1-7. チャールズ・ペダーセン
ぼさぼさ頭の男性教師は、
スカートを布団の中に入れてもぞもぞと着る瀬梨荷の前で、吉田は良に深々と頭を下げた。
「誠に申し訳ありませんでした。僕の管理不行き届きです。実はあそこの調査は、木暮さんに預けた科学部のプロジェクトでね。危険があるから僕の目の届かないところで図書室には入らないよう、重々言い含めていたのですが」
「すみませんでした。ごめんなさい」とまた珠理が頭を下げた。
「親御さんにも担任の畑中先生を通じてご連絡しました。迎えに来てくださるそうです。今日は一緒に帰りなさい」と吉田。
「そんな……大丈夫ですよ。この通り元気ですし」
「気持ちは大丈夫なつもりでも、身体がついてこないかもしれないでしょう?」と今度は養護教諭の新井が言った。「今日は大事を取って、ね?」
そうまで言われては抗弁できず、良は頷いた。
「それにしても、木暮さん」長身で猫背の吉田が、丸椅子の上で悄気ている珠理に覆い被さるようにして、笑みが少しもない顔で言った。「人体実験は相手の同意と十分な情報提供が前提で、学術的な興味より被験者の利益が優先されると教えたはずです。ヘルシンキ宣言をもう一度、頭から読み直すこと。いいね?」
はい、と良や同級生たちへの態度が嘘のように素直に頷く珠理。それがなんだか不憫に見えて、良は口を挟んだ。
「駄目、とは言わないんですか?」
「すべての薬は人体実験を経て承認されます。一律に駄目だと切り捨てるのは、教える側に都合のいい教育的な方便です。木暮さんはそれでは満足してくれませんから」
「でも、道徳っていうか……理想を言えばやらない方がいいじゃないですか」
「それじゃ世の中回らないってこと、わかりますよね。君たちも高校生なんだから」
口に手を添えて新井が控え目な笑い声を上げた。「吉田先生に生徒指導はお任せできませんね」
「僕は非常勤講師なので生徒指導も担任もしません。顧問は、三割人材不足で仕方なく、七割は趣味です。本当は毎日定時に帰りたいのですが」
「チャールズさあ」珠理はむくれながら吉田を指差した。「こういうこと生徒の前で言う先生どう思う?」
「わかんないけど、情報公開は市民の知る権利のために必要だと思う」
「社会派かよ」
「父親が新聞記者で……」
「マジのやつじゃん」
「ところで木暮さん」先程までの険しい顔と打って変わった微笑みで吉田は言った。「チャールズとは、チャールズ・ペダーセン?」
「そうですそうです! すごくないですか、安井良って。めっちゃ惜しいし!」
どういうこと、と訊くと、吉田がまず答えた。
「昔のノーベル化学賞受賞者です。デュポンに勤務していた化学者で、クラウンエーテルという化学物質を開発したことで知られていますね。超分子化学というジャンルの祖で、世界で最も偉大な化学者の一人です。そして、彼は韓国の釜山生まれの日系人でもある。日本名は安井良男です」
「惜しいだろ?」と珠理。「それにこの人、博士号持ってないんだよ。大学じゃなくて企業の雇われってだけでも珍しいのにさ」
「クラウンなんとかって……」と良が訊くと、吉田は珠理の、正しくは珠理の左手首を指差した。
金属のアクセサリーが巻かれている手を珠理は挙げた。よく見れば、少し広がったコの字の端を丸で繋いだものがいくつも連なり円を描いている。
「これが酸素で、ここが炭素鎖。C‐O‐Cの結合のことをエーテル結合っていって、それが王冠みたいに輪になってるからクラウンエーテル。これ、真ん中の空間に正の電荷を持ったものを取り込む性質があって……」
「共有結合ではない、非共有電子対を用いた立体的な取り込みが理屈だけではなく実在していると示して、しかもそれが自然界で意外と大きな役割を果たしているらしいし上手く使えば様々な機能を持たせられるぞ、という研究にその後繋がっていった」吉田は腕組みで頷く。「何より、見た目が美しい。エレガントです」
良には何を言っているのか理解できなかった。それでも、最後の美しいだけはわかった。「これ、化学物質の形だったんだ」
「構造式って言え」と珠理。
良のスマホが震えた。父親からのLINEだった。
「じゃ、私帰りまーす」いつの間にか身支度を調えていた瀬梨荷が言った。「良くんまたね」
どうも、と応じつつ、瀬梨荷の背中を見送る。服は着ている。思えばベッドの中にスカートを入れて穿いていた。つまり、二人きりだった時は、彼女はスカートを穿いていなかったことになる。そこに思い至ってしまい、別のことを考えることにした。手っ取り早く、走れメロスを頭の中で暗唱する。メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した――。
「でもヨッシー、これでプロジェクトは前進したよ」と珠理は言った。「図書室の地縛霊だか呪物の忌書だかに、チャールズを呪う理由はない。なのに呪われたってことは、呪いじゃない」
そうだね、と吉田は頷いた。「理性は常に勝利しなければならない。勝利しましょうよ、木暮さん。ところで安井くん」
「メロスは、単純な男であった」
「安井くん?」
「はい!」
「部活は決まっていますか?」丸椅子に座る良に覆い被さるように吉田の痩躯が迫り、濃い隈で迫力の宿った眼鏡越しの目が良を見下ろした。「科学部、非常に部員不足で……いかがでしょう?」
「木暮さんのご両親とも話した。畑中先生と吉田先生とも」車の運転席に座る父、
「やめてよ。絶対にやめて」
「大体、学校事故というものはどこでも、何度でも、同じことが起こる。教育現場には、情報共有という概念がないんだ。子供はそれぞれ、きめ細かい対応が必要なものだと言い訳してな。いい機会だ。徹底的に追求して、一箇所の事故の教訓が全国の子供たちを守れる仕組みがないことが国会で論戦の的になるまで……」
「だから本当にやめてってば……」助手席の良は深々と溜め息をついた。「確かにね、気持ちはわかるよ。いじめや嫌がらせを受けてる子供って無力感から親に相談しないことも多いもんね」
「よく知ってるな」
他でもない父がテレビのニュースを見ながらビール片手によく語っていることだったが、それには言及しないことにして良は応じた。「しんどさゼロかって訊かれたら、ゼロじゃないけどさ。本当に無理になったら言うから。大体、新聞記者が公私混同しちゃ駄目だろ」
「子供のためならいくらでも公私混同してみせるさ。親だからな」
「それさ、子供がいないところで言いなよ」
「そういうものか」
「そういうもんだって」
そうか、と応じた父は、返す刀でさらに続ける。「それで、どうなんだ。木暮さんという子は」
「どうって」
「可愛いのか。どうなんだ」
「どうでもいいだろ……」
「なるほど」
「なるほどって」
「いや、大体わかった」と父は言う。何をわかったのかは、良にはわからなかった。「その子と一緒に、図書室の呪いってやつを調べるのか?」
「まさか!」良は拳を握った。「僕はギャルのパシリなんかには絶対ならない。文芸部に誘われたんだ。誰が科学部なんかに入るもんか」
父は意味深に笑ったが、親子の会話がそれ以上深まることはなかった。その日の夕食は、珍しく外食だった。
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