2-2. 科学部に入りなさい
「先生。僕は金髪恐怖症かもしれません」と安井良は言った。
放課後の保健室はロールスクリーンの隙間から漏れた夕陽が樹脂張りの床に日差しの線を刻んでいる。窓辺の観葉植物は青々と葉を茂らせ、明るい木目調でひょうたん型をしたテーブルの上には、この部屋の主の趣味なのか、箒をひっくり返したようなアロマディフューザーや緩い造形をしたサメのぬいぐるみが並んでいる。
生徒のメンタルケアにも力を入れている学校のようで、怪我や体調不良などの相談を聞くための、内科の診察室のような机と椅子とは別に設けられているのが、ひょうたん型のテーブルである。その栓の部分に置かれた背もたれ付きの椅子に、良は浅く腰掛けていた。
「大体想像はつくけど、詳しく聞かせてもらえる?」と応じたのは、養護教諭の新井奈々だった。白衣を着て、明るい色の髪をハーフアップにした優しげな風貌の彼女は、一応メモを手元に置いて、良に半身を向けている。
「金髪が近づいてくると、動悸と息切れがするんです」良は肩を落として言った。「この街にはギャルとヤンキーがたくさんいるって父に言われたんです。だから、僕は眼鏡をコンタクトにしました。ギャルとヤンキーにナメられたら学校生活は鈍色の日々になるだろうって。殴られたり蹴られたり、カツアゲされたり焼きそばパンを買いに行かされたり……」
「うん。ちょっと、古いかもしれないけど、集団生活だとどうしてもね、自己主張の強い子ってのはいるからね」
「僕、中学受験して、男子校の進学校に通ってたんです。中高一貫の。真面目な学校で、そりゃ、いじめとかゼロだったかっていうとそんなことないですし、昔は学校内で殺人事件とかもあったんです。でも、髪を染めてる人なんかいなかったし、周りの公立校から狙われて連続カツアゲ事件になったこともあったんですけど、その時も先生の一人は、紳士的にネクタイを締め、鞄を持てば襲われない、そういうのは同類同士の争いなんだ、君たちは違うはずだね? とか言ってて。ほんと、そのくらい平和っていうか、運動部とかも超弱くて、なんか、繁華街とかからも離れてたから、『魔の山』とか『風立ちぬ』とか、そのへんのサナトリウム文学を地で行ってるっていうか」
「前崎に来たのは、確かご両親が……」
「はい。離婚して、ここは父方の故郷です」
「じゃあお父様のご実家はこちらに?」
「一回挨拶に行きました。でも父さん、次男だからとかで、好きにしろって感じみたいです」
「お父様以外に、家族は? 一人っ子?」
「妹がいます。母と一緒に、東京で暮らしてます。手紙のやり取りだけしてるんですけど」
「古風ねえ。今時文通なんて」
「それはちょっと、色々あって。そんなことはいいんです」逸れた話を軌道修正する。良は、保健室の閉じた扉を指差した。「もう、ああいうのが怖いんです。いつあの扉がバーン! って開いて、金髪ギャルが僕を拉致にしに来るんじゃないかって想像しちゃうのが止められないんです」
「あの子は少し強引なところがあるからねえ」新井はとうとうペンを置いた。「でも、いい子でしょう? 確かに、私も最初はびっくりしたけど、真面目で素直で一生懸命で友達思いの子だと思うけど」
「授業中も、扉が目に入ると駄目なんです。金髪ギャルが突入してくる姿が目に浮かんで……」
「……年頃の男の子によくあるらしいじゃない。ほら、学校にテロリスト妄想?」
「どっちかっていうと、クローゼットの闇の中に潜んでいて、悪い子を連れ去る的な」
「チャールズくんは悪い子じゃないでしょ?」
「ひっ……」不意に告げられた偉大な化学者の名。良の脳裏に、白衣を着た金髪のギャルの姿がフラッシュバックする。目の前の養護教諭の白衣すら、恐怖を招き寄せる枕詞となる。「な、な、なんで、先生までその名前を」
「嫌だったの? 先生は可愛いと思うけど。それに、ちょっと素敵じゃない? アリョーシャみたいで」
「それ! それこそ! 人の不幸を高みの見物する者もまた同罪だと告発する小説ですから!」
「へえ。あれってそういう話だったのねえ。さっすがチャールズくん。ところで」新井は椅子を動かし、身体が良の正面を向くように座り直した。「部活は決めたの? 先生は、科学部に入るといいんじゃないかなって思うんだけど」
「どうして。嫌です。怖いです」
「表面上は優しい子ほど裏表があったりするからねえ。彼女は金髪だけど、最近じゃ珍しい、裏表がないいい子だよ?」
「ヤンキーに子猫! 確証バイアスっていうんですよそれ!」
「見かけで人を判断するのはよくないと思うけどなあ」
「人の内面は見かけに現れるじゃないですか」
