2.心は闇にあらねども

 兄は殺され、隠された。

 これまで蒼雪そうせつの口から、それを明言されたことはなかった。彼の言うことは、実鷹さねたかもうっすらと分かっていたことではある。

 ここが全寮制の学校であるからこそ、日比野ひびの一慶かずよしの件を隠すことができた。学園の中で起きて、そして学園の中で隠して、すべてはこの閉鎖された学園の中で起きたことだからだ。それは実鷹の兄のことも同じで、決して外に出てくることはない。

 ただ実鷹という存在があったから、少しばかり外へ漏れ出てしまっただけだ。

 芳治よしじが顔を上げて、ぐっと唇を引き結んだのが見えた。どうして兄が七不思議を調べるに至ったのか、もしかするとその答えを芳治が持っているのかもしれない。


「見張りの猿は、ずっとずっと見張り続けた。誰も真実に近付かないように、気付かないように。ただボス猿に言われたことを愚直に守り続けた。そもそも知られれば自分だって今のままではいられなくなる。二十年前に一色いっしき栄永さかえが七不思議を作った時、あなたは恐れたはずだ。そして、そのは、八年前に現実になってしまった」


 みっつめとよっつめといつつめは、明確に猿の罪を示唆している。いつかそれに誰かが気付くかもしれないと、きっと井場は恐れ続けた。

 そして、何の因果か。その真相に辿り着いてしまったのが、実鷹の兄だった。


「八年前、一人の生徒が七不思議の真相に辿り着いた。嘘には少しの真実を……いや、今回の場合は真実に少しの嘘を混ぜて、怪異として隠したんだ。かつての日本人がまつろわぬ民に対しての行為を異形におとしめることで隠したのと同じように、真実を少し歪めて覆い隠した。青年を少女に変え、首括りの木からは遺体を消し、まだらの池には遺体を浮かべ、そうして出来上がったのが『七不思議事件録』の七不思議です」


 知希ともきが言っていたことの方が、核心をついていたことになる。嘘の中に真実を混ぜるのだと、そう言った時すでに、兄は真相に近付いていたのかもしれない。

 真実の中に、嘘を。まるで嘘のような真実を。

 卒業アルバムの中でうれいなく笑っていた十八歳は今、三十五年の歳月を経て真っ白な顔でソファに座っている。くるりくるりと、落ち着きなく組んだ手の親指を動かしながら。


「けれどもこの七不思議の裏には、藤戸ふじとの母の如くじっとりとした恨みが漂っているように思えてならないんですよ。ねえ先生、日比野一慶にも当然家族がいるんですよ、先生と同じように。何時イツまでとてか信夫山シノブヤマ。しのぶかなき世の人乃。あつかグサシゲきものをナニカクし給らん――いつまでも隠し通すつもりでいたとしても、必ず悪事は人の口の端に上る。安東あんどうとて、日記に書かずにはいられなかった」


 自分は悪くないと書くのはきっと、罪の自覚があるからだ。自分たちが日比野一慶にしてしまったことの罪深さを、安東はきっと分かっていた。

 そうでなければ、言い訳などするものか。あいつが悪いのだと、罪の在処ありかを変えようとしたりするものか。


「この七不思議の裏にある恨みは、せめて謝罪が欲しいというものなのかもしれない。せめて弔ってくれと藤戸の母が語ったように。苦しみの海に沈んで、沈んで、自分もまた浮かび上がれない。そんな息苦しさなんですよ、恨みって。ねえ、考えたことはありますか?」


 うっすらと笑みを浮かべ続ける蒼雪は、けれど暗い目をしているように見えた。あざけるように言葉を紡いで、それを本当は誰にぶつけたいのだろう。

 恨みたくない。誰のことも恨みたくなかった。七不思議のせいにしてしまえば、誰のことも恨まずにいられた。ただ自分だけを責めていられた。

 実鷹は井場を恨めばいいのだろうか。それとも猿たちを恨めばいいのだろうか。それとも――七不思議を作った一色栄永と、そして三笠みかさを恨めばいいのか。


「せめて謝ってくれれば、せめて手を合わせてくれれば、それだけで晴れる恨みもあるものを。けれどそれすらもなく隠すということは、どこまでも残酷なものなんですよ。忘れようと思っても忘れられず、むしろその忘れようと思う心の方が、忘れてしまうよりもずっとずっと辛い」


