2-4. でんぷんの化学

 原付バイクの爽やかとはいえない音が生徒用駐輪場から遠ざかってから三〇分ほど。手紙をよく調理に使うチャックつきのポリ袋に入れ、薬品臭の漂う化学準備室に置かれた鍵付きの冷凍庫に放り込む。そして良が最初に乗るはずだったバスから二本後の便まで乗り過ごすことが確定した頃に、買い物袋を携えた康平が化学室へ戻ってきた。袋の中身は指示通りの片栗粉にうがい薬、そして焼きそばパンとメロンパンだった。

 白衣姿の珠理は手早く髪を括るとさっそく片栗粉の封を開け、使い捨てのスプーンで少量取って試験管に入れ、半分くらいまで水を注いだ。

 一方、康平は焼きそばパンを食べようとして、「実験室内での飲食は控えてくださいね」と吉田に釘を刺されていた。

「良くんあげるよ。お近づきの印に」とメロンパンを手渡される。そう言われると断れなかった。

「よーし、見とけよ」と珠理。保護眼鏡を装着した彼女の手元では、ガスバーナーが青い炎を燃やしていた。

 珠理は木製の洗濯ばさみに持ち手がついたような道具を使って試験管を持ち、炎の中を潜らせるようにして少しだけ温める。軽く振ると、料理に使うような白く濁った状態からやや透明に近づいている。

「じゃあこの一様に分散したデンプン液に、ヨウ素ヨウ化カリウム水溶液を入れると……」

「青紫色になるやつだろ」と康平。良はというと、授業で習ったような気がするが、記憶が曖昧だった。

 果たして茶褐色のうがい薬を数滴垂らして試験管を振ると、瞬く間に試験管の中が青紫色に染まる。

「ヨウ素デンプン反応。小学校でも『デンプン液にヨウ素を入れると青紫色になります』って習うよな。でもこの反応、正確には『冷時』が入る。温めたらどうなるかというと……」

 珠理は試験管を振り混ぜながら、炎の中を繰り返し潜らせる。「炎の中で止めないで。突沸に気をつけてくださいね」と吉田が言い、「わかってますって」と珠理が珍しく敬語で応じる。

 液の変化にめざとく気づいた康平が「薄くなってる」と言った。

 目はバーナーの炎に向けたまま頷く珠理。そして何度目かで、反対側が見通せないほど深い青紫だったものが、若干の褐色を帯びた透明になってしまった。

「この通り。ヨウ素デンプン反応による呈色は、六〇℃以上では発生しないんだ。で、これを冷ますと……」

 珠理は実験台に備えつけられた流し台の蛇口を捻り、流水を試験管に当てて冷ます。すると、透明だった液が青紫色に戻った。

 また炎で温めると、液は透明に、流水で冷ますと青紫色に戻る。

「この通り。つまり、このヨウ素ヨウ化カリウムとデンプンの液は、六〇℃以上と以下を示す示温インクなんだよ」

 実験台の丸椅子に座った康平が「すげー」と声を上げた。

「珠理ちゃん、これなんでこんなんになるの?」

 珠理は試験管を試験管立てに置き、ガスバーナーの火を消し、保護眼鏡を取った。そして大判のノートを開いて、白衣の胸ポケットからボールペンを取り出した。

 そして珠理は、潰れた六角形に手脚が生えたようなものをノートに描き、OやHを書き足した。

「α‐グルコース。デンプンはこの1位と4位、この端と端な。または6位、にょきっと生えたところのOHが縮合して無数に繋がってできてる高分子だ」

「α‐1,4グリコシド結合といいます」吉田が教卓から言った。「私たちの唾液の中に含まれるアミラーゼはこの結合を選択的に切断することでデンプンをエネルギー源にするんですね」

「βもあるんですか」と良。

「一番右のOHが上下逆のものがβ‐グルコースで、これが多数縮合したものがセルロースです。葉っぱとかですね。人間はこれを消化できませんが、水を含んで膨潤する性質があるので便通がよくなります。要するに食物繊維です」

「じゃあ草食性の動物ってどうやって消化してるんですか?」

「種により差はありますが、たとえば牛はセルラーゼを分泌する細菌によって草をエネルギーに変えています。この細菌が嫌気性、空気に乏しいところを好むから牛の胃はいくつもあるんですよ。奥の方だと口から遠いので嫌気性細菌に有利でしょう?」