良の抗弁を見事に無視して新井は続ける。「科学部ってね、とっても部員が少ないの。だからチャールズくんが入部してくれたら、吉田先生が喜ぶと思うなあ」
「そんな自己犠牲の精神はないです。僕には」
「それでね、入部したらね、『新井先生に薦められました』って吉田先生に伝えてね。できれば『新井先生にお礼をした方がいいと思います』とも伝えてくれると嬉しいなあ」
「お礼?」目の前の養護教諭が妙なことを言い出していることは良にもわかった。
「ええ。別にそんな丁寧なものじゃなくてもいいの。たとえば……そう、食事に誘ってくれたりすると嬉しいかな」
「吉田先生よく学食でカップ麺食べてるの見ますよ」
「あのねえ、チャールズくん」ひょうたんの上に身を乗り出すようにして新井は言った。「私はね、小学生の頃からずっと、綺麗で優しい保健室の先生に憧れてたの。大学は心理学系の学部で臨床心理士の資格を取って、養護教諭免状も取ってね。それで念願叶って採用試験に通って、この学校に配属された。でもね、この年になって、気づいたことがあるの。『綺麗で優しい保健室の先生』には、限度がある。三〇過ぎたら、ちょっと苦しいでしょう?」
「よくわからないですけど、美しさに年齢は関係ないってよくテレビで言ってます」
「私の自己認識の問題だから、テレビとか関係ないの。わかる?」
「わかりました」迫力に圧されて良は頷く。
「吉田先生って独身でしょう? 恋人もいないみたいだし」
「そうなんですか?」
「吉田先生を見てると、もっと自分を大事にする暮らしをさせてあげたくなるのね。たとえば……お弁当とか。髪もちゃんと切って、シャツにアイロンかけてあげて……」
「新井先生の自己認識の問題? と吉田先生は関係ないと思うんですけど……」
ここではないどこかを見ているかのようだった新井が急に冷たく言い放つ。「いいからあなたは科学部に入ればいいの。ね?」
嫌です、と即答できない圧力が宿った笑顔だった。
その時だった。
ベッドを囲んでいたカーテンが動いた。垣間見える足元をよく見ると、女子の制服のスカートが落ちていた。ベッドの上から手が伸びて、それを拾い上げる。ややあってから、カーテンが開いた。
「あ、良くんじゃん。おはよ」
髪に手櫛を通し、欠伸しながら現れたのは、制服のシャツの上にジャージの上着を羽織った林瀬梨荷だった。片手にはジャージの下と通学鞄。今日はちゃんと何かしら穿いて寝ていたようだった。
「具合はどう?」と新井。
「もう大丈夫そう。ありがと」と応じて、瀬梨荷は良に近づいてきて言った。「今奈々ちゃん先生が言ってたのは大体全部吉田先生好き好きな自分への言い訳だから、気にしなくていいよ」
「林さん?」新井の笑顔が瀬梨荷に向く。
「好き好き……?」良は首を傾げる。
「え、そこから……?」瀬梨荷は苦笑いになって言った。「恐るべし、男子校」
「具合悪かったの?」やり取りに釈然としないながらも良は訊いた。
「今日はサボりじゃないよん」瀬梨荷の空いた手がピースを作る。「でも色々聞いちゃった。良くんの個人情報。ごめんね」
「別に隠してないからいいけど」
「こうなるからカウンセリング室が別に必要って何度も掛け合ってるんだけどねえ」新井が溜め息をつく。「チャールズくん。そういうわけだから科学部に入りなさい」
「僕には文芸部が……」
と応じた時、勢いよく保健室の引き戸が開いた。
「ひぃっ!」
「おっ、いたなチャールズ」金髪と白衣の裾をなびかせて現れたのは、他でもない木暮珠理だった。「おもしれーの出たからお前もちょっと来い」
「なんで、僕関係ない」
「まあそう言うなって。見れば気も変わるから」珠理の手が良の襟首を掴んだ。
「助けて……」
「私帰ろっかな」と瀬梨荷。
「チャールズくん、科学部に入りなさい……」と新井。
珠理は頷いて言った。「観念しろって。置かれた場所で咲こうぜ、な?」
「花と違って人には足がついているんですけど」
「そういうんじゃねえんだよ、お前それ言うならタンポポは綿毛を飛ばすだろ」
「確かに」
「ほら行くぞ!」
「ひいぃ……」
結局珠理に引きずられる良。手を振る新井に我関せずの笑顔を浮かべる瀬梨荷。誰も助けてくれなかった。そして廊下まで連れ出されながらも、良は扉の端を掴んで抵抗を試みる。
すると瀬梨荷が手を伸ばし、指先が良の手の甲を擽った。思わず離してしまい、勝敗が決した。
その瀬梨荷は、保健室の方を振り返って言った。
「一応奈々ちゃん先生にアドバイス。言い訳がましくない素直な女性の方が男の人にモテるよ」
「余計なお世話!」新井の叫びは廊下まで響いていた。
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