんですか」
康平はバイクのキーを指先で回す。「市役所らへんのファミレスでいいっしょ? 席取っとくから連行よろしく」
「オッケー任せて」と瀬梨荷。
「助けて……」室内に目線を往復させると、吉田と目が合った。笑顔だった。
その吉田は、二人がかりで羽交い締めにされる良の方に近づいてきて、三つ折りにした書類を一枚、良の上着のポケットに差し込んだ。
「先生、これは……?」
「入部届です」吉田は笑顔を崩さなかった。「安井くんは僕の味方になってくれそうですので、是非ご検討を」
「そんな!」
泣いても叫んでも、化学室に良の味方は一人もいなかった。
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