1-3. 感動的なシチュエーション

 竹内が大きな身体を小さくして言った。「悪霊が乗り移って倒れちゃった人がいてさ。図書室で」

「何それ。怖っ」

 松川が鼻で笑って言った。「最近図書室がリフォームされたんだ。そこで体調不良者が続出してさ。地縛霊の仕業とか、呪われた本に触れたとかななんとか言われてるんだよ。馬鹿馬鹿しい」

「じゃあ文芸部は……」やめとこうかな、と続けようとした時だった。

「安井くん、文芸部に興味あるの?」と背後から声がした。

 振り返ると、茶色いセルフレームの眼鏡をかけた女子生徒がいた。黒髪をポニーテールにしていて、背丈は良と同じくらいだった。

 女子と話さなければならないときは「はい」と「どうも」ですべて乗り切っていた良は、どう応じたらいいのかわからなかった。要らない血が顔のあたりに昇っているのがわかった。

 返事が不自然に遅れる。何か言わなくてはと焦るほど、言葉に詰まる。するとポニーテールの女子の方が続けて言った。

「あ、ごめんね。急に話しかけちゃって。まだ名前とか覚えきれてないよね。私、支倉はせくら佳織かおり。文芸部です」

「安井良です……」

「それは知ってるって! 自己紹介してたじゃん!」支倉佳織は声を上げて笑った。「実は文芸部に勧誘しようかなって密かに狙ってたんだよね。ほら、自己紹介で言ってたじゃん? 活字中毒で活字ならなんでも読みますって。だから」

「はい。はい。どうも」

「それで……どうかな? 文芸部」

「はい」

「これから活動があってね? いつもは図書室とその隣の話せる談話室で活動してるんだけど、今は色々あって空き教室を借りててね? 部活決めてないんだよね? よかったら見学とかどう?」

「あの……えっと、どうも」

「安井くん?」

 首を傾げる支倉佳織。小綺麗なハードカバーの本を二冊抱えている。

 良は教室の後ろにある、いつ張られたのかわからない掲示物で埋まった掲示板の方に目線を逸らした。

「感動……」と良は小声で呟き、聞き取れなかったらしい支倉佳織がまた首を傾げる。

 こんなシチュエーションが、実在するなんて!

 放課後の教室でクラスの女の子が部活に勧誘してくれる。まだクラスに馴染めないだろう転入生を心配して笑顔を向けてくれる。いや、それ以前の問題として、話しかけてくれる。そもそも男子生徒しかいない中高一貫の男子校に通っていた良にとって、もはや実在が疑わしい、イエティかツチノコを見ているような状況が、我が身に降りかかっているのだ。

 父が言っていたことを、ふと思い出した。

『いい環境と普通の環境は違う。母さんは良に、いい環境を与えたかった。父さんもその気持ちは同じだが、普通の環境も知ってほしかったんだ』

 同じ進学校とはいえ私立の中高一貫男子校から公立の共学校へ転校することに決めたものの不安が拭えなかった良に、父が告げた言葉だった。

 そしてもう一つ。

『青春とは、鈍色の日々を金色に変える、錬金術だ』

 おお、父よ、これが普通だったのですね。これが青春なのですね――と、良は今も仕事に精を出しているだろう父に心中で呼びかけた。

 そして微笑みを絶やさず答えを待つ支倉佳織に言った。

「はい。どうも。見学、是非……」

 ポニーテールが揺れて、ぱっと笑顔の花が咲く。くらくらして、心臓が跳ねた。彼女の笑顔は、たぶん金色だった。

 だがその時、教室の引き戸が勢いよく開け放たれた。

 そして現れた見覚えのある人影。

「ひっ……!」良は悲鳴を上げた。昇った血の気が一瞬で引いた。「牛タン!」

 今日も制服の上に白衣を着た、昨日化学室で牛タンを焼いていた金髪のギャルだった。

 人も疎らだった教室がざわつく。露骨に立ち去る生徒もいる。だが金髪ギャルは構わずにつかつかと良の方に歩み寄った。

「やっと見つけた。おい、お前。お前だよ。誰が牛タンだコラ」

 すると、佳織がそのギャルの前に立ち塞がった。

「木暮さん。なんの用?」

「なんだ支倉かよ。あたしはおめーじゃなくてそっちの転入生に用ががあんだよ」

「安井くんなら私と先約があるの。またにしてくれる?」

「悪いけどこっちは昨日から先約があんだよ」と言い放ち、金髪ギャルの手が良の襟首を掴んだ。「じゃ、こいつ借りてくから」

「ひっ……」

 確かに同世代の女子との関わりは小学生の時以来一切なかった。そのせいで、女の子とはどういう生き物なのかを、今は離れて暮らす妹を通じてしか、良は知らなかった。

 だが、突然教室に乗り込んできて人の襟首を掴んで引きずるのは、いくらなんでもおかしいような気がした。この事態は自分の対人関係の乏しさゆえではなく、木暮、と呼ばれた女子が規格外であるために起こっているに違いないと、良は血の気が引いて冷静になった頭で考えていた。

