1-9. ヒト官能評価試験
連れて行かれた先は校舎の三階。廊下に沿って並ぶ特殊教室のひとつ、化学室だった。
「お、来たね」と科学部顧問・吉田計彦が言った。普通の教室とは違って生徒用と高さが揃っている教壇に木製の丸椅子を置いて座り、手元では知育玩具のような物を組み立てていた。黒いセルフレームの眼鏡はまるで重さに耐えられなかったかのように、目の半分ほどしか覆えない位置までずり落ちている。「時間もないし、一回目の試験を始めましょうか」
「良くんお疲れ」と言ったのは、林瀬梨荷だった。六人掛けの実験台に携帯できるエアピローを置いて、長い黒髪が流れるのに任せて頬を下に突っ伏していた。
「なんでここに……」
「私一応科学部なんだよね。名義貸しだけど」
「背に腹は代えられません。部員が少ないんです」と吉田。「せめて幽霊部員と言ってくださいね、林さん。名義貸しはそれが意味するところによっては犯罪です」
「えー、でもママのお店のお客さんがしょっちゅうそういう話してるし。てかヨッシー顧問の先生なのに幽霊部員はOKなの? ウケる」
「どうぞ、休んでいてください。年に一度環境測定は行っていますから、安全です。それなりの費用なので判を押す立場の方々には嫌な顔をされていますが」
「なんか焼き肉っぽい匂いするけどね」と応じて、瀬梨荷は目を閉じる。
「チャールズ、こっち」と珠理に言われ、部屋の後方に設置された、アクリル窓の降りる作業台のところへ案内される。換気装置の回る音が低く響いていた。
「なんですかこれ」
「ドラフトチャンバー。局所排気。揮発性の有機溶剤とかは基本ここで扱うから、覚えとけよ。こぼしてもこの台の上で留まるし、気づかないうちに蒸気を吸い込むこともない」
「どこかの誰かもその中で牛タンを焼けばよかったのですが」吉田が静かに言った。「丸一日かけてオイルミストを拭き取りましたが、まだ少し焼き肉の匂いがします」
「それは謝ったしあたしも掃除手伝ったじゃないっすかあ」
「二度としないこと」
「はい……」珠理は肩を落とす。横暴で傍若無人な印象ばかりが強い木暮珠理だが、顧問の吉田には頭が上がらないようだった。
「僕は何をすれば?」
「匂いを嗅ぐんだ」珠理は実験台の上に置いてあった白衣に袖を通し、ドラフトの中を指差した。「そこにあるやつのを。で、図書室で感じた匂いに似てるやつを探せ」
ドラフトには、二〇ほどの小さなガラスビーカーが、半透明のフィルムのようなもので封をされて整列している。ビーカーにはフェルトペンでそれぞれ複雑な構造式が書かれていて、ビーカー足元のドラフト底面に番号が書かれたテープが貼られている。
「これ、どうやって用意したの? 塗料から吸い出したとか……」
「いやそれはちょっと無理。標準品だよ」と珠理は答えた。「ヨッシーにあるかって訊いたら、出てきた」
「なにそれ……」
「本校の化学準備室にないものはありません」とヨッシーこと吉田が言って、黒板の横にある古びた扉を指差した。「欲しいものがあったら言ってくださいね。麻薬成分以外は大体ありますから」
「ヨッシーには逆らうなよ」と珠理。
そう言われると、ありふれた木製の扉が図書室以上の呪われた場所のように思えてくる。
顔を引きつらせる良をよそに、珠理はドラフトの扉を開いて中に手を伸ばし、すべてのビーカーを半回転させた。そしてビーカーの位置をランダムに入れ替える。
「構造式は区別つかないだろうけど、単純と複雑くらいの差はあるし、まあ、見るとテストが意味なくなるから、見るな。絵で覚えられても困るし」
「意味ないって、どうして」
「二回目やるときに一回目に自分がつけた評価を覚えてたら、バイアスかかるだろ。化合物名とかで匂いへの先入観がついても困るしな」
「ブラインドテストといいます」吉田が教室の反対側で、辛うじて聞き取れる声量で言った。「本来はもう少し厳密に、安井くんの方に見てやろうという悪意があっても大丈夫なように実験系を構築して実施するべきですが、今回は構いません」
すると珠理が良の耳元に口を寄せて言った。「さりげなく嫌味なんだよ、ヨッシーさ」
「言えてる」
「だろ?」珠理は歯を見せて笑った。
「何か言いました?」吉田は代わらず手元で何かの模型をいじっている。「ちょっとムカついたので言いますけど、ちなみに、ビーカーには番号だけ書いて、手元のリストで管理。それを三通り用意すればよかったんです。もっと言えば、試験管の方がよかったですね」
「……確かに。次はそうしよ」と珠理。また良に耳打ちする。「たまに指導者ムーブよりエゴが勝つんだよ、あの人」
「何か言いました?」
声量が上がったためか、寝ていた瀬梨荷が「ヨッシー、うるさい」と言った。
ばつが悪そうに黙った吉田を尻目に、珠理は良をドラフト前の回転丸椅子に座らせる。そして「ちょっと待って」と言って教室の端にあるロッカーから白衣を取り出した。
「忘れてた。これ着て」
「僕も……?」
「化学物質を扱う時は着るルールだから。ほら、立って、そっち向いて」
言われた通りの方を向くと、白衣を開いて持った珠理が後ろに立った。
右袖、左袖を順番に通す。前のボタンを留める。
「最後にこれ」正面に回り込んだ珠理が、自分の白衣の胸ポケットからゴーグルを取り出し、良の目に上から装着させる。「跳ねて目に入ると物によっては最悪失明だからな。保護眼鏡は大事。面倒でも忘れんなよ」
「はい、どうも……」と良は応じた。ゴーグルから人肌の温度を感じた。
「ヨッシー、手袋は?」と珠理。
吉田はいつの間にか何かの玩具で遊ぶのを止め、クリアファイルの中の書類を確認していた。「強酸や強塩基はありませんが、皮膚感作性の物質が含まれています。不慣れなことも考慮し、念のため着けておいてください」
じゃあこれ、と珠理は箱に入った薄いゴム手袋を差し出す。
一組取り出し、慣れない感触に難儀しながら装着する。そしてようやく、ドラフト前に座り直した。
「じゃ、始めんぞ」クリップボードを持った珠理が隣に立った。「そのパラフィルム剥がして、中の液体の匂いを確認する。鼻を直接近づけず……」
「それは知ってる。少し手前から扇いで確認……で、いいんだよね」
「オッケーオッケー。危なかったら言うから、あたしの指示に従うこと。チャールズは、それぞれのサンプルについて、例の図書室の臭気との似てる度を五段階で評価してくれ。訂正は受けつける。一つ確認する度に、そこの〇番のやつを嗅いでリセットすること」
少し離れたところに、やや白く濁った液体の入ったビーカーがあり、足元に〇と書かれたテープが貼られている。
「これは?」
「レモン汁」珠理はボードに固定したノートにボールペンで何か書き込んだ。「よし、じゃあテスト①、開始!」
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