 忘れられるものか。

 いっそ忘れてしまえたのなら、もっとずっと楽だったのかもしれない。

 忘れたいと願っても忘れられないほどに、うだるように暑い夏の記憶がこびりついている。鳴き騒ぐ蝉、落ちていくプールバッグ、その音の記憶だけを何度も何度も繰り返す。


佐々木ささき鷲也しゅうやは、七不思議の暗号にも気付いたのでしょうね。彼は図書室にあった卒業アルバムや卒業文集から、もしかすると辿り着いたのかもしれない。真相は最早誰の口からも語ることはできないでしょうが、少なくとも彼は七不思議のななつめを知った。そうでしょう、芳治さん」


 芳治は言葉を探すように、何度かはくはくと口を動かしていた。開いては閉じて、けれど言葉が見付からないのか声にはならない。まるで、酸欠になった魚のようだ。

 そうしてしばらく待っていれば、ようやく観念するかのように芳治は声を絞り出す。


「シュウは……そうだよ、ななつめが分かったと、青い顔をしていた。俺が最初に持ち掛けたんだ、あいつは七不思議を面白がったから、一緒に調べてみようって。俺は先に辿り着いたけど、お前は知らない方が良いって、言ってたんだ」

「そして、彼は帰ってこなかった」

「そうだよ。確認したいことがあるって放課後に教室で別れて、それきり寮の部屋にも戻って来なかった。いや、一回戻っては来たのか、鞄は寮にあったから。でも、本人は夜になっても戻らない。寮監に伝えて探してもらって、それでも見つからなくて」


 あの日の知希と同じだ。帰ってこなくて、それを待って、まんじりともせず眠れない。


「そして、失踪者となった」


 兄も、知希も、帰ってこなかった。

 芳治にとっては高校三年生の夏、きっと蝉がうるさかったことだろう。みんみんと鳴き喚く蝉の声を、芳治はどんな気持ちで聞いただろう。


「あなたは真実が知りたくて、月波見学園に戻ってきたんですね、芳治さん。特奨生とくしょうせいであったあなたが、わざわざ月波見の、しかも事務員として戻ってくるような理由は本来ない。教師でもないのは、真実を探すためには自由に動ける立場が必要だと思ったからでしょう」

「そうだ……だって、


 僕のせいだ。

 いつかの、幼い実鷹の声が重なる。


「俺がシュウに持ち掛けた。俺がシュウに七不思議を調べさせた。あいつが真実に辿り着いてしまったのなら、あいつが七不思議に呪われて殺されてしまったのなら、それは全部俺のせいだ!」


 僕のせいだ。

 僕が七不思議のことをもっと聞かせて欲しいとせがんだから、お兄ちゃんは七不思議に呪われてしまったんだ。だから帰って来ないんだ。

 うだるような暑い夏の日に、十八歳の芳治はきっと八歳の実鷹と同じことを思ったのだ。鳴き騒ぐ蝉の声を聞きながら。


「でも、あなたは七不思議の呪いがに落ちなかった。あなたは三砂みさごと同じで、この学園の七不思議に違和感を覚えたでしょうから。この学園の七不思議はどこかおかしい」


 侑里ゆうりはこの学園の七不思議をと称した。一般的な七不思議とは違う、聞いたこともない怪異がそこにある。


「あなたは、最初は藤戸と同じだったはずだ。ただ真実が知りたいのだと、隠した場所を……沈めた場所を教えて欲しいのだと、そのはずだった。けれど、あなたは。あなたには資格がないにも関わらず」


