2-15. 変な噂のある女
*
五月も終わりに近づいた、蒸し暑い日のことだった。
「例の手紙の件、一応解決したんだけど……知りたい?」
後ろの席の赤木康平に思わせぶりに告げられた筒井駿太は「そりゃ知りてえだろ」と応じた。
だが、康平はまだ勿体つけて続ける。
「いや、マジでヤバい話っぽくて。知らない方がいいっていうか……聞くことで巻き込まれるってのがあるらしい。本当に知りたいなら、詳しいこと知ってるやつに話してもらうけど……駿太どうする?」
無駄に高価で要らない見栄を張れるだけの自動車というものにやけにこだわる赤木康平のことを、筒井駿太は内心見下していた。ここは進学校で、県外への進学を目指す生徒も多いのに、公然とクルマ屋になりたいと語る康平は、駿太にとって一線が引かれた場所にいる存在だった。馬鹿で、いつか小汚い職に就く、今だけの友達。明るい性格は退屈しのぎにはうってつけだったが、それだけだった。
その康平が、何かに怯えていた。
〈ヨミガミ〉の話は、他校との練習試合の時に耳にした。対戦相手の女子マネージャが話していたのだ。その時は馬鹿馬鹿しいとしか思わなかったし、そんなものを馬鹿正直に信じているやつには他人に声援を送るだけの立場が似合いだとも思った。
だが、自分の下駄箱に封筒が入っていて、しかも中身が白紙だと、さすがに気味が悪かった。内心で馬鹿にしてきたすべての人の恨みが、手紙の形を取ったような気がしたのだ。
康平に話したのは、話題の科学部だったこと以上に、渦中の木暮珠理という髪を金色に染めた女子が、可愛いと評判だったからだった。どんなものか話してみたかったし、科学部だという康平はちょうどいい橋渡し役だった。
昼休み、康平に案内されて向かったのは、三階の化学室だった。黒い実験台に腰を預けて待っていたのは、木暮珠理ではなかった。
「林さん?」
「筒井くんどーも。一年の時同じクラスだったよね?」
林瀬梨荷。一年の時から変わらないロングの黒髪で、相変わらず長身の彼女は、実験台から降りて駿太に席を勧めた。
妙な噂が絶えない女子だった。揃った前髪やピアス穴のために漂う地雷系の気配や、手脚は細いのに胸が大きく男子の目線をよく集めているせいかもしれないが、一年の頃から経験人数三桁ともっぱらの噂だった。後に瀬梨荷自身が、「まだ二桁だよ」と否定したという噂も流れた。
他の女子と違って、同性の友達と群れていることが少ないことも、そんな噂に拍車をかけていた。瀬梨荷がいつも行動を共にしているのは、他でもない木暮珠理だった。
駿太が丸椅子に座ると、康平が部屋の扉を閉め、瀬梨荷の手が駿太の肩に触れた。
「大変だったね」と瀬梨荷。「あの手紙が届いてから、身の周りに変なこと起こってない?」
「いや、別に。全然何もないけど」
「身近な誰かが危ない目に遭ったりしてない?」
肩に手を置かれたまま顔を覗き込まれ、駿太は目を逸らした。
「……そういえば、母親が昨日、自転車にぶつかられそうになったとか言ってたな」
「そう。それくらいで……」
「そうだ。先週部活で、後輩が怪我したんだ。練習中の交錯で倒れて、受け身取り損ねて腕を折った」
「そう。それくらいでよかった」肩の手が離れた。「あの手紙ね、書いてある文字が復元できたの。でも、できなかったことにしていい?」
「どういうこと? 差出人とか書いてなかったのか?」
「あまり気にしない方がいいよ。お母さんや部活の後輩ならいいけど、気にすると気づかれる」
「なんだよそれ。気づかれるって誰に?」
「駿太」教室の壁に背を預けていた康平が言った。「頼む、ちゃんと聞いて。駿太のためなんだよ。そういうものなんだよ」
「……もしかして」駿太は傍らに立つ瀬梨荷を見上げて言った。「〈ヨミガミ様〉のこと?」