 へえ、と良は応じた。テレビの雑学かクイズの番組で聞いたことがあるような気もする。

「話を戻すぞ。デンプンのうち1位と4位で真っ直ぐ縮合してる部分は、らせん構造を取る。OH、水酸基がたくさんあるだろ? このOとH間の結合で電子の偏りが生じて若干のプラスマイナスが発生して……」珠理はノートに大きくばねのようなものを描く。「無数のグルコース同士でいい感じに引き寄せたり反発したりすることで、この形でエネルギー的に安定するんだ。大体らせん一巻きがグルコース六個半だ」

「自然の神秘だねえ」と康平が言った。

「プラスマイナスってなんでそんな」良はまたうっかり口を挟んでしまう。

「いいねえ、チャールズ。大分染まってきたじゃん」珠理は満足げな笑みを浮かべた。「その答えはあそこに書いてある」

 珠理が指差したのは、部屋の壁に模造紙大で張り出された、元素周期表だった。

「語呂合わせで覚えたなあ」康平は遠い目になる。

 珠理は周期表の横に立つ。「これ、右に行けば行くほど原子核に含まれる陽子の数が多いんだ。で、下に行けば行くほど電子殻が外に広がっていく。結合ってのは電子の共有で、一番外の電子殻がきりのいい数になるように電子をシェアすることで作られる。つまり、右上の原子は、プラス、電子を引きつける力の源が強く、かつ、シェアしたマイナスの電子とプラスの陽子の距離が近いってことになる。すると、OHの結合なら、Oの方に電子が引きつけられる。この尺度を電気陰性度っていって、周期表にちっさく書いてあったりする」

 Oの下にある細かい数字の一つを珠理は指差した。そして説明は終わりとばかりに実験台に戻ってきた。

「珠理ちゃん本当にこういうの強いよね」と康平。

「お前も理系クラスだろ」

「そうだけど、得意不得意はあるじゃん」

「まあ、向き不向きはあるよな。あたしも物理はあんま好きじゃないし。特に力学が」珠理は実験台の丸椅子に座ってボールペンを取る。「らせん型になるまではいいとするぞ。じゃあ、水中でヨウ素がここにあるとどうなるかというと、こうだ。らせんの内側に取り込まれるんだよ」

 珠理が丸が二つ並んだような図形をばねの内側に描き、それぞれの丸の中心にIと書き入れた。壁の元素周期表を見ると、右端の中程にI、ヨウ素の欄があった。

 また吉田が教卓から補足する。「無数のOHの電気陰性度で作られた目に見えない網に、I2の大きさのものがちょうどすっぽり収まるんです。普段、ヨウ素は水中で自然光を浴びるとうがい薬のように茶褐色になりますが、デンプンのらせんでフィルターされることで青紫色を返すようになります。これがヨウ素デンプン反応の原理です。ところでチャールズくん」

 自分のもう一つの名前になってしまったものを呼ばれ、良は「はい」と返事をした。

「聞き覚えがあるんじゃないかな」と吉田は言った。「この、大きな分子に小さな分子が取り込まれる現象のこと」

 聞き覚え、と言われてもピンと来ない。ただ、ノートに描かれた、らせんの中に取り込まれた分子の様子を見ていると、記憶のどこかが刺激された。

 金属音が鳴った。顔を上げると、珠理が左手首を振っていた。クラウンエーテル型のブレスレットが音の源だった。それでようやく思い出した。

「超分子化学、ですか」

「そうそう。これもチャールズ・ペダーセンの成果の延長線上にある話なんだよ」得意げに言って、また珠理はペンを取る。「じゃあ最後。なぜ青紫色が消えるのか。それは、温度が上がって分子が持つ運動エネルギーが増える、言い換えると、メッチャ動くようになると、らせんを維持しているグルコース、というか、OH基同士の相互作用より動きの方が強くなって、らせんが解けるんだ。するとヨウ素も外に出て行っちゃって、青紫にもならなくなるってわけ」

 吉田が続けた。「解けると、デンプンの水酸基はデンプンの分子内構造の代わりに外にある水と相互作用して膨潤します。これが片栗粉で料理にとろみがつく原理ですね。この時は1,6の枝分かれの程度やデンプン分子の長さも効いてきまして、片栗粉の具合がとろみをつけるのに最適なんだそうです。……ところで木暮さん、そろそろお手紙の方がいい具合に冷えたのでは?」

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