ななつめ 「 」
1.おぞましい
青い顔をしている
のろのろと井場が芳治や三笠の座っているソファと反対側に座る。薬の袋に手を伸ばそうとしたが、それよりも先に蒼雪が薬の袋を奪い取った。
「さて、どこから話をしていきましょうね。三十五年前の話からしましょうか」
「……好きにしろ」
「そうですか。では、俺は勝手に俺の辿り着いた答えを披露しますよ。俺は生徒なんですから、違っていたら教えてくださいね、先生」
まるで嫌味のように「先生」という言葉を強調し、蒼雪は笑みを浮かべたまま井場を見る。
井場は、何も言わなかった。実鷹はそんな井場の様子を見ながら、制服のズボンのポケットに手を入れる。ポケットの布を引っ張るような重みと、つるりとした感触。つとめて息をゆっくりと吐き出して、一度室内の全員から背を向けるように体を動かした。
ただ言われていた通りのことだけをして、再び隠す。くるりと振り返ったところで、蒼雪が鞄の中から日記帳を取り出して机の上に置いていた。
「
蒼雪の鞄からは、日記帳に続いて卒業アルバムと卒業文集が出てくる。
「それから、死んだ
開かれたページに並んだ、顔写真。安東寛史、井場
彼らは誰もが楽しそうに笑っていて、
「竹村医院も、安東歯科も、彼らの継いだもの。つまり彼らは三十五年前、この学園に君臨していた強いボス猿だったと言える。所謂上位様、今でも根深く残っているものですが、当時であれば尚のこと。当然ながら周囲の生徒も彼らには逆らわなかったことでしょう。たった一人、その序列を乱す存在以外は」
今の方がまだまし、と言うべきなのだろうか。三十五年前の月波見学園がどのような様子であったのかなど、実鷹が知る方法はない。
全寮制の男子校はきっと、どこまでも閉鎖的だった。外から誰かが入って来ることもない、中で何があったとしても気付かれることがない。
虫の純粋培養とは、まさに言う通りなのだ。悪意という名前の虫すらも、その中では見事に育ってしまう。
「三十五年前、月波見学園では
開かれた卒業アルバムのページ、たった一人だけへたくそに笑う青年がいる。少しばかり幼さを残した顔の青年は、少し
「この卒業アルバムの写真、集合写真の中に日比野一慶はいない。この日彼に何があったかは知らないが、もうこの頃には
蒼雪はじっと井場を見ていた。井場は
芳治は時折
「卒業文集に、日比野一慶はこう書いている。『誰にも、何にも屈することなく、胸を張って生きていられる人間でありたい。悪いことは悪いと、間違っていることは間違っていると、迎合することなく言える人間でありたい』と」
蒼雪が机の上に開いて置いた卒業アルバムの隣。卒業文集もまた開かれていて、そのページには丁寧でのびやかな文字が並んでいる。
日比野一慶は何を思ってこれを書いたのだろう。自分を奮い立たせるために、自分に言い聞かせるために、書いたのかもしれない。
「けれども、彼は屈した」
机の上の三冊目、日記帳は閉じられている。蒼雪が指差したそれに、井場が虚ろな視線を向けた。
顔色はもう、青を通り越して白かった。いっそ怒り狂うかとも思ったのに、隠そうと叫ぶかもしれないと思ったのに、井場はそんな様子もない。
「これは、安東の日記です。何の因果か俺のところに来ましてね、これを見たから俺は月波見学園に来たんです。安東が毎年冬になると言い訳のように『自分は悪くない』『身の程知らずなあいつが悪い』と繰り返す。それが何なのか、俺は知りたかった。俺の家を壊した男が何をしたのか、そこに何が隠されているのか、知りたかった。そこに沈んだままになっているものがあるのなら、浮かべたかった」
沈むことは浮かぶことに繋がらねばならない。
沈んだままのものは、浮かばせてやらねばならない。
隠してしまえばその罪は消えるのか、殺し続けていれば赦されるのか。蒼雪は「そうは思わない」と言っていた。実鷹とて、そんな風には思えない。
これは果たして正義感とか、そういうものなのだろうか。それとも、これは。
「三十五年前、卒業間近、受験も間近の一月十日。おそらくこの日に事は起きたのでしょう。何があったのかは、月波見学園の七不思議、みっつめからいつつめがが教えてくれる」
みっつめからが本番だ。
ひとつめとふたつめは三十五年前から変わっていない。たとえそこに物語が付け加えられたとしても、泣く十三階段と人喰いピアノは変わらない。
けれども、みっつめ以降は内容が様変わりした。
「みっつめ、体育館のステージで踊り続ける少女の亡霊。よっつめ、裏庭にある首括りの木。いつつめ、まだらに染まる血吸いの池。このみっつがつまり、日比野一慶の身に起きた出来事と、そしてその末路を語っている。別に女性用の服なんて、月波見学園にいても入手することはできますからね……俺が、
外から荷物を送ることはできる。自分で買いに行けなかったとしても、入手する方法くらいはある。それを誰にどういって頼んだかなど知らないが、それができるということが重要だ。
「当時そこは体育館ではなく、講堂だった。今の体育教官室は講堂と外を繋ぐほとんど使われていない倉庫で、倉庫の鍵さえ開けておけば講堂に入るのは難しくない。執拗な嫌がらせを日比野一慶に続けていた猿たちは、卒業を間近にしてとうとう最低な行動に出た。どうやって彼をそこに連れてきたのか知りませんが、どうせ同じ部屋の生徒も味方ではなく、彼以外はすべてボス猿の支配下にあったのでしょう」
少女は踊る。踊り続ける。
猿は笑う。猿は囃し立てる。泣きながらでも踊り続けるんだ、あの女。そんな風に