「私の知り合いにこういうの詳しい人がいてね。この辺ではそう呼ばれてるんだねって言ってた。でね、その人に聞いたんだけど……昔、ある街でね、同じように下駄箱に白紙の手紙が届いてね。あぶり出しをしてみた子がいるんだって」
「それ……何が書いてあったの」
「別に? 普通に読めた。でもね、差出人がおかしかった」と瀬梨荷。「前の年に不登校になって、川から投身自殺した女の子の名前だったんだって」
「死人からの手紙……」
瀬梨荷は駿太の向かいに腰を下ろすと、真っ直ぐ目を合わせてから頷いた。「本当は、その時に正しい処理をすればよかったの。どうすればいいか、筒井くんわかる?」
「……燃やすとか。火って魔除けになるっていうし」
壁際の康平が「あちゃー……」と言った。
瀬梨荷は目を伏せる。「うん。逆。本当は、水に流さないといけなかった。川から来たものは、本来あるべき場所である、川に流さないといけない。あぶり出しの火や、焼き捨てるための炎は、その何かの持つ力を強めてしまう。でも、魔除けって発想をしちゃうのは普通だよね。その何かは、そういう人間の心理も理解してたってことになる。結果として……あの手紙は、遠く離れた別の学校の下駄箱にも届くようになってしまった。うちの学校の下駄箱とか」
「あぶり出した子はどうなったんだ」
「行方不明。遺体も見つかってない」と瀬梨荷。「開けて、文字を読んだ者に、悪意を届ける手紙。あれは何か……そういう装置みたいなものなんだと思う。そういうものが、この世にはあるんだよ」
「……いやいや!」駿太は立ち上がった。「科学部でなんか調査したんだろ? その結果は? 温度が上がって消えるペンの色が消えるとかなんとか言ってたじゃん。なあ康平」
康平が静かに応じる。「科学部の調査では、下駄箱内の温度は、文字が消えるほどには上昇しなかった。つまりあれは、誰かが書いたラブレターの文字がうっかり事故で消えちゃったような単純なもんじゃないってことが、逆にはっきりしちゃったんだよ」
「ちゃんと処分してもらったから、安心して。ね?」と瀬梨荷。「最初に開封した筒井くんが本当は一番危ないの。封じるときに少し漏れて、それが周りで小さな事件を起こすことはあるかもしれない。でも、もう大丈夫だから。筒井くん自身が引き寄せない限りは」
「俺が引き寄せる……?」
「さっき言ったじゃん。考えちゃ駄目。本当はこうして話すことだって、あまりいいこととはいえないんだよ」
「……マジ?」
「冗談だと思うならそう受け取ってもらってもいいよ。でも、話さないでね。その軽率さが大きな不幸を招くかもしれないから」
「変な話聞いちゃったなーくらいで、忘れちゃえばオッケーだからさ。な?」と康平。
駿太はどう応じればいいのかわからなかった。心霊話など、周りの話を聞き流すだけのもので、自分が体験したことなど一度もなかった。むしろ、体験談を語るような人のことを、見下してさえいた。
だがここは化学室。
体調不良者を何名も出した呪いの正体が化学物質だと突き止めた科学部が、心霊現象だと言っている。
駿太は背筋に悪寒が走るのを感じた。自分の中で『まさか』が『もしかしたら』に変わったのがわかった。その変化は、一度起こったら二度と元には戻らない。
「俺、なんかしたのか? なんで俺のところにそんな手紙が……」と駿太は言った。
瀬梨荷と康平が微かに頷き交わしたことも、そして瀬梨荷が、黒板の横にある化学準備室に繋がる扉の方に目配せしたことも、駿太は気づいていなかった。
「偶然といえば偶然かな」と瀬梨荷は言った。「あの手紙、どの学校でも、必ず下駄箱の右から三番目、下から四番目に届くんだって。うちの二年の下駄箱だと、筒井くんのところだよね」
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