4.猿の群れ

 寮へと戻ってきた時には、雨足は弱まっていた。ばらばらと音を立てていた雨はすっかり柔らかくなり、窓ガラスにもそれほど筋を残すことがない。

 鞄だけ自分の部屋に放り込んだ後、蒼雪そうせつ侑里ゆうりの部屋へと向かう。最近はすっかり彼らの部屋にいるのに馴染んでしまっている気がした。

 ノックをして、扉を開けてもらう。蒼雪は「三砂みさごはまだだよ」と言いながら、共有スペースの机のところに腰を下ろした。机の上には借りてきた卒業アルバムや卒業文集が積み上がっている。


「二十年前の部誌は確認したが、渡瀬わたせのノートの通りだったな」

一色いっしき栄永さかえの書いた七不思議?」

「ああ。ふたつめが旧校舎と冠していないのは、単に当時旧校舎が旧校舎ではなかったからというだけだ。ただむっつめだけが明白に入れ替わっている」

「開かずの扉と人皮の本だね」


 二十年前の七不思議は、むっつめが『開かずの扉』だった。けれどそれは今、『人皮の本』になっている。

 ここだけが、明白に入れ替わった。他のものはひとつも変わっていないのに、むっつめだけはがらりと変更されている。


「そして『七不思議事件録』には、ななつめが明確に書かれてはいない。けれど、ななつめが何かは実はこの中に書かれている」

「知れば死ぬという記述以外に?」

「そうだ。この『七不思議事件録』においてはななつめを知った生徒や教師は<七不思議の番人>に次々に殺されることになる。<七不思議の番人>の正体は老いた用務員だが、ななつめについては一切開示がない」


 ひとつめからむっつめまでは丁寧に書かれているのに、ななつめだけが『知った人間が殺された』というそれだけしかない。それこそ今の月波見学園のななつめを示唆しさする「知れば、死ぬ」と同じではあるが、その中身は語られない。

 けれど老いた用務員は明確に、ななつめが存在していることを告げているのだ。知らないままでいれば生きていられたのにと、嘆くように告げながら。


「ではななつめは何だったのか。そのために、この物語がついている。さすがに一色栄永もこれを開示することが危険だということは分かっていたんだろうな。彼が月波見学園にいたのは二十年前、実際に首を括った生徒の死から十五年しか経過していない」

「十五年?」

「十五年だろ。安東あんどう寛史ひろふみの年齢は五十三、三十五年前の卒業生だ」

「じゃあ安東さんは竹村たけむらしゅんの父親や井場いば先生と同級生か」

「そう、だから」


 蒼雪が机の上にあった卒業アルバムに手を伸ばす。それから、卒業文集と年報にも。次々とその中身を開いて、蒼雪は机の上に並べていく。

 いくつもの写真があった。いくつもの文字があった。それから、つるりとした紙に文字の並び。


「この卒業アルバムと、卒業文集と、月波見年報。ここには彼らの存在がある」


 三十五年前の卒業アルバムといえば、知希ともきのノートにもあったものだ。井場に話を聞いてみたいからと開いたその卒業アルバムについて、彼が書いていたことといえば。


「三十五年前の卒業アルバムは、トモも書いてたね。一人欠席扱いの生徒がいたとかで」

「これだな。日比野ひびの一慶かずよし


 いくつかページを進んで、蒼雪が3年3組のところを開く。右下の大きな集合写真、その左上に顔写真だけの生徒が一人いる。

 その真上に、同じ顔があった。笑っている生徒たちの中で、少しだけ表情がぎこちない一人。


「日比野一慶の名前は、年報にもある。彼は月波見学園が特奨生とくしょうせい制度を導入した初年度の特奨生で、この代では彼一人だけだな。そしてこの日比野一慶が……三十五年前の、失踪者だ」

