1-4. 人体実験

 階段を下りると、先に立つ木暮珠理は、良がまだ立ち入ったことのない場所へと進んでいく。学校案内のパンフレットに描かれていた校内図を思い出しつつ、良は金髪で襟が隠れた白衣の背中に言った。

「この先って、図書室だよね?」

「そう。図書室の呪いの本。触れてはならない忌書」珠理は肩越しに振り返る。「噂は聞いた?」

「うん。地縛霊がいるとか、なんとか」

「あたしも色々聞いて回ったんだけどさ、それはもう色々派生があってな。年代からして滅茶苦茶なんだけど、まとめると……」

 それは今から遡ること一〇年~一〇〇年ほど前のこと。ある一人の女生徒が、図書室で首を吊って自殺した。彼女はクラスで激しいいじめを受けており、図書室にある、ある一冊の本だけを心の支えにしていた。だが、人の心は、本が支えるには重すぎた。やがて彼女は心を闇に蝕まれ、自ら命を絶った。発見した教師によれば、揺れる彼女だったものの足元には、彼女が心の支えにしていた本が落ちていたのだという。

 そして彼女の嘆きと絶望は、呪いとなって本の中へと乗り移った。

 五万冊の蔵書の中に紛れてしまったその本は、最初は触れた者の心を壊した。やがて誰にも触れられることなく書棚の中に放置され、忌書――『決して動かしてはならない本』として、代々の司書や図書委員、文芸部員へ密かに口伝されるようになった。

 だが昨年、老朽化した図書室の改修工事が行われた。伝わっていた噂話から、生徒の間には危惧する声が上がった。だが当然、大人たちは、そんな下らない怪談話は一笑に付した。むしろ老朽化した壁や空調設備による本の傷み、棚が破損することで生徒が怪我をする可能性の方が重要だった。

 昨年の秋に工事は終わり、一旦搬出されていた本が再び収められた。古びていてそこかしこに黴や染みの跡があり、本当に幽霊でも出そうな雰囲気だった図書室が綺麗になったことで当初は誰もが喜んだ。

 最初の犠牲者は司書の先生だった。

「めまいや吐き気を訴える人が続出したんだよ」と珠理。「次は図書委員。そんで文芸部。そんなん噂になるに決まってるだろ? リフォーム工事で『動かしてはならない本』を動かしたから、自殺した女生徒の呪いが降りかかってるんだって」

「それって、今はどうなってるの?」

「こんな感じ」珠理は足を止めた。

 廊下の突き当たりだった。古びた壁から明らかに浮いた、綺麗な木目に丸窓がくり抜かれた、観音開きの扉があった。上に図書室と書かれている。

 だが、三角コーンとコーンバーが置かれ、A4のコピー用紙に立入禁止と印刷されたものが貼りつけられていた。

 しばし腕組みでその扉を見つめ、珠理は言った。

「チャールズさ、お前幽霊って信じる?」

「信じないけど」

「じゃあこういう、リフォームした場所で体調不良になる人が出る原因って、なんだと思う? 幽霊も呪いもなしな」

「えっと……シックハウス症候群とか? 聞いたことあるような」

「正解。あたしもどうせそうだろうと思った。でも、業者さんが入って中のその手の化学物質の濃度を調べても、何も出なかった。全部基準値以下。そもそもお子様にも安全安心な水性塗料を使ってるから、ヤバい物質が出るはずがない。おかしいだろ?」

「確かに……じゃあなんで?」

「科学部としては気になるじゃん、やっぱり」珠理は三角コーンをバーごと脇に除けて、制服の上着のポケットから鍵を取り出した。「図書委員から借りた。黙ってろよ?」

「入っていいの?」

「大丈夫大丈夫。基準値以下で安全だとかどうとかで偉い人たちは無限ループしてるから」

「そういう問題……?」

「っていうか、校長とかが責任逃れしたくて、調査したけど安全でした! って保護者会に言っちゃったんだよ。黙っておけばいいのにさ。そんなん生徒に伝わるじゃん? で、呪い説がもっと盛り上がった」鍵を開け、扉を開き、珠理は手招きする。「入れよ。幽霊なんかいないし、いてもお前なら大丈夫だし」

「じゃあ、失礼します」

 扉を押さえている珠理の横を抜けて、良は室内に入った。

 図書室、というよりカフェか何かのような、お洒落で綺麗な空間だった。白く塗られ清潔感のある壁面。幾何学模様を描く絨毯タイルで足音が立たず、木製の書棚には地元の森林組合の名と前崎の木で作りました云々と書かれた銘板が貼りつけられている。手前には雑誌と円形の閲覧ベンチがあり、奥の方には進学校らしく、勉強に使えるテーブルが並んでいる。

 木の香りに混じって、新築っぽい特有の匂いがした。

 そこでふと思いつき、良は振り返った。

「あの、珠理さん。僕なら大丈夫って、どういう……」

「あー、それな。うん。改修工事は去年やったって言ったじゃん。この通り、本も全部棚に収まってる。ってことは、呪物か何かっぽい忌書、『動かしてはならない本』ってのは、今学期になってからは動いてないわけ」

「そうなるのかな。よくわかんないけど」

「つまり、対照実験だよ」入口のところで開きかけの扉に背を預けた珠理は、指先で鍵をくるくると回していた。「本を動かすことが忌書の呪いの発動条件ならさ、その時学校にいなかったやつは呪われてないことになるじゃん。これまで体調を崩したのは今三年の図書委員と、司書の先生だった。だから当時学校にいなかったやつで実験したいんだけど……一年生を使うのはちょっと気が退けるじゃん? そこで思いついた。お前だよ、転入生」

「え、ちょっと待って。嫌な予感が」

「お前が呪われなかったら、呪いの可能性がある。でもお前が呪われたら、間違いなく、これはだ。じゃ、頑張れチャールズ」

「だからそのチャールズって……」

「本には触るなよ。実験にならないから。あとこの部屋、昔の校内暴力だか学生運動ってのの名残で立て籠もれないように内側から鍵かけらんないから」

「あの、あの、ちょっと待って」

「一時間で開けに来るから、よろしくー」

 駆け寄っても遅かった。笑顔で手を振り、珠理は無情に扉を閉めて鍵をかける。

 そして三角コーンを直すと、そのまま白衣を翻してどこかへ行ってしまう。

 スマホは鞄と一緒に教室だった。日差しが入らないようにするためか、窓はグラウンドなどの人目につく方には配置されていない。

 平穏な一日に青春が飛び込んできたはずだった。それが気づけば連行、脅迫、監禁、人体実験。

「なんでこんなことに……」と嘆くことしかできなかった。

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