 目の端に、先程まで話していた松川、竹内、梅森の三人が見えた。廊下へと引っ張り出されながら目線で助けを求めたが、彼らは三人並んで小さく手を振るだけだった。彼らの目は、『ご愁傷様』と言っていた。

「ちょっと、木暮さん……珠理!」

 そんな支倉佳織の叫びを最後に、無情に扉は閉じた。


 前崎中央高校の校舎は三階建てで、一階には一年生の教室と職員室、図書室がある。二階は二年生の教室と食堂、音楽室など、三階は三年生の教室と理科系の特殊教室がある。講堂としても使われる体育館には本棟から渡り廊下が通じており、グラウンドに面したところには運動部の部室が並ぶ部活棟がある。

 二階から一階に通じる階段の踊り場で、良はようやく金髪ギャルの手を振り解いた。

「な……なんなんですか!」

「なんで敬語? うちらタメだろ」

「えっと……はい、どうも」

「そういや名前聞いてなかったな」白衣のポケットに手を突っ込んで金髪ギャルは言った。「あたし、2‐Aの木暮こぐれ珠理じゅり。林の木と日暮れの暮、珠算の珠と理系の理。そっちは? 確か……」

「安井良です。高い安いの安、井戸の井、グッドの良」

「安井良。安井良。へえ……」木暮珠理は、顎に手を当てて何か満足げだった。「決めた。お前今からチャールズな。あたしのことは珠理でいいよ」

「え……チャールズ? はい? なぜ?」

「で、チャールズさあ」良の問いは無視されていた。

 木暮珠理は長身だった。男子にしては小柄な良よりも背が高く、一七〇センチメートル程度はあるように見えた。その珠理が詰め寄ってくる。

 一歩引けば、一歩詰め寄る。また引く。詰め寄る。それを繰り返すと、良の背中が踊り場の壁に当たった。そして良の顔からすぐ横の壁に、珠理が勢いよく手をついた。

「訊きてえんだけどさあ」

「ひっ……」

「お前、昨日のこと誰かに言ったか?」

 良はどもりながら応じた。「き、昨日。昨日って」

「あれだよ。ほら、化学室で」

 共学校に存在しているという壁ドンという行為は、確かに実在していた。ただしするのは女子で、目的は脅迫だった。彼女は、無粋な覗き見の代償を払えと言っているのだ。

 もしかしたらセクハラだったのかもしれない。男子しかいない環境では、目線の方向など気にしたこともなかった。

 良は狭まった視界から、必死で踊り場の窓の向こうへ目を逸らす。二羽のハトが羽を休めているのが見えた。

「す、すみません。覗き見してすみません。出来心だったんです。許してください……」

「だからなんで敬語なんだよお前」

「訴訟だけは許して……」

「訴訟……? まあいいや」そう言うと、珠理の左手が良の顔に伸びる。悲鳴を上げる間もなく、頬を掴んで正面を向かされる。「まずお前、話す時は人の目を見て話せよ」

「はい」

「じゃあ答えろ。昨日のこと誰かに言ったか?」

「言ってません!」と即答する。つい先刻、松川たちに話してしまったが、覗き見ていたことは話していない。

「敬語」

「はい! ……言ってない!」

「ほんとか?」

「言ってない」

「本当に本当だな?」

「言ってないです。だから、なんでもしますから訴訟だけは……」

 ふーん、と応じた木暮珠理は無表情だった。

 少し高い場所から、じっと良を見下ろしていた。鼻先と鼻先の距離が三〇センチ定規より近づいていた。匂いや息遣い、体温が感じられて、急に気恥ずかしくなった。両親が大喧嘩した翌朝の居間に漂っていた匂いを良は思い出した。

 すると、珠理は壁に着けていた手を離した。存在感が遠ざかったが、目線だけはしっかり良を見据えていた。

「本当になんでもするか?」

「はい、なんでもします」

「敬語」

「な、なんでもするよ。木暮さんのためなら」

「珠理」

「珠理さんのためなら!」

「よし。まあ、ちょうどいいや。でもあたしは、お前の自主性ってやつを尊重したい。だから選ばせてやる」

 何か話の流れが妙な方向に転がっているような気がした。だが、そんなことより、同世代の女の子を下の名前で呼んでしまったことで頭が一杯だった。

 もしかしたら、これも共学校ならではの青春の一ページなのかもしれない。だがそんな良の感傷をまったく無視して、珠理は言い放った。

「マウスとラットとモルモット、どれがいい?」

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