1-14. 最後にして最大の謎
通学のピークを外れた路線バスは空いていた。先に乗り込んだ珠理が最後部座席に座り、良はその隣に腰を下ろした。三〇分に一本しかないバス。東京とは違う後払いの料金制に、ようやく身体が慣れてきた。
掠れた声で運転手が発車を告げ、バスが動き出す。沈みかけの夕陽で、車内はオレンジ色に染まっていた。続いて録音されたアナウンスが流れる。このバスは前崎駅行きです。お降りの方はお近くのボタンで乗務員にお知らせください。次は――。
良は、押し問答の末結局預けられた資料を開く。読み方の分からないグラフ。吉田が手書きしたメモ。その中に、何かの雑誌記事の写しのようなものを見つけた。頭に原著論文、と書かれていた。
いわゆる科学論文。現物を見るのは初めてだったが、軽く目を通しても、目につく言葉の一つ一つが難解だった。
だが、ページを捲ると、見覚えのある単語にラインマーカーが引かれ、付箋が貼られていた。
「1‐メチル‐2‐ピロリドンと、テキサノール」
もう一度表紙に戻る。『水性塗料の成分による新築学校校舎の室内空気汚染』と書かれていた。
読めるところだけでも読んでいく。
似ていた。寒い地域に、冬の時期に新築された学校で、体調不良者が続出、調査しても化学物質の濃度は基準値以下、そこでさらに詳しく調査したところ二種の化学物質の関与が疑われ、気温の上昇や引き渡し前の測定時に暖房を点けなかったために室内空気の汚染を見過ごして生徒たちが利用してしまったと推測されること。
父が言っていたことを思い出さずにはいられなかった。学校事故は、どこでも、何度でも、同じことが起こる。教育現場には、情報共有という概念がない。だからある学校で起こった事故の教訓が、他の学校に通う子供たちを守れない。
おそらく、吉田はあらかじめ、1‐メチル‐2‐ピロリドンとテキサノールが原因であると目星をつけていたのだ。同じ物質を都合よく化学準備室から持ち出せたのも、化学物質安全等データシートを見た珠理が欲しがることを予想して準備していたのかもしれない。
考察のところに、またラインマーカーが引かれている。
厚生労働省の検討会で二〇一七年、テキサノールを含む三種の化学物質について室内濃度基準を設けることが決定された。しかしその後、業界団体等からの反発によって見送りになった。理由は、代わりになる物質を探すことが難しいから。
そのラインマーカーを引いたところをボールペンで囲い、吉田の手書きで『危ないけど代わりがないのはよくあること 例:鉛』とメモされている。
理想だけでは世の中は回らないという趣旨のことも、吉田は言っていた。
隣を見ると、珠理がスマホで何かの動画を見ていた。字幕が小さい、映画か何かのようだった。
「何観てるの?」と訊くと、珠理は画面を見たまま応じた。
「悪霊が人を惨たらしく殺しまくる映画」
「なんでそんなのを……」
「支倉とよくこういうの観てたんだよ。あいつ、ぎゃあぎゃあ騒ぐから面白くってさ。何が忌書だよ、あのバカ」
閉じ込められた良のことを図書室の呪いだと思い込んで本気で怯えていた支倉佳織の姿を思い出した。言いそびれてしまったが、機会を見つけて正体を白状するのが賢明だった。
ふと気づく。
今回のプロジェクトは、珠理の強い希望で行われたと吉田は言っていた。
「珠理さん」
「何?」珠理が顔を上げた。
差し込む夕陽が金髪を輝かせていた。水田と水田の間を、バスは泳ぐように走り抜ける。路面の段差で車体が揺れるたび、珠理の胸元で緩く着けられた制服のリボンが揺れた。スマホ画面の映画が、止まることなく再生されている。世界で最も偉大な化学者の一人が開発した物質を象ったブレスレットが金属音を鳴らす。逆光の中で、透き通る目が良を見ていた。眩しさに、良は目を細めた。
訊いてみたかった。
転校生をモルモットにするほど必死になって図書室の忌書の謎を解こうとしていたのは、文芸部員で、図書室が使えずに困っていて、でも今は関係がぎくしゃくしている、ホラーや怖い話が心底苦手な友達のためだったんですか。何があったのかは知らないけれど、ポニーテールに眼鏡の彼女は今もあなたにとって、大切な友達なんですよね。
すべて飲み込み、良は言った。
「なんで牛タン焼いてたの?」
【第一話 おわり】
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