5.貴方が、猿だ
図書室の奥の棚からごとんと落ちる。
それは人皮の本で、表紙の中心にはぎょろりとした目がある。
落ちた時にそこにいた人間をじっと見る。
――月波見学園七不思議 むっつめ【図書室に眠る人皮の本】
雨は降っていないものの、空は厚い雲で覆われていた。体操服に着替えて体育館へ向かう道すがら、旧校舎を見る。
隣で
「お腹痛い?」
「なんでそうなるんだよ。ヒメに頼まれたことが気が重いだけだ」
昨日、
「気が重いなら止めておけば?」
「駄目だな、その場に来させるのと確認には必要なことだし。あと、俺がやらないとあいつがどういう手段を使うか分からない」
そう言われて、最初に彼を見た時のことを思い出す。授業中に窓の外を眺めていて、旧校舎に入っていく蒼雪を見かけた。
そこでお腹が痛いなどと言って教室を抜け出した実鷹も実鷹ではあるが。
「最初に会った時、授業サボって
「お前もそれ見てサボったろ、サネ」
「まあ、そうなんだけど。あと
「人のはすぐ気付くくせにな。別に意味なく嘘つくような奴ではないけど」
図書室で井場に会った時、蒼雪は「探し物をしている」と言いかけた実鷹を制して、嘘をついた。それから、卒業アルバムを借りる時にも司書に嘘をついていた。
嘘をついてはいけませんというのは、きれいごとだ。自己保身のための嘘が正しいとは思わないし、嘘をついて良いと言うつもりはない。けれど、それが必要なこともある。
「そういえば今朝、変なこと言ってたな、あいつ」
「変なこと?」
体育館は湿気が押し込められていて、扉を開いただけでむわりと嫌な空気に包まれた。換気ができていない体育館は、どうにも蒸し暑い。
きゅ、と上履きが体育館の床に
「本当に呪われてるのは猿の方かもなって」
七不思議に呪われる。
けれど、すべては猿の仕業だと蒼雪は言った。ならば呪いとは何だろう。怪異も幽霊もないと言ったくせに、呪いなどとそんな迷信じみたことをどうして蒼雪は口にしたのか。
「井場先生は、今日も元気だな。声がでかい」
「そうだね」
全員集合という
バレーボールのコートを準備して、一番最初は実鷹と侑里のいるチームの試合はない。だから壁際に寄って、そこに凭れかかって試合の音を聞く。
ホイッスルの音、ボールの跳ねる音。
「体育館で踊る少女の亡霊……みっつめからが本番とか猿とか言うけど、よっつめといつつめに繋がるように思えないんだよね。猿だけ入れておきたかったのか?」
ひとつめとふたつめはただ教訓のようなものであると蒼雪は言った。彼の言葉を信じるのならば、ひとつめとふたつめに意味はない。三十五年前から何も変わっていないひとつめとふたつめは、きっと何も隠していないのだ。
「あの内容だと踊るって言うか、踊らせるというか。あー……嫌な想像した、俺」
「嫌な想像?」
「何でもない、最低な想像をしただけだ」
体育館の床でバレーボールが跳ねる。きゅいきゅいと体育館の床が上履きの裏と
ゆるく首を横に振った侑里が、ぐるりと体育館の中を見回して壁から離れた。
「サネ、俺ちょっと抜ける。すぐ戻るから」
「え? 今?」
「今。あいつ、体育の授業あるから俺に頼んだな……」
深々と溜息をついて、そっと侑里はそこから離れていく。体育館から外へと続く扉へと姿を消すその背中を見送って、またバレーボールの試合に視線を向ける。
試合を見ながら声を上げている井場は、侑里が姿を消したことには気付いていないようだった。
※ ※ ※
放課後、昨日蒼雪に言われた通り、講堂横の用務員室のところまでやってきた。空は重苦しく、今にも雫が
蒼雪は既に用務員室の前にいて、実鷹を見た瞬間に行くぞとばかりに用務員室の扉の方へと視線を投げた。
こつこつと扉を叩く。中から
「失礼します」
扉を開けて入った用務室の中で、三笠は何か手紙のようなものを読んでいる様子だった。彼は実鷹と蒼雪の姿を認めると、その読んでいたものを畳んで封筒に入れて引き出しにしまう。
「三笠さん、少しお
「君か。この前も来ていたけど、それとは別件かな?」
「そうですね」
棚の上には、写真立て。古い写真は、月波見学園の入学式だ。まだ若い三笠の隣、新品の制服に身を包んだ少年が笑顔で写っている。
卒業アルバムで見た笑顔とは、まるで違った。何の
「ウサギ、見つかりましたので。ありがとうございました」
「え? あ、ああ……ウサギさん、見付かったのか。良かった」
蒼雪はじっと三笠の顔を見て、そして薄く笑ってすらいた。しばし沈黙が流れた用務員室の中、こつりとノックの音が響いた。
「三笠さん、
「どうぞ。預かったもの?」
「落とし物があって、用務員室の近くに落ちていたから三笠さんのものではないかと、生徒が持って来たんです」
「なんだ、直接持ってきてくれて良かったのに」