「少女ではない。けれど、少女として語られる。なぜなら少女の姿をさせたから。体育館のステージは、講堂のステージだった場所。そのステージの上で、猿は日比野一慶を押さえ付けて無理矢理に踊らせた。おぞましくて口にしたくもありませんからね、俺はあえてそう表現しておきます。猿たちはかわるがわる次々に彼を踊らせて、嘲り、笑い、囃し立てた。見張りの猿もきっと、そこに混ざらないまでもそれを見ていたことでしょうね。泣きながらでもずっと踊り続ける……それは、一体いつまで続いたんでしょうかね。そしてきっと、そのまま講堂に彼を置き去りにしたのでしょう」
体育館の、少女の亡霊。
この月波見学園男子部で、絶対に存在するはずのないもの。外から引きずり込んだのでなければ、それは誰かをそうして言い換えたものに他ならない。
「これが、みっつめ。少女の亡霊はつまり、そう扱われた青年だった」
少女ではない。少女と冠されたとしても、少女にはならない。
当時まで講堂だった場所、そのステージの上で猿が笑う。少女ではないものを少女として扱って、おぞましい踊りを踊らせて。
「そして日比野一慶は、首を括る。そこまで折れずにいたのに、抗っていたのに、ここで彼の心は死んでしまった。そこで何があったかなど、俺には想像するしかできません。けれど
己の自認する性別と周囲からの扱いがずれてしまえば、きっと狂うものだろう。日比野一慶は男だった、この男子部の生徒だった。
けれども彼は、少女にされた。そうして折れて、ゆらりと、ぶらりと、裏庭の木。
「そして、よっつめ。彼は校舎の裏庭で首を括った。あの場所は今も卒業生の植えた記念樹が何本もあって、当時既に首を括れる木もあった。雪の降りしきる中、彼はその一本を選んで首を括り……おそらくそこだけ、雪が落ちたのでしょうね。ぶらりと、ゆらりと、首を括って吊り下がった日比野一慶の重さによって」
雪の降りしきる中で首を括った。それは安東の日記から知れたことだ。
「七不思議にこうありますね。『どうせ折れたりはしないんだけどさ。だって最後には首括りの木にぶら下がってたものは、
そこで他の誰かが見付けていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。実鷹の兄はまだ生きていて、竹村竣も死んでいなくて、知希の席に花が置かれることもなかっただろうか。
今更だ。今更何も変わらない。それでも、もしもを考えてしまうことはある。
「だから、いつつめだ。誰かがぼちゃんとそこに落ちた。落として、埋めた。七不思議にあるように『浮かんだ』ということもなく、かつてあった、三十五年前に埋められた裏庭の池、ちょうど首括りの木の近くにあった池に彼の遺体を沈めたんだ」
日比野一慶は池の中。沈められ、埋められて、今でもまだ浮かばない。
旧校舎の裏庭のどこかに、彼の遺体はまだ眠っているのだろう。地面の中、どこかに。生徒たちに踏み付けられ続けて、誰にも気付いて貰えることもなく。
「これがあなたの一つ目の罪、なんとしてでも隠さねばならない罪ですよね、井場先生。二十年前、あなたは焦ったはずだ。当初文芸部の部誌なんてあなたが読んだとは思えませんから、気付いたときには手遅れだったのでしょうね。
一色栄永はそのまま月波見学園を卒業し、そして今でも『
むっつめ以外は、彼の作った七不思議のまま。みっつめからいつつめに日比野一慶の真実を隠し続けて、この学園の中を侵食している。
「あなたはこの秘密を守るために、夢を捨てたのに。日比野一慶が死んで、そしてその遺体を沈めた時点で、あなたは夢を捨てるしかなくなった。警察官になれるはずもない、猿の一員が他人の犯罪を取り締まれるわけがない。そして、見張れとボス猿はあなたに命じた」
「違う、俺は!」
「違いませんよ。だってそうでなければ、わざわざ図書室で警察官の出てくる作品ばかり借りる必要はないでしょう。あなたは捨てた夢に未練があって、けれど最早どうにもならなかった。だから見張りの猿は、そのままずっと月波見学園で見張りを続けることになったんだ。大学の四年間は気が気ではなかったでしょうね、いつ日比野一慶の遺体が見つかるか。けれど幸いなことに、彼の遺体は浮かばなかった」
その四年間で見付かっていたら、どうなっていたのだろう。
もしも。もしも。
過ぎた時間は戻らない。その時に戻る方法はない。そうして沈めて、隠して、けれどいつまでも隠しておけるようなものでもない。
「そうして戻ってきたあなたは、生徒たちが、あるいは他の教師が、職員が、七不思議に近付かないようにしてきたはずだ。そしてしばらくは何もなかった。八年前の、夏までは」
八年前。
蝉が鳴いていた。うだるような暑さだった。鳴き騒ぐ蝉の声は遠ざかって、どさりと肩にかけていたプールバッグは玄関のところに落ちて行った。
ねえ、どうして。どうして、お兄ちゃんは帰って来ないの。僕が、七不思議の話を聞きたいと言ったせいなの。
そうしてただ目を背け、けれど向き合わねばならない時が来た。
「
実鷹にとっては、ここからだ。何よりも知りたくて、そして八歳の自分に伝えなければならないもの。
僕のせいだ。
お前のせいじゃないからな。
兄は何を知ったのだろう。どこまでの真実に辿り着いてしまったのだろう。そもそもどうして、兄は七不思議を調べようなどと思ってしまったのだろう。
「さあ、二つ目です。芳治さん、あなたにも聞きましょう。佐々木鷲也は殺されて隠された。なぜなら、七不思議の裏に隠されたものに気付いてしまったからだ」
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