1-12. 放課後化学室な!

 週明けの学校は、次第に近づくゴールデンウイークと、休み明けすぐに始まる中間試験のために、緩さと緊張感が同居した独特の雰囲気が漂っていた。

 まだ四月だというのに気温が高い日が続き、生徒たちの中には半袖で過ごす者もちらほらと現れる。教室の窓の向こうに時折早生まれのアゲハチョウが舞うようになり、葉桜は他の木々と区別がつかなくなる。

 週末、吉田が手配した業者が図書室に入り、室内のガスの採取が行われた。分析に回し、結果は数日で判明するという。十三種の調査については学校予算で行われることが決定したが、今回の調査はそれ以外の、科学部と良が絞り込んだ物質を主な調査対象とした。金額を節約するために、特別料金が必要な物質については、分析も吉田自身が市内の施設で機器の時間貸しを利用して行うとのことだった。

 『昔取った杵柄だね』と吉田は言っていた。学生時代は分析化学を専門にしており、分析機器の扱いはお手の物なのだという。

 施設、とは前崎工業技術試験センターのことであり、市の東側の工業団地に近い場所にある。技術開発の促進を目的に高額な機器の数々が取り揃えられており、運営の主体は行政。自前で機器を用意できない中小企業の技術者たちが主に利用する。もちろん、一般市民にも開放されているものだ。

 そして化学の授業がない日に合わせて吉田が休暇を取った日のことだった。

 昼休みに学食へ行こうとした良を、呼び止める声があった。支倉佳織だった。

 先日、ショッピングモールのフードコートで、林瀬梨荷に言われたことを思い出さずにはいられなかった。

『意識してるのか無意識なのかわかんないけど、良くんは支倉ちゃんの気を引きたいっていうか、自分にとっての完璧な女の子になってくれると思ってるんだよ。まずそういう幻想を捨てな?』と瀬梨荷は言っていた。『別に支倉ちゃんじゃなくてもいいんだよ。相手のことじゃなくて、自分のことしか考えてないから。ま、男の子、もっと大人の男の人でも、だいたいみんなそんな感じなんだけどね。それって恋愛以前の問題でしょ? もっと言っちゃうと、それって、お母さんへの態度だから。そういう人が女の子を嬉しがらせる小手先のテクだけ身に着けると、最初はよくてもそのうち女の子の方が一方的に辛い関係になっちゃう』

 そして、『ちゃんと恋愛ができる人って、本当に少ないんだよね……』と続け、瀬梨荷は遠い目をしていた。語ったような関係に陥った経験がいかにもありそうな物言いだったが、踏み込むことはできなかった。

 今日はお弁当じゃないの、と言う佳織と一緒に食堂へ行き、同じ定食を注文する。お昼時の食堂は混雑していたが、どうにか二人向かい合わせの席を見つけて腰を落ち着かせた。

 また文芸部へ勧誘されるのか。幻想を捨てろ、そういう態度は母親だけにしろ、と笑われる態度は取りたくなかったが、さりとて向き合って座ると顔に血が昇る。

 だが、佳織が切り出した話は予想と異なっていた。

「珠理と一緒に、図書室のこと調べてくれてるの?」

 良は頷く。「僕はモルモットだったけど……」

「あの子、私のこと何か言ってなかった?」

「特に聞いてはいないけど」と嘘をついた。珠理ではなく決まって瀬梨荷の口からだったから、あながち嘘というわけでもない。

 箸を置いて考え込む佳織に、良は訊いた。

「珠理、って呼ぶんですね」

「昔、ちょっと仲良かったんですよ」

「何かあったの?」

「ちょっとね。私の方が、酷いこと言って珠理のこと傷つけたから」応じて、佳織は慌てたように箸を取った。「ごめんね。急にそんなこと言われても困るよね。聞かなかったことにして?」

「じゃあそうします」

「感謝します」姿勢を正して佳織は言った。

 それからしばらく、定食のメニューの話や、教室で松川がよく語っている長距離乗車武勇伝のこと、文芸部に年二〇〇冊以上読む多読武勇伝部員がいることなど、とりとめもなく話す。

 そして、これまでの調査のこと。

「ピロピロなんとかと、テキサノールっていう物質に候補を絞った」良はスマホで撮影した、吉田の作った分子模型の写真を佳織に見せた。「でも、なんか妙だなって気がする」

「妙?」

「うん。だって、普通に使われてる物質ってことでしょ。普通に書いてあるし。危ないなら、なんで厚生労働省なり文部科学省なりの指定リストに入らないんだろう」

「別の原因があるってこと?」

「別の毒が……は、ちょっと飛躍してるか」

「やっぱり科学じゃ説明できない呪いなんじゃ」佳織は俯き、眉根を寄せる。「私ね、司書の先生が具合悪くなった時、現場に居合わせたの。最初は、暖房が強すぎたのかなって思ったんだけど……」

「暖房?」と問い返して、工事が行われたのは昨年という話を思い出した。冬場だったのだ。

 そして、良が木暮珠理の悪巧みのために図書室に閉じ込められたのは、春にしては気温が高い日だった。

「私や他の部員は大丈夫だったんだけど、しばらくして図書委員の子が同じように具合悪くなっちゃって……それって、本に触れる機会が多い順番でしょ? だからやっぱり、あの部屋にある忌書に呪われた順とか、強く呪われた順だって考えると、辻褄が合うし」

「いや、違うよ」良は箸を置いた。「それ、単に図書室の中にいた時間が長い順だよ」

「でも私、実は、幽霊を見たの」佳織は右手を左手で包んで、テーブルに身を乗り出した。「安井くんが呪われた日だったと思う。うん、珠理に連れてかれてた日。二階の教室から昇降口に降りるとき、突き当たりに図書室がある廊下通るでしょ? 私、あの日帰ろうとした時、見ちゃったんだよね。図書室の扉の窓で何かが動いてるの。それで、気になって、じっと見てたら内側から扉がドンって、何度も……」

「支倉さん、眼鏡外すと視力いくつ?」

「え? 外すと、0.5くらいだけど……」

「じゃあ、行き帰りとかは外してることもある? その時も、外してたんじゃない?」

「外してた……けど、見間違いじゃなかった!」

 佳織は見間違えていない。確かに、その時図書室の中に人影はあったし、その人影は内側から扉を叩いていた。他でもない、木暮珠理の悪巧みによって閉じ込められた良自身だ。

「他の呪われた人も、同じような心霊体験してるの?」

「聞いてはいないけど……でも、次は私が呪われるような気がするっていうか……」

「その前に科学部のプロジェクトが謎を解くよ」

「でも……」と佳織が応じた時だった。

 良の上着のポケットでスマホが震えた。珠理からのLINEだった。

『ヨッシーから速報 ビンゴ』

『今日放課後化学室な!!!!!』

 と書かれていた。

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