1-13. 解答編

 放課後。良と珠理が二人で待つ化学室にいつにも増してくたびれた様子の吉田が現れたのは、全校下校時間も近づいた頃だった。

「と、いうわけでですね。調査に入った環境測定の会社をせっついて速報を出させ、また、僕自身もサンプリングしたガスをGC‐MSで測定しました。その結果がこちらです」

 吉田は何かのグラフが印刷された紙を実験台に置いた。

「これがテキサノールの濃度ですか?」と珠理。グラフに目を凝らしていた。「ピーク面積は、えっと……」

「異性体がありますので、開裂した二つ分の合算です」吉田は実験台に置きっぱなしになっていた分子模型を取り上げ、一部を組み替えた。「一立方メートルあたり三四〇マイクログラム。ちなみに1‐メチル‐2‐ピロリドンが二〇〇出てますね」

「……それって危ないんですか?」と良は訊いた。

「厚生労働省のガイドラインで十三の物質について指針値が存在していると言いましたね? それとは別に、総揮発性有機化合物、略してTVOCの暫定指針値が設けられています。これが、全部合わせて一立方メートルあたり四〇〇マイクログラム以下となっています。よって、完全にアウトです。もっとも、今回の測定は予算の都合で非常に不十分なのですが……」

「こんなん出てれば十分じゃないですか」と珠理。

「いや、本当は部屋のあっちこっちからサンプリングすべきなんです。今回は対象となる物質が含まれた塗料などが使われている壁面の近くだけに限らざるを得なくて。予算の都合で」

「……ヨッシーが正規教員だったら?」

「その場合測定する時間を取ること自体が困難だったでしょう。教員はブラック労働なんです」

 珠理が苦笑いで良を見た。どう思うよ、と言われている気がして、良は同じ苦笑いを返した。

 だが、まだ少し納得がいかなかった。

「でも、テキサノール? が危ないとは限らないじゃないですか。指針もないし。全部合算ってのは、暫定なんですよね?」

「そういうんじゃねえんだよ」と珠理。「なんでも危ないって考えるのもオカルトだけど、特定の化学物質だけが危ない、だからそれを避ければオールオッケーなんて考え方も、オカルトだぜ。だから間を取って総量で規制しようとしてんじゃん。お前の考え方は、なんつーか、書類オカルトだよ。この文系め」

「確かに文系だけど……」

「特定の物質の危険性だけをあげつらうタイプのオカルトよりは、まだ文書主義という基本に立脚しているだけ救いようがありますよ」吉田は広げた書類を束ねながら言った。「でも科学的に誠実な、完全な因果関係の証明って、とても難しいんですよね。人体って化学物質への感受性に結構ばらつきがありますから、大規模なデータを集めないと何も断言できない。その隙に、木暮さんの言うオカルトが忍び込むんです。そして議論は現実から乖離していく」

「でも、これだけ調べれば、さすがに職員会議とか教育委員会? とかも動いてくれるっしょ?」

「それに関連しますが、一つ興味深いデータが得られています」吉田は束のうちの一枚を取り出して実験台に置いた。先程とは書式が異なっており、グラフの描かれ方も違う。「これは業者さん、まあ僕の高校時代の友人なんですが、彼のところが測定したHPLCの結果で、このピークはホルムアルデヒドを示しています。一立方メートルあたり八〇マイクログラム近く出ていまして。文科省の基準に六種の化学物質が指定されていると言いましたね? その六種にホルムアルデヒドは含まれています。基準値は一〇〇ですので、一応満たしているのですが……」

 珠理が首を傾げた。「前は出なかったのに?」

「ええ。おそらく、気温が上がったせいでしょう。前回の測定が行われたのは二月です。寒い環境で測定したため、あまり数字が出なかったと考えられます」

「それです!」良は声を上げていた。佳織の話を思い出したのだ。「司書の先生が体調不良になった時、暖房が強めにかかってて、それで気分が悪くなったと最初は疑われたって! その時一緒にいた人から聞きました!」

「なるほど」珠理は腕組みになる。「チャールズを放り込んだ時も、結構あの部屋締め切って暑くなってた。そのせいで、建材に染み込んでた化学物質が揮発して……」

「呪いになった?」と良は言った。

 珠理は頷く。「今現在の主な原因物質は、1‐メチル‐2‐ピロリドンとテキサノールである可能性が高い。でも、ホルムアルデヒドも、今測って八〇とかってことは、当時もし暖房をつけた状態で……体調不良になった人が出た時と同じ環境で測定してたら、基準値を上回ってた可能性がある」

「あの、珠理さん」ん、と言って顔を向けた珠理に良は言った。「ここって、冬寒い?」

「寒いぞ。雪も降るし。街中はそんなに積もらないけど」

「数年に一度しっかり積もりますね」と吉田。

「さて、科学部の仕事はあともう一つですよ、木暮さん」

 振られた珠理は、渋い顔で窓の向こうに目を逸らしている。

 代わりに良は訊いた。「これで終わりじゃないんですか?」

「ええ。プロジェクト終了の報告書を上げてもらいます。折角の成果ですから残すべきですし……職員会議に上げるにも、非常勤講師より熱心な二年の生徒の報告とした方が通りがよさそうなんですよねえ」吉田はUSBフラッシュメモリと印刷物を珠理に渡す。「測定結果の電子ファイルと、その他諸々の写真類が入っています。よろしくお願いしますね。そもそも今回は、あなたの強い希望・・・・・・・・で始めたプロジェクトですよ」

「わかった。わかったって。やればいいんだろ」不承不承で珠理は資料一式を受け取る。

 吉田は満足げに頷いた。「試験も近いですから。支障が出ない程度でお願いしますね。もちろん、安井くんと協力して作成しても構いませんよ? 彼も当事者ですから」

 良は珠理と顔を見合わせる。

 不思議だった。彼女なら、真正面で向き合っても顔に血が上らないでいられる。

 すると珠理は、資料一式を良へ押しつけた。

「お前やれ」

「いや、無理だって。僕全然わかんないし」

「文書だぞ。文系だろ。人間にはそれぞれ適性ってのがあんだよ」

「いや実験報告だよね!?」

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