1-5. 呪いでないなら何なのか

 仕方がないから本を読んで時間を潰そうにも、本には触れてはならないのだという。すると、本格的にすることがなくなってしまう。図書室の端から端まで何歩で移動できるかを繰り返し確認しても、十五分しか経っていなかった。

 春にしては蒸し暑い日だった。エアコンのスイッチの場所はわかったが、押していいものかしばし迷い、結局押せなかった。

 書棚を端から端まで見て回ることにした。運が良ければ、呪物と化した『決して動かしてはならない本』を発見できるかもしれない。

 図書室の入口付近には、ごく最近発行された小説や実用書が並んでいる。貸し出しカウンターの横には会議室のような部屋があり、ここが本来、文芸部が活動に使っている場所のようだった。奥の方に進むにつれ、年季の入った全集や、古くなってしまった年鑑や図鑑の類いが並んでいる。一旦カウンターに戻ってコピー用紙と鉛筆を拝借し、ひとまず国内小説、海外小説の棚を一冊ずつ確認して読んでみたい本をピックアップしていく。

 それにも飽きると、入口付近のベンチに腰を下ろした。雑誌の類いが目につき、雑誌は本に入るのかと思案する。

 女生徒の自殺事件が起こったのは少なくとも一〇年前なのだという。一〇から一〇〇年とひどく幅は広かったが、雑誌の四月号が呪いの忌書である可能性はゼロだろう。至って真面目な雑誌ばかりが並ぶ中、良は文芸雑誌を手に取って読み始めた。壁の時計を見ると、白衣を着た金髪ギャルの木暮珠理が立ち去ってから、三〇分ほどが経過していた。

「対照実験……?」

 その珠理が発した言葉を良は思い出した。

 派手な金髪のギャルにはとても似合わない言葉だった。そもそも白衣が似合わない。科学部というのもミスマッチだ。竹内は彼女が他の科学部員を追い出して化学室を根城にしているようなことを言っていたし、実際良は牛タンを焼いている彼女の姿を目撃した。だが、自分勝手で傍若無人に振る舞い真面目な科学部員を追い払うような人が、図書室の呪いを科学的に検証しようなどと考えるだろうか。手段は最悪だが。

 目が活字の上を滑っていた。埃っぽいためかやけに鼻がむずむずしていた。

 そこで気づいた。

 リフォーム直後でほとんど使われないまま閉鎖されたのなら、埃っぽいのはおかしいのではないか。

 良は雑誌をラックに戻してもう一度棚に並んだ本を確認する。管理は行き届いており、古い本でも上に埃が積もっているようなことはない。棚もまだ木材の香りがする。

 いつの間にか、部屋に入ったときは気になった新築の匂いが気にならなくなっていた。鼻が慣れてしまったのかもしれない。

 だが、喉が少しイガイガする。暑い場所で水を飲んでいないせいかもしれない。良はブレザーの上着を脱いでベンチに置いた。

 あー、あー、と声を出してみる。やや喉が塞がっているような感覚がある。

 その時、入口の覗き窓の向こうに人影が動くの見えた。良は慌てて駆け寄る。本棚を眺めている場合ではなかった。扉の前で待機して、誰か通りかかったら助けを求めればよかったのだ。

 近づいてみると、人影は思ったより遠かった。図書室は一階の階段から奥まった場所にあり、昇降口の方からは九〇度右になるためこちらに目を向ける生徒はいない。バスの時間が近いためか、時々制服の生徒たちが階段を下りてきていたが、閉鎖されている図書室に用事などないのだろう、誰も閉じ込められている良に気づくことはなかった。

 すると、見覚えのあるポニーテールが見えた。コンタクトレンズに変えた時に度数を上げたおかげだった。

 目を凝らして確認する。少し俯き加減で歩く、支倉佳織だった。眼鏡は外していた。

 大声を上げてみようか、でも扉越しに聞こえるかわからないし、気づかれなかったら恥ずかしい。躊躇っていると、彼女は昇降口の方へ向かってしまう。

 良は閉じた扉を掌で思い切り叩いた。

 佳織がぴくりと震えて足を止めた。

 聞こえている。良は何度か扉を叩き、覗き窓から軽く手を振った。

 佳織がこちらを見ていた。良はさらに扉を激しく叩き、思い切り手を振った。廊下の端にある図書室にいる良と真ん中の階段を下りてきた佳織の間には距離があったが、目が合った気がした。

 だが佳織は、肩を竦ませ、両手で自分の口のあたりを覆った。

 そして佳織は一目散に走り去った。

「そんな……」

 残された良は肩を落とし、その場に座り込んだ。

 いや、まだだ。良は気を取り直して立ち上がり、窓を覗き込む。すると今度は松川たち三人が、昇降口の方へ勢いよく走り抜けていく。図書室の方など一顧だにしなかった。

「そんな……」

 良はまた座り込んだ。

 この学校での顔馴染みは、もう畑中先生しか残っていない。教室に鞄を残して金髪ギャルに拉致されたとしても、二週間前にやってきたばかりの転校生のことなど、誰も探してはくれない。またしても、やけに社会派で大袈裟な物言いばかりする父親の言葉が脳裏に蘇った。

『現代は、関係性の希薄の時代だ――』

 気づけば良は肩で息をしていた。扉を必死で叩いたせいかもしれない。吸っても吸っても、喉が狭くなって空気が入っていかないような感覚があった。

 ひとまず立ち上がって、またベンチに腰を下ろす。そこで気づいた。

 最初は司書の先生。次に図書委員や文芸部員が体調不良になった。その原因は、リフォーム工事で呪われた本を動かしたため。

 この息苦しさや喉の渇きも同じなのではないか?

 これこそが、かつて図書室で自ら命を絶ち、無念を本に宿らせた女生徒の呪いなのではないか?

 目の前に星が舞っていた。頭の中で何かが破裂しているように視界がちらついていた。良はベンチに倒れ込んだ。

 どれほど時間が経っただろう。壁の時計の文字盤が霞んで見えなかった。度が強めのコンタクトレンズのせいか目眩がした。

 鏡を見ないと外すこともできない。こんなことなら、どんなに眼鏡だとナメられてギャルとヤンキーのパシリだぞと脅されたとしても、眼鏡を通せばよかった。実際は白衣を着た金髪のギャルの実験台にされて、数十年前に非業の死を遂げた女生徒に呪われている。どちらも女の子だ。こんなことなら平和で何も起こらない男子校にいればよかった。妹からの手紙に躍っていた文面まで蘇ってきた。超ウケるんですけど、と書かれていた。

「全然ウケないよ……」

 頭痛がした。椅子では休まらず、ずるずると滑るように床に身体を横たえた。

 その時だった。

 扉が揺さぶられる音がした。そして鍵が回る金属音と共に、金色の影が飛び込んできた。

「おいチャールズ! 大丈夫!?」

 木暮珠理だった。他にも大人がいるようだったが、気に掛ける余裕はなかった。

 それでも一つ、彼女に伝えなければならないことがあった。

「呪われたよ、珠理さん」と良は言った。「呪いじゃないってことだよね。あれ? 呪われたのに……?」

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