4.藤戸
事務室の中には職員室や会社によくあるスチールの机が三つある。ひとつは大きくて事務室長が座るところ、あとの二つは向かい合わせだ。キャスター付きの椅子に座って机に向かう事務員は一人しかおらず、
入ってすぐの右手側に、いくつもの鍵がぶら下がっている。その下には紙のファイルが何冊かあり、すべて色が違っていた。ファイルの背表紙には教室棟や特別教室棟、武道場、体育館、旧校舎、そんな風に書かれている。
「すみません、鍵を借りに来ました」
「鍵ならそこにあるから、勝手に持って行くといい。どこの鍵だ?」
「旧校舎です」
蒼雪がそう言ったところで、ようやく事務員は顔を上げて実鷹たちを見た。眉間に皺を寄せたその人の顔からは、実鷹でも「何を言っているんだ」とでも言いたげなのが伝わってくる。
「生徒には貸し出せない」
「ああ、すみません。知らなかったもので……借りられないんですか」
きゅいとキャスターつきの椅子が音を立てて床を滑る。事務員は椅子から立ち、つかつかと実鷹たちのいるところに近寄って来る。
白いワイシャツの胸ポケットのところに、名札があった。そこには『
「お前、外部生か。今年唯一の」
「そうですよ」
芳治は蒼雪を見て、
「じゃあ、知らないのも無理はないな。旧校舎の鍵は生徒に貸し出しできない。教師の許可があれば話は別だが、勝手に入られても困る」
そうですか、と蒼雪は神妙な顔をして頷いていた。それが本当にそう思っているからなのか、形だけのものなのか、実鷹からは分からない。
芳治は紙ファイルのうち緑色をしたものを手に取った。その背表紙には、旧校舎と書かれている。
「ほら、貸出票見てみろ。先生の名前ばっかりだから」
表紙には、貸出票と印字されたシールが貼られている。手渡されたそれを蒼雪が開き、実鷹もそれを覗き込む形になった。
貸出票は名前と貸出日と返却日、そして返却確認の欄があるだけだった。
「最後は用務員の三笠さん」
「こないだの事故死の時のやつだな。その前は下の紙だよ」
蒼雪がその一枚をめくる。そちらは上から下まで名前で埋まっている。蒼雪は貸出票の右下を一度見て、また一番上のページに戻る。そうして、彼はぱたりとファイルを閉じた。
「……なるほど、ありがとうございます。君も見てみるか?」
「あ、うん」
蒼雪に渡されたそれを、開いてみる。彼は何を見ていたのだろうと右下を見れば、そこには数字で「23」と書かれていた。
同じように一枚めくってみれば、その下のものにも数字があって、そちらは「21」だった。
特に何か変わったところもなく、実鷹はぱたりと貸出票を閉じる。
芳治に貸出票のファイルを返せば、彼はそのままファイルを元の場所にしまう。かたりと音がしたのは、芳治が滑り込ませるようにファイルを隙間に入れたせいだ。
「それならいいです。行くぞ、
「ああ、うん」
どうしても貸して欲しいなどと食い下がることもなく、蒼雪は事務室を後にする。実鷹も別に何か用事があるわけでもなく、芳治に一礼をした。顔を上げたとき芳治はすでに自分の席に戻ってはいたが、ひらりと右手をあげていた。
「旧校舎の鍵を借りるのが目的だったのか?」
「そんなところだな。借りられるとは思ってなかったけど」
蒼雪はさして気にした様子もなく、教室棟へと戻る渡り廊下を進んでいく。どこかからホイッスルの音と、ボールを蹴るような音がした。
「そういえば、佐々木は俺に七不思議を頑なに否定すると言ったが、ならば君はどうなんだ」
「俺は」
「君は俺と逆で、頑なに七不思議の呪いはあると言う」
「……なんで言わなきゃならない」
「人間は心なんて読めないからだ。思っていることなんて口にしなければ伝わらない」
人の心を読むようなことを言うくせに、とは思う。けれど彼のそれは単純に人間の顔を観察しているというだけで、言い当てているわけでもないのか。
実鷹は七不思議の呪いはあると信じている。むしろ、なければならない。そうでなければならないのだ。
「真実なんて、すぐに隠されるぞ」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だよ」
教室棟へと向かう途中で、足が止まった。
部活動の声がしている。グラウンドではきっとサッカー部かハンドボール部が練習をしているのだろう。
「
蒼雪は実鷹の顔を見ないまま、口を開いた。
「藤戸という話を知っているか。源平合戦の時代、
何の話だと蒼雪を見ても、彼は顔色一つ変えていない。それでも彼は先日の
「藤戸の戦いにおいて、源平の戦況は
源平の時代。
歴史の授業で習ったことはある。平安時代の終わり、鎌倉時代に向かうころ。貴族の時代が終わり、武士の時代が始まるころだ。
佐々木盛綱という名前は、教科書で見た覚えはなかった。
「では、盛綱はどのようにして海が渡れると知ったのか。どう思う?」
「……その辺りの人に、聞いた?」
「正解。付近に住む人だけが知ることというのはある」
近所の人に聞けば分かることがある。老人が知っていることもある。
ただ目の前に広がる海は、どこであれば馬が通れるかなど分かるはずもない。ならばそれは、現地の人に聞くのだ一番手っ取り早いことだろう。
「盛綱は地元に住む若い漁師から浅瀬ができる日時を聞き出した。聞き出して礼を言って……それで終われば良かったんだがな。当然盛綱はそれを敵に知られたくはない。そして、彼は味方にも知られたくなかった」
「何でだ? 味方なんだろ?」
「
その手柄を独り占めするために、味方にすらも漏らさない。
そして誰にも伝えられてしまうことがないように、自分に教えたその漁師の口を封じたのだ。それこそ、未来永劫。
「引かれて行く波の浮きぬ沈みぬ埋木の岩の――当然それを、誰も知らない。漁師が殺されたことすらも」
海へと沈み、浮かぶことなく。
誰にも知られないままに海の底へと沈んだ漁師は、その当時であったのならば事件にもならなかったのか。
ただの漁師と、源氏の武士と。実鷹は詳しくないけれど、身分の差があることくらいは想像できた。ならば文句すらも言えなかったのか。
「その漁師の母親以外には、誰も」
息子が帰ってこなければ、当然気付く。待てども待てども子供は帰らず、行方不明となったのか。その母親はどのようにして、息子が殺されたと確信したのだろう。
「なあ、何もかもすべて隠してしまえば赦されるのか? 舞台の上で殺し続けるのは、俺は赦しを請うているようにしか見えない」
殺して、殺して、何度でも。
それが実鷹は蒼雪の言うように赦しを請う姿勢とは思えなかった。むしろお前は死んでいろと、そう開き直り続けているようにしか思えない。
「でもこの月波見学園においては……俺には、赦しを請うているのかどうかすらも分からない」
月波見学園の七不思議を、蒼雪は否定する。
月波見学園の七不思議を、実鷹は肯定する。
赦しを請うとしたら、誰が、誰に。死んだと言うのならば、誰が。行方不明になって、戻ることなく。
せり上がってきたものを、実鷹は呑み込んだ。
違う。お兄ちゃんは七不思議に呪われた。だから、帰ってこなかった。そうでなければ――だって。
そうしなければ、誰かを恨むことになるではないか。
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