「失踪者、ということは」

「そう。安東の日記にある『首を括って死に、池に沈められた生徒』とは、日比野一慶のことだ」


 集合写真を撮った時、日比野一慶はどこにいたのだろう。この時すでに失踪してしまっていたのか、本当に体調が優れなくて休んでいたのか。

 それでもこのアルバムには彼の顔と名前が載っている。卒業の時に彼が死んでいたことを、教師たちは誰も知らなかったのだろう。


「安東の日記にこうある。身の程知らずがわきまえないからだ、俺たちは悪くない」


 それは実鷹も読ませてもらったものだ。言い訳のような言葉を並べ、自分たちを正当化し、それでも人が死んでいる事実は変わらない。

 日比野一慶はなぜ首を括ったのだろう。そして、なぜそれを沈めなければならなかったのだろう。彼らにとって何か知られてはまずいことがあって、遺体ごと隠してしまわなければならなかったのか。


「ただいまー、っと。お、何か分かったか?」

「おかえり三砂みさご

「おかえり、ユーリ」


 部屋に戻ってきた侑里はどかどかと足音を立てて素早く共有スペースを通り過ぎ、自分の部屋に鞄を放り込んで戻ってきた。そしてどかりと床に腰を下ろして、机の上に広げられたものをざっと見る。


「そういや、トモは一応解剖されたらしいぞ。なーんにも怪しいとこなかったらしいけど。それはそうと、なんだこれ。卒業アルバムと卒業文集、に、年報?」

「そうだよ、図書室から借りてきたんだ」


 じゅんぐりに視線を動かした侑里は、卒業文集に手を伸ばす。そこに並んだ文字は、いつか月波見学園にいた誰かの筆跡。手書きの卒業文集の中には、きっと日比野一慶のものもあるのだろう。

 卒業アルバムの中で、日比野一慶はへたくそな笑顔を浮かべている。なんとかして笑ったのだろうその顔は、どこか苦痛が滲んでいるように見えてしまうのは実鷹の気のせいか。


「へー、こんなもんまで貸し出してるのか……お、井場先生の作文発見」


 ぺらぺらと卒業文集をめくっていた侑里が、あるページで手を止める。

 三十五年前、当時まだ十七歳か十八歳だった井場が書いたものも、当然ながらその中にはある。


「井場先生、文章下手だな! 字も豪快! 体育教師らしいと言えばらしいけど。あと、将来の夢は警察官だってさ」

「警察官?」

「そうそう。んで、全部『です』で終わってて読みにくいのなんの。現代文苦手だったんだな、高校三年なのに


 侑里は「井場先生らしい」と笑っていた。確かにあまり国語や作文が得意そうに見えないというのは、体育教師への偏見だろうか。井場は図書室でよく本を借りていると聞いているのに。

 読書量と文章力は比例するとは言い切れないか。読むのと書くのとはまた違う。


「でも月波見学園の先生になったって、どうしたんだろ。卒業文集なんて書くの三年の秋とかだよな? そこから大学選ぶ段階で急に変えたのか?」

「さあ……大学在学中に何かあったのかもしれないし、その辺は先生に聞いてみないと分かんないよな」


 いつ、どこで、何があった。そして何によって道を決めたのか。

 そんなものはここで実鷹たちが言ったところで、すべては憶測でしかない。けれど警察官から月波見の体育教師へと切り替えた理由は、決して「なんとなく」ではないはずだ。


「……猿」

「猿?」


 それまでずっと何かを考え込んでいた様子の蒼雪が、ぽつりと言葉を落とした。

 室内が静まり返る。あまりにも静かになりすぎて、自分の鼓動の音すらも聞こえそうなほどだった。

 またしばらく考え込んだ蒼雪が、眉間に皺を寄せたまま口を開いた。すう、と息を吸い込んだ音がして、ようやく室内に音が戻ってくる。


「猿とは、である……」

「お、珍しいな、お前が生物の話か? いつも民俗学だ歴史だばっか読んでるくせに」

「一応知ってるだけだ」

「へえ? 猿って結構面白いんだぞ。オスは明確に順位があるし、弱いオスは強いオスの前を通るときには尾も上げられない。下剋上げこくじょうはあるにはあるけど、弱いオスは餌を食べるのすら後だからな。生物の群れってほんとだろ」


 野生動物は群れをつくるものもいる。人間は猿から進化したと言われているが、つまり人間も本能的には群れようとする生物だろうか。

 学校の中もある種の群れだ。まして月波見学園男子部は、同年代の男子ばかりが集まっている。ではその中で、何で序列をつけるのか。


「月波見学園みたいだな。うちはが尻尾振り上げるみたいにして威張いばってる。で、俺とかヒメみたいなのが上位様は群れから外れてるみたいで気に喰わない。自分たちの序列を守らないって思ってるわけだ。動物園の猿と一緒だよな、新入りいじめたりするんだぜ、猿も」