「三笠さんがここにいなかったとかで……ああ、すみません。生徒が来ているとは」
扉が開いて、その向こうには芳治がいる。生徒がいるからと帰ろうとしたのか、背を向けた芳治に蒼雪が言葉を投げた。
「ちょうど良かったです、芳治さん。貴方にも聞いていただきたい話があるんですよ」
蒼雪は薄く笑ったままだ。それは決して楽しいからとかではなくて、何もかもすべてをその下に押し込んだ笑顔のようだった。
芳治は蒼雪の言葉に振り返り、ただ疑念の顔をしている。
「俺に?」
「そう――八年前の失踪者のルームメイトだった貴方に」
その言葉を聞いた瞬間、弾かれたように芳治が
おそらく彼をここで引き留められるのは、実鷹以外には誰もいない。
「
「逃げないでください、ヒロさん! 俺は、佐々木
兄の名前に、芳治の足が止まった。
決して何度も名前を聞いたわけでもない。連絡を取っているところを見たわけでもない。けれど、たとえ実鷹が何も聞いていなかったとしても、六年間彼が実鷹の兄と同じ部屋で過ごしたという事実は変わりない。
「シュウ、の?」
「座ってください、芳治さん。全員揃ったら、俺の解をお伝えしますから」
三笠が少し困ったような顔をして、けれど芳治に用務員室のソファをすすめている。
来客用であるのか、用務員室には三人掛けのソファが二つ、向かい合わせに置かれている。片方の端に芳治が座り、三笠もまた戸惑った顔をしながらも同じソファのもう一方の端に腰かける。
そうしたところで、どんどんと強く扉をノックする音が響いた。
「三笠さん! 生徒が間違えて俺の薬をここに持って来ませんでしたか!」
返答を待たずに扉を開いたのは、井場である。大きな声を上げた井場はずかずかと用務員室に入ってきて、そこで立っている実鷹と蒼雪に気付いて足を止めた。
「……佐々木に、姫烏頭? お前たち、三笠さんにあまり迷惑を」
「どうも、井場先生。無事に来ていただけて嬉しいですよ。お探しの物はこれですよね」
ごそごそとリュックサックの中を漁った蒼雪が、井場の目の前に紙の袋を突き付ける。それは先日、体育教官室の井場の机の上にあったものと同じだった。
どうしてそれが、ここにあるのだろう。そして、なぜそれを蒼雪は井場に突き付けているのか。
「なんだ、姫烏頭が拾ってくれていたのか!」
「そんなところです」
「悪いな!」
井場が渡してくれとばかりに手を伸ばしているのに、蒼雪はその手の上に袋を乗せることはない。むしろ自分の手元に戻して、まじまじとその袋の表面を見ていた。
「姫烏頭? どうして渡さない?」
「返して貰えないと困りますか、井場先生。そうですよね……貴方はこれがないと眠れない。そんな大事な薬、どこで無駄遣いしたんですか?」
一日一回一錠、就寝前。
眠るための薬であるのならば、それは守るべきものだろう。効かないからといって、二錠飲めるようなものではないように思う。
ざっと井場の顔色が変わって、一瞬青くなる。けれどすぐに井場は顔を赤くした。
「返して欲しいのなら、俺の話を聞いてくださいよ、井場先生。別に聞いてくれなくても良いですけど。それならそれで俺は今からする話を他の先生にするだけですから」
蒼雪はそんな顔色の変化が見えているだろうに、それでもわざとらしく井場の目の前で薬の袋を振る。かさかさと袋は軽い音を立てて、その中身が少ないことを伝えているようでもあった。
「俺は外部生です。そして、俺のルームメイトは特奨生です。生徒にとって重要な序列が家の裕福さなのだとして、教師にとって重要な序列は成績ですよね。何せ、大学の合格実績は月波見の評価を左右する。となれば先生たちは俺や
「何の話がしたい!」
「そう怒鳴らないでくださいよ。いや、貴方はそれしか身を守る術がないのか。怯えたら、そうするしかない」
猿は怯えている。
次に殺されるのだとしたら、実鷹なのか、蒼雪なのか。
芳治が何かを言おうとしていて、けれどそれを三笠が止めていた。何を思っているのか知らないが、三笠は蒼雪を見守ることに決めたようにも見える。
「其まま海に押し入れられて。
一人の生徒が首を括った。その生徒は、埋め立て予定の池に沈められ、未だ底に沈んだまま。
沈み、浮かばず。今もどこか土の下で誰にも見付けられることなくいるのだろうか。
「そうでしょう、井場先生」
井場は睨むような、怯えるような、そんな表情で蒼雪を見ている。蒼雪は薄く笑っていて、ぽいと薬の袋をソファの前のテーブルに投げ捨てた。
「一を隠すために、二人を殺した」
三十五年前、八年前、そして今。
するりと、蒼雪の指先が井場に向けられる。
「貴方が――猿だ」
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