1-10. 2,2,4-Trimethyl-1,3-pentanediol monoisobutyrate

 昼休みに行ったテスト①に続き、放課後にテスト②と③が行われた。②と③の間には屋外に出て新鮮な空気を吸いながらの休憩時間が設けられ、良はその間にグラウンドのサッカー部と外周をランニングする野球部を眺め、スマホでレシピサイトを見て記憶の中にある冷蔵庫の中身と照らし合わせ、今夜の献立を考えた。

 そして③まで終了すると、まだ状況が今一つ飲み込めない良の前で、珠理は結果を記録したノートと多数の書類を実験台の上に広げた。室内には昼休みと同じく瀬梨荷がいたが、寝る代わりにずっとスマホを弄っていた。

 一様によく似た書式で書かれているものの一枚を取り上げ良は訊いた。

「これ何?」

「SDS」と金髪を後ろで一つに束ねた珠理は応じる。「化学物質等安全データシートの略。法律で指定されてる物質が含まれているものにはこれを出さなきゃいけないことになってるんだよ。ほら、このへんが吸い込んだら危ないかとか、こっちは保管するときの注意とか、燃えるかどうかとか、そういうの」

「今回の図書室の内装工事で用いられた塗料やニスのSDSです」吉田も黒板前から珠理のいる実験台に移動していた。「職員会議の議事録の添付資料なんですけどね。元は」

「以前に業者さんが入って図書室内のガスを調べたけど全部基準値以下だったって話したじゃん。あれって、実はたった六種しか調べてないんだよ」

「じゃあそこの二〇種は……」良はドラフトの中を指差す。

 珠理はSDSの束を指先で叩いた。「ここからピックアップした、測定済みの六種以外の揮発性または準揮発性有機化合物だ」

「そんなにあるの……」

「略してVOCとかSVOCとか呼ばれてます」吉田は眼鏡の位置を直して言った。「英文法の話ではありませんよ」

 吉田のジョークはあまり響かず、もっと大事に思えたことを良は問い返した。「じゃあ、調べて何も出なかったから安全って話、丸っきり嘘じゃないですか」

「でもね、文部科学省から出てる学校安全衛生基準では、その六種に対する基準値しか定められていないんですよ」

「六種が出なければ安全ってことになってるから、六種が出なければ安全である。何も嘘は言ってません、ってことになる。確かに嘘は言ってねえよ」珠理は舌打ちする。「でも、生徒のこと全然考えてねえ。教育委員会だかなんだか知らねえけど、自分たちが怒られねえことしか考えてねえんだよ」

「珠理さんって」良は憤慨している珠理を見て言った。初めて、自分から彼女の目を見た。「もしかして、そういう不正と戦いたかった?」

「そういうんじゃねえよ。ただ、ムカつくじゃん。現実っつーか、事実っつーか、とにかくそこにあるものを見ないで、浮ついた理屈だけ捏ね回して、ちゃんとやってますアピールだけ頑張るの」

「……それを先に言ってくれれば喜んで協力したんだけど」

 すると、黙っていた瀬梨荷が口を挟んだ。「それだけじゃないよねー? 珠理はさ。色々あってぎくしゃくしてる友達のためでしょ?」

「それは関係ねーよ」

「色々? 友達?」

「忘れろ」一言で良の質問を断ち切って、珠理はノートを手に黒板前に移動し、チョークを取った。「結果をまとめるぞ。三回テストして、チャールズが二回以上四以上の評価をつけたのは、五種類だった」

 珠理はチョークで次々と化学構造式を描き、その下に番号と、アルファベットの名前を書き添える。その間に良も席を立ち、教壇前の実験台を挟んで黒板を近くで見られる場所に立つ。

「実は、文部科学省が出してる学校安全衛生基準とは別に、厚生労働省が出してる基準で、シックハウス症候群対策として基準値が定められてる物質が十三種あるんだ。文科省の六種は十三種に全部含まれてる」