 侑里はどこかあざけるように口にして、笑みを浮かべていた。

 群れ。猿の群れ。ならばみっつめにあった猿は、その群れの一員であったのか。猿は笑った、猿は囃し立てた。少女は涙を流してそれでも踊る。

 笑う猿と、囃し立てる猿は、果たして同じ『猿』なのか。


「佐々木、渡瀬のノートに確か、三笠さんに話を聞いたっていうのがあったよな」

「あったよ。甥っ子がここの卒業生だとかいう」


 知希のノートには、三笠と芳治よしじに聞いた話が書き写してあった。どちらにも「井場先生に聞いてみたら」ということを言われたようだが、ノートにないということは、考査前には井場に話を聞けなかったということだ。

 三笠の話は大したものではなかったように思う。三笠の用務員になる前の仕事だとか、見回りは旧校舎周辺だとか。七不思議の話は、特になかった。


「確か……甥は、三笠さんの名前から一文字貰っている、とか、そんなことが書いてあったな。それが用務員室にある入学式の写真に写った生徒か……」

「あった気がする。姫烏頭ひめうず、よく覚えてるね?」

「記憶力は良い方だ」


 侑里は興味もなさそうに卒業文集を読み進めていて、字が汚いだの何だのと、独り言のような感想を述べている。特に相槌も期待していないのだろう、反応をしろと言ってくることもない。

 蒼雪はまた少し考え込むような素振りを見せて、「ああ」と声を上げた。


「なるほど、そういうことか……トイレットペーパーも、そういう理由か。今になって行動したのも、もうからだ。そして竹村竣が死んだのが、その契機だった」


 こつりと蒼雪の指先が机を叩く。

 卒業アルバムの写真をひとつひとつ確かめるように指で辿り、いくつかの写真の上で指を止めた。安東寛史というその名前を叩き、彼は何を思うのだろう。


「――解を得た。これが答えだ」


 ゆるりと蒼雪が目を閉じる。彼の中で繋がった何かの欠片かけらは実鷹の手の中にもあるはずで、けれど実鷹には彼の言う『解』が見付からない。

 月波見学園の七不思議。三十五年前の首括り。二十年前の部誌。八年前の兄の失踪。そして、竹村竣と知希の死。


「三砂、頼みがある。ついでに文芸部の部長にも手を貸してもらおう。次に殺されるとしたら、俺か佐々木だ。猿はすでに怯えている。ならばその前に、七不思議の番人の前で、猿の正体を明かすしかない」

「トモを殺したのも、猿?」

「そうだな、猿の仕業だ」


 ちょっと耳を貸せと蒼雪は侑里を呼び、立ち上がる。実鷹にも聞かせるつもりはないのか、立ち上がらせた侑里のところへと歩み寄り、その耳元でぼそぼそと何かを蒼雪は告げた。

 侑里は聞きながら、みるみる嫌そうな顔になっていく。


「お前……それ本気で俺にやれってか? 盗んでこいって言ってるのと同じだぞ?」

「何を言ってるんだ、俺はただと言ってるだけだ」

「ヒメ、お前本当にな……まあ良い、やってやる。寮監に携帯も返して貰ってこないとな」


 仕方がないなとでも言うように侑里は嘆息し、そして「貸し一つだぞ」と蒼雪に告げた。蒼雪はそれに肩を竦めるだけで答え、また元の位置に戻って来る。

 ぱたんと卒業アルバムは閉じられた。年報も閉じられて、侑里から受け取った卒業文集と共にアルバムのところに積み上げられる。


「俺は明日、首括りの木の場所だけ確認してくる。じゃあ佐々木、


 窓の外、また雨の音がし始めた。

 ぱらぱらと、ばらばらと、降り続く雨はいつまで窓を濡らすのか。梅雨明けは近そうでまだ遠く、きっと空はどんよりと曇っている。

 思えば最近、青空を見ていない気がした。太陽は確かにその向こうにあるはずなのに、雲が分厚すぎて光の一筋すら見えもしない。

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