2-5. 恋文

 珠理が立ち上がって化学準備室に入り、しばらくしてチャックつきポリ袋を手に戻ってくる。職員室に用事があるという吉田が試薬用冷凍庫の鍵を受け取ると一度席を外し、化学室には珠理、康平、良の三人が残される。

「出てるぞ。やっぱり消せるボールペンだよ」

「なんて書いてある?」と康平。

「まあまあ、焦るな」珠理は実験台まで戻り、袋を開けて中の便箋をテーブルに置いた。先程までは白紙だった紙面に、黒いペンで書かれた文章が現れていた。「消せるボールペンに使われてるインクの染料は一度六〇℃で消したらマイナス二〇℃になるまで戻らない。だからこういう運用ができる。よくできてるよな」

「どれどれ……」康平が便箋を覗き込む。

「ふむ」と珠理。

「これって……」と良。

 それはまさに、ラブレターそのものだった。


『筒井くんへ

 驚かせてしまってごめんなさい。直接伝えると困ってしまうと思って手紙にしました。

 筒井くんはいつもクラスの中心にいて、みんなを笑わせていますよね。でも、私みたいな教室の隅っこにいる人にも気を配ってくれる人だと、私は知っています。

 去年の文化祭を覚えていますか? クラスTシャツに名前を入れる時、何人かの名前を省く流れになりかけたとき、全員の名前を入れようと声を上げてくれたのが筒井くんでした。筒井くんがいなければ、きっと私の名前はTシャツに入らなかったと思います。

 一方的な気持ちなのはわかっています。でもその時から、私にとってずっと筒井くんは特別な存在です。あなたの笑顔が私の宝物です。

 筒井くんのことが好きです。付き合ってください。

 返事は急ぎません。迷惑じゃない時に答えを聞かせてください。

 中島可奈』


「やっぱり筒井宛てか」珠理は腕組みで頷く。「いいやつっぽいじゃん。筒井って二人も三人もいないよな」

「筒井駿太だけだね」と康平。「中島さんってのも俺と同じ2‐Cの子だよ。確か写真部だったかな。たまに教室にデカいカメラ持ち込んでる」

「……クラスTシャツ」

「どうしたチャールズ」

 怪訝な顔の珠理と康平に目線を向けられ、良は躊躇いつつも続けた。「いや、文化祭のクラスTシャツって、実在してたんだって思って。すごい……」

「良くんどこに感動してんの」

「文化祭とか体育祭とか結構作らね? うちだと三年の特進以外は大体作ってるな」

「なかった。そんなものは、なかった。文化祭なんて受験予定の小学生と父兄しか来ないし、そもそも体育祭はないし、やっぱり、みんなで同じ物着て盛り上がろうみたいなノリって、男だけだと発生しないんだと思う。素晴らしい文化。すごい……」

「康平」珠理は乾いた笑みだった。「ちょっと変わったやつだけど、仲良くしてやってくれよ」

 康平も苦笑いする。「クラスTシャツでこんなに感動してるやつ初めて見たんだけど。なんか可哀想になってきた……」

「やっぱり中高一貫進学校の男子校は青春の敵だった……?」

「チャールズ!」

「はい!」

「お前の感動を蔑ろにするつもりはないけど、一旦置いとけ」珠理は実験が終わったのに着たままだった白衣を脱ぎ、括っていた髪を解いた。「この手紙、どうする?」

「筒井くんに渡せばいいんじゃないの?」と良。

 すぐに康平が言った。「その前に中島さんに確認した方がよくね? 仕方ないとはいえ、中身見ちゃったわけだし」

「確かに」

「その前に……」と言ったのは、いつの間にか教卓に戻っていた吉田だった。「下駄箱の温度は確認しなくても?」

「言われてみればそうですね」珠理がまた敬語になって言った。「下駄箱の温度が六〇℃になったってのはあたしの推測だし」

「隣の物理室に温湿度ロガーがあったはずです。明日私から話を通して、借りるようにしましょう。タバコの箱くらいの大きさですから下駄箱にも十分入ります」

「でも、消しゴムとかでせっせと消したような皺とかないよなあ」珠理は二枚一組の手紙をしげしげと眺めている。「やっぱ暖まって消えたんじゃね? てか冷やしてももう一枚は完全に白紙なんだけど」

「手紙が一枚で終わる時は一枚白紙を挟むのがマナーだから」と良。

「なんでそんなこと知ってんの」

「妹と手紙のやり取りしてて……」

「お前そんなことしてんのか。文系極まってんな」

「珠理さん文系のイメージおかしくない……?」

「筒井には俺から話通せばいい?」と康平。珠理が頷くと、康平はさらに続けた。「手紙の件はどうする? あいつには伝える?」

「復元に成功したことだけにしとこう。中身については伏せておいて、中島に確認してからだ」

「了解。中島さんの方にも俺から言っとこうか? あんま普段話さないけど」

「同じクラスなんだよね?」良は横から言った。「赤木くんだと、よっぽど気をつけないと手紙の主は中島さんだってバレちゃうんじゃ」

 珠理が頷いた。「それもそうだな。筒井に差出人に確認取るねって言って中島を教室の外に呼び出すとかしたら即バレじゃん」

 ばつが悪そうに康平は笑う。「さすがにそこまでヘマはしないって……」

「写真部の部室ってどこ? 今から行けば活動してるかも」

 良の思いつきに康平が応じた。「あそこ確か普段は各自、週に一回PC室に集まる形式だったと思う。何曜日だったっけな……」

「明日あたしとチャールズでC組行って話しとく。その時できれば手紙を書くのに使ったペンを確認しとくよ」

「え、僕も?」

「話が話だし、あたし一人で行って変な勘違いされたくないし」

「変なって……」

「あーもう、お前がそのへんのデリカシーがゼロだってことはよくわかったよ」

「駿太から返事あった」康平はスマホを持った手を挙げた。「温度測るやつ仕込んでもオッケーだって」

「……段取りはまとまりましたかね」教壇の吉田が言った。彼の前には、青色で何か文字とイラストが描かれたマグカップと水筒があった。「木暮さん。折角ですのでこれも科学部の調査研究プロジェクトとしましょう。通し番号34です」

「わかったけど……ヨッシーそれ何?」

「いえ、示温顔料の社会実装例をお見せしようと思いまして。ヨウ素デンプン反応のように身近なものでも示温インクを作ることは可能ですが、温度による変色の適用範囲は消せるボールペンだけではありません」

 吉田はそう言うと、水筒の中身をマグカップに注いだ。いつも仄かに薬品臭がする化学室に、コーヒーの香りが広がった。

 そして、青色だったマグカップのイラストが、ピンク色に変わった。

「これはサーモクロミックのエンタメ用途ですが、加熱されている機械に素手で触れないことを促すシールですとか、熱中症への注意を促すとか、逆に冷たいものを入れると変色するとか。様々な形で私たちの生活に関わっているものなのですよ」

「それはわかったけど、ヨッシーさ」康平が教壇の方をじっと見て言った。「自分はいいのかよ。飲食」

「僕はいいんですよ。危険を十分予知できますから」吉田はコーヒーを啜った。「みなさんは駄目ですよ」

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