1-6. ただの布
担がれるように連れ出され、柔らかいベッドの上に寝かされる。誰かの会話が聞こえたが、耳に入らなかった。自分が思うより疲れていたのか、目を閉じると寝入ってしまった。
そして目覚めると、薄いベージュのカーテンで区切られた白い天井があった。
消毒液の匂い。布団もシーツも、枕も真っ白なベッド。保健室のようだった。
枕元の丸椅子に、教室に置いてきたはずの鞄が置かれていた。身を起こして、枕元に置かれていたティッシュで鼻をかむ。喉や鼻の違和感は収まっており、先程までの具合の悪さが嘘のようだった。
ベッドを降りて、通学鞄にしているリュックサックからスマホを取り出す。時刻は十八時を回ったところだった。
すると、カーテンの向こうから「起きた?」と女性の声が聞こえた。その方向のカーテンを開くと、別のカーテンがあった。同じようにベッドを囲っており、不揃いに転がった指定のローファーが見えた。
「ここ保健室ですよね……?」
「それ以外ないじゃん」忍び笑い混じりでカーテンの越しの誰かが応じた。「珠理にやられたんでしょ? ちょっと話そうよ」
「木暮さんのお友達ですか?」
「うん。私も二年だよ」
「カーテン開けてもいいですか」
「いいよー」
「やられたっていうか、モルモットにされたっていうか……」良は恐る恐るカーテンを引いた。
胸の下あたりまで布団を被って、身体を横にして頬杖をついた女子生徒がいた。シャツ一枚で、胸のリボンも着けていなかった。そのリボンとベージュのセーターは、枕の上の壁にハンガーで掛けられている。
胸のボタンは二つ目まで外れていて、鎖骨が見えていた。見えるべきでないものまで見えてしまいそうで、良は慌てて目を逸らした。
「何キョドってんの?」
「え、だって……」
「だって、何?」唇が値踏みするような笑みを作る。
理由を言えるわけがない。カーテンを開いたらまるでグラビアみたいな光景だったのだ。せっかく落ち着いたはずの体調不良がぶり返しそうだった。
「F組の転入生だよね? 私も文系、E組」
「はい。今学期の頭からで……どうも」
「
「安井良です。高い安いの安に……」
「良くんかあ。私は瀬梨荷でいいよ」枕元のスマホを取って、画面を見せてくる。メモ帳機能に瀬梨荷と三文字入力されていた。
「どうも……」
そこで瀬梨荷は半身を起こす。「災難だったね。さっき話聞いちゃったんだけど」
「あの、木暮さんは」
座ったら、と言われてベッド脇に置かれていた丸椅子に腰を下ろす。
「化学室じゃない?」瀬梨荷は寝乱れた黒髪に手櫛を通していた。「もう奈々さんもヨッシーもブチ切れで、珠理今頃めちゃくちゃ説教されてるよ。もう結構経ってるけど戻ってこないし。あっ、ごめんね、どっちも知らないか。奈々さんってのは保健室の先生で、ヨッシーは科学部の顧問」
「瀬梨荷さんは、大丈夫なんですか? 休んでなくても」
「私? 午後なんか眠くてずっとサボってただけだから大丈夫。良くん優しいね」瀬梨荷は腕を上げ伸ばして溜め息をつく。「今のうちに帰ろっかな。良くんスカート取って」
「……はい?」
「私のスカート。そこ」
よくわからない単語が聞こえて聞き返してしまった良に、瀬梨荷はベッドの足元を指差した。確かに、女子の制服のスカートが落ちていた。グレー地に白と赤でチェック柄の入ったものだ。
スカートが落ちている。そのスカートを穿いているはずの林瀬梨荷の下半身は、白い春夏用の薄掛け布団に覆われている。良は思わず視線を往復させてしまった。直視してはならない現実がそこにあった。
「良くんさあ、なんかエロいこと考えてない?」
「ないです! 考えてないです!」
「えー? 目がエロいんですけど」
「し、し、しょうがないじゃないですか!」
「大丈夫だって。穿いてるから」
「よかった……」
良は丸椅子から立ち上がり、スカートを拾い上げる。仕立て直しているのか、随分と丈が短かった。ただの布なのに、持っているだけで汗が出そうだった。東京の家でよく見ていた妹のものと、同じスカートという名前を持つものだとは思えない。
変わらずベッドから出る気配のない瀬梨荷。スカートを両手で持ったまま良は言った。
「穿いてるんですよね……?」
「穿いてるよ。パンツは」
「ぱ……?」
何が面白いのか、瀬梨荷はお腹を抱えて声を上げて笑う。「何それ、良くんそんな固まんなくてもいいじゃん!」
「いや、だって……」
「冷静に考えようよ」急に神妙な顔になる瀬梨荷。「私は、スカートを穿いてないとは言ってないよね」
「はい」
「『穿いてる』にも、『パンツは穿いてる』にも、『スカートを穿いてる』は含まれるよね」
良は頭の中で、転入試験のために解いた数学の問題集に書かれていたベン図と集合記号を思い浮かべた。ド・モルガンの定理が重なるような重ならないような。猛勉強の内容が思い出され、良は言った。
「『スカートを穿いていない』も含まれますよね……?」
「そこに気づくとは……やるじゃん良くん」
「どうも……」
するとその時、部屋の扉が開いて、白衣の三人組が姿を見せた。
一人は痩せぎすで大きなセルフレームの眼鏡をかけた、長身で猫背の男だった。あまり見た目に頓着しない性質なのか、髪はぼさぼさで白衣はあちらこちらが何かの染みや焦げ跡で汚れていた。たぶん、科学部の顧問だという教師だ。
もう一人は、明るい色の髪を後ろで一つに束ね、目鼻立ちのはっきりした女性だった。前を閉じて着た白衣の裾から、淡い色味のスカートの裾が覗いていた。こちらが養護教諭だろう。
そして最後が、制服の上に白衣を着た金髪の、木暮珠理だった。
まず、痩せた眼鏡が足を止めた。その背中にぶつかるようにして、どうしてかほとんど後ろから抱きつくようにして養護教諭の女性が立ち止まった。そして一歩引いたところで足を止め、顔を上げた珠理が言った。
「……何やってんだ、お前ら」
眼鏡の男性教師が言った。「元気そうでよかった。でも慎重さのない大胆さは無謀といいます。僕らが見てないところでやってね」
最後に養護教諭の女性が言った。「毎年一組はいるんですよねえ。本人たちはバレてないつもりなんですけど、誰が片づけてると思ってるのやら」
瀬梨荷が甘えた声を上げる。「やーん良くんのエッチ、だからやめようって私言ったのに。きゃっ」
「言ってない! 誤解です!」良はスカートを放り出して声を上げた。
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