 仇討ちとは、尊属が殺された場合に限られる。

 それは蒼雪が以前も口にしていたことだ。芳治にとって実鷹の兄はルームメイトであり、友人だったのだとしても、決して仇討ちをするような間柄ではない。


「ところで井場先生、だんまりですけど。佐々木鷲也の件は何も反論はないのですね?」

「……ない」

「そうですか。じゃあ、どうやって殺したのかは後でゆっくりと話していただきましょうか……ただし、場所はここではないでしょうけれど。ああ、別に隠した場所は教えてくださらなくて結構です。俺はもう、その場所が分かっていますから。だからあなたはあんな、むっつめを入れ替えることになったんです。もちろん、図書室に近付けたくなかったというのもあるのでしょうが」


 井場は俯いたまま、短く返事をして再び黙り込んでいた。井場の頭のてっぺんを蒼雪はじっと見て、けれどまた視線を逸らす。

 むっつめ、図書室に眠る人皮の本。

 近付けたくなかったのは、実鷹と蒼雪が行ったあの場所だ。井場が慌てたように声をかけてきて、司書の先生にはうるさいと怒られた。


竹村たけむら君と渡瀬わたせ君も、そういう理由で井場先生が殺したと、そういうことだろうか。その、三十五年前のことに辿り着いたから」

「いいえ、三笠さん。半分違っています。そもそも竹村しゅんは、


 首を横に振った蒼雪が、問いかけた三笠の顔を見る。彼は「今は乗ってあげますよ」と三笠に告げたが、三笠が表情を変えることはない。

 困惑しているかのような、けれど何かを待っているかのような、そんな顔と言うべきか。


「渡瀬は確かに、井場先生が殺しました。大事な大事な睡眠薬を無駄遣いして。ですが、竹村竣は違う」


 知希の死は自殺とされた。抵抗した様子も何もなく、ただ静かに木にぶら下がっていたからだ。けれど抵抗しなかったのではなく、できなかったのだとしたら。


「俺は言いませんでしたか。、と。井場先生が殺したのは、佐々木鷲也と渡瀬知希の二人です」

「では、竹村君は……」

「そもそも、渡瀬の遺体を井場先生は佐々木鷲也と同じところには隠さなかった。理由は簡単です、竹村竣が十三階段で死んだから。ならば渡瀬も同じように、七不思議の呪いにしてしまえばいい。失踪者とするのも、最近だと容易ではないでしょうからね」


 八年前もきっと容易ではなかっただろうが、あの時はきっとそれしかなかった。だからどうにかして遺体を隠して、失踪者という形にした。

 けれど、知希の遺体は吊り下げられた。トイレットペーパーを巻き付けられた木に、だらり、ぶらりと。


「竹村竣を殺したのは、井場先生ではありません。そもそも逆らえるはずのないボス猿の息子ですよ? 愚直な見張りの猿に殺せるわけがないでしょう?」


 竹村竣は、だ。当然ながら、その親も。

 かつて井場と同じクラスにいた竹村孝輔こうすけが日比野一慶を死に追いやった猿の群れのボスだったとするのなら、当然井場は逆らえない。その序列がくつがえることはない。


「竹村殺しは、まったく別です。最初それが分からなくて、でも猿に殺せるはずがないと思っていて、おかげで解を得るのが遅くなった気がします。殺そうと思って殺したにせよ、事故にせよ……殺す資格もない上に、殺す相手を間違えましたね、放下僧。はやる弟を兄が止められなかったのは、その場にいなかったからでしょうけれど」


 竹村竣は階段のところで死んでいた。雨の降る中、仰向けで。

 その階段が綺麗すぎると、蒼雪は言った。雨の日に外から来たのなら、あの階段には黒い足跡が残るはずなのに、と。

 芳治の顔が、にわかに歪む。ただ薄く笑う蒼雪は、じっと歪んだ彼の顔を見る。


「そうでしょう――ねえ、芳治さん」

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