 良は言った。「あ、それ、あれだ、縦割り行政ってやつ……」

「それもムカつくけどちょっと置いとこう」珠理はチョークを持ち換える。「で、チャールズがピックアップした五種のうち二種は、この十三種に含まれていない」

 珠理は構造式を赤いチョークで丸く囲った。

「思ったより絞れましたね」と良の隣で吉田が言った。手元では、また知育玩具のようなものを組み替えている。「ここまで来たら、あとは実測ですね。十三種は保護者の意見もあったので遅かれ早かれ予算が下りて測定すると思います。問題はこの二種ですね。仕方ない。私費で測るしかないか」

「最初から二〇種測るのではいけないんですか?」

 良が訊くと、吉田は頼りなげに笑う。「高いんですよ、増えれば増えるほど……これとこれで勘弁してください」

 吉田は、組み立てていた玩具を実験台の上に置いた。

「これは?」

「分子模型です。木暮さんがそこに描いてくれたのと同じでしょう?」今度は得意げに吉田は笑った。「1‐メチル‐2‐ピロリドンと、2,2,4‐トリメチルペンタン‐1,3‐ジオールモノイソブチラート、通称テキサノールです」


 いつの間にか、一学期の中間試験まで一ヶ月を切っていた。これまで中高一貫の進学校にいた良は、自分の学校のカリキュラムがいかに普通と違うかを思い知ることになった。高校二年までに六年分の学習を詰め込んで最後の一年を受験対策に使うため、前崎中央高校の授業はすべて過去に習ったことのあるものだったのだ。

 とはいえ、サボっていると父がうるさい。『活字なら教科書でもいいだろう』と父は言うが、教科書は文庫サイズでも新書サイズでもない。

「よい環境と普通の環境とか前に言ってたじゃん」ある夜、共に食卓を囲む父、弘行に良は言った。「それって物差し次第なんじゃないの。母さんと父さんの物差しは、違ってたってこと?」

「かもしれないな」父は味噌汁を啜る。「良、出汁の素が少ないんじゃないか。調味料はケチるな。味に直結する」

「血圧とかもうちょっと気にした方がいいと思うけど」と良。「父さんと母さんが離婚したのって、僕のせい?」

「確かに、教育方針について対立はあった。中学受験には反対だったんだ。小学校六年生が大学受験のことなんか考えられるわけがないし……何より、お前が受験したいと言ったことになっていたのが、父さんは不満だった」

「言ったっけ、そんなこと」

「覚えていないなら、それだけストレスが強かったということだ。コントロールされていたんだよ。でも最近、職場の同僚からこんな話を聞いてな」父は味噌汁に七味唐辛子を振って続ける。「中学受験をするなら、親にやらされている、自分の意思がない状態の方がちょうどいいんだそうだ。失敗した時に親のせいにできるから、挫折が軽い」

「そういうつまんない話ばっかしてるから浮気されたんじゃないの」

「言うようになったな」父は口角だけで皮肉に笑った。この街に来てから、父はこのやや気障っぽい表情をすることが増えた。「ゼロではないが、他の多くの理由と並列な一つの理由に過ぎない。だから、お前が気に病むことはない」

「別に気に病んではいないけど」

「学校は楽しいか」

「別に、普通」

「母さんに」父は淡々と言った。「会いたいと思うことはあるか」

「それは、そんなにないかな。自分で台所に立つと、好きに文句言えるし」炒め物の不揃いな人参を箸で摘まんで良は言った。「父さん、包丁が雑なんだよ。厚みが違うと、火の通りにむらが出るだろ」

「なるほど。次は気をつける」

「多紀乃にはちょっと会いたいかも」良は離婚時に母方に引き取られた妹の名を挙げて言った。「あいつ元気でやってるのかな」

「手紙はどうした。書いてるんだろ」

「今書いても半端だし、プロジェクトってのの結果が出たらにしようかなって思ってる」

「科学部のか。入部するのか」

「そうは言ってないだろ」

「なぜムキになる」

「なってない!」良は鼻息荒く言い返した。

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