ひとつめ 雨降りに泣く十三階段

1.1年4組の外部生

 窓の外の桜はすっかり散って、葉桜になっていた。ゴールデンウィークも開けた五月、そろそろ汗ばみそうな気候である。それでも衣替えはまだで冷房も入れて貰えず、俺たちを殺す気か、などと冗談めかしてクラスメイトは口にしていた。

 それでもしとしとと雨が降る日というのは、気温も下がっている。頬杖をついて窓の外を見れば、旧校舎の入口のところに黄色地に黒の文字でKEEP OUT立ち入り禁止と書かれたテープがちぎれて風になびいていた。

 旧校舎を入ってすぐのところに、大きな階段がある。

 先生がただ喋る現代文の解釈かいしゃくを聞き流す。ぼんやりとひらひらと靡く黄色を眺めていると、制服姿の人影が立ち入り禁止というのをまるで無視して、テープを乗り越えて旧校舎に入っていくのが見えた。思わず、がたんと音を立てて席を立つ。


佐々木ささき? どうした」


 教室内の視線が一斉に向けられて、非常に居心地は悪い。

 眉間にしわを寄せて腹を押さえ、努めて調子が悪そうなふりをした。腹などまったく痛くはないしむしろ腹が減っているので早く授業が終われと思っているが、それはそれ。


「先生、お腹が痛いのでトイレに行ってきます」


 誰の返答を待つでもなく、1年5組の四角い教室を飛び出した。クラスメイトの視線を振り払うようにして、けれど調子が悪くてのたのたと歩いているという演技をして、教室から死角になるところまで歩いて行く。

 こちらから教室の中が見えなくなれば、教室の中からもこちらは見えない。二階の真ん中には特別棟と教室棟とをつなぐ渡り廊下へ続く扉と、その反対側に一階に降りる階段とがある。その左右に四つずつある教室は、今はどれも授業中だ。

 どこかで数式を語る声がする。

 誰にも見られなくなったのを良いことに、のたのたと歩くのを止めて一足飛びに階段を駆け下りた。玄関で上履きを履き替えることもなく外へ出て、窓から見えていた旧校舎の入口へと駆けていく。

 一度だけ教室棟を振り仰げば、窓からこちらを見ている顔はない。そうして自ら、立ち入り禁止を乗り越えて旧校舎の中に呑み込まれた。


 旧校舎の中は、しんと静まり返っている。どこか埃っぽい空気のある旧校舎は、人の気配がどこにもなかった。薄暗い校舎は空気も冷たいような気がして、皮膚を刺すように感じてしまう。音は何も聞こえず、埃のようなかび臭いような、古いもののにおいがしていた。深呼吸のために口を開けると、どこか空気がざらついた舌ざわりのような気もする。

 入ってすぐのところには、大きな階段が一つ。二階へ上がるための階段は玄関から上がる部分が広く大きく、そこを上がった踊り場のところから左右に分かれていた。

 その階段のところにしゃがみこんで、何やら観察している人がいる。


「あの」


 制服姿だが、タイが見えない。しゃがんでいるせいで上履きのラインの色も見えず、区別するための色が確認できなかった。


「うん?」

「ここ、立ち入り禁止ですけど」


 確認ができないから、敬語で話しかけた。これで万が一先輩であったりして、そして上下関係に厳しい人だったりした日には面倒なことになる。

 その人は振り返ることもなく、立ち上がることもなく、アリの観察でもするかのようにじっと階段を観察していた。


「それはそうだ。キープアウト、それくらいは読める」

「じゃあ、なんで」

「ここで人が死んだから」


 ひゅ、とのどが音を立てた気がした。

 旧校舎入ってすぐの大きな階段。あの日は、ざあざあと雨が降っていた。今日のようなしとしとと降る雨ではなく、突如降ったバケツを引っくり返したような雨だった。


「五日前の朝、中学部の二年生がこの階段から落ちて頭から血を流して死んでいたから。これでいいか、答え」


 するりと立ち上がった彼の顔が、ようやく見える。タイの色は臙脂えんじ、上履きのラインは赤、同じ高校部の一年生だ。

 彼はじっと顔を見てきて、観察されているようで落ち着かずに身動みじろぎをする。


「うん? まだ疑っているという顔だな。本当なのに」


 顔から何を読み取ったのか、彼は心外だという顔をしていた。

 疑っているというよりは、何を言っているのかが分からない、が正しいかもしれない。確かにここで人が死んでいて、だから黄色いテープは張られている。

 けれど警察がいないのは、もうここを調べる必要がないと判断されたからなんだろうと、勝手にそんな風に思っている。


「ああでも、それだと足りないか。ここは七不思議のひとつめなんだろう? 階段から落ちた二年生は文芸部で、七不思議を題材にしようとして調べていて呪われたんだと。なんて愉快な噂話を耳にしたから、気になったんだ」

「なんで」

「七不思議といえば怪異だろ? 幽霊だとかそういうものだって絡んでくる。彼はななつめを知ってしまったから七不思議に殺されたと、もっぱらの噂だ」


 月波見つきはみ学園の七不思議を調べてはいけない。調べれば七不思議に呪われる。

 七不思議のななつめを知れば、七不思議に殺される。あの二年生はななつめを知ってしまったから、七不思議に殺されたのだ。

 七不思議の、に。


「……君も、怪異に興味が?」

「まさか。


 ぐ、と唇をんだ。のどが鳴る。

 言わなければという衝動しょうどうに突き動かされるようにして、それでも感情的にならないように一回、二回と口を開いては閉じてを繰り返してからようやく言葉を絞り出す。


「存在するよ、七不思議。調べたら呪われる」

「生憎と、俺は目に見えないものは信じない主義だ」


 彼の制服は真新しい。ブレザーの胸ポケットにつけられている校章も曇っておらずぴかぴかで、まだ新しいということが見て取れた。

 高校部の一年生ともなれば、校章とは三年の付き合いが終わっている。日々磨いて綺麗にしていますということでなければ、金色の校章は曇っていく。


「4組の、外部生?」


 春先に聞いた話を思い出す。

 中学部からの持ち上がりばかりの学園で、がやってくることはほとんどない。今年は外部からの入学者が一人だけいて、珍しいという話になっていた。


「そうだ。俺は1年4組の姫烏頭ひめうず蒼雪そうせつ。さあ、俺は名乗ったぞ。君の名前は?」

「……1年5組の、佐々木、実鷹さねたか


 うながされて、名前を口にする。

 姫烏頭蒼雪、姓も名もなんとも珍しいものである。実鷹もたびたび古風な名前だなどと揶揄やゆされることがあるが、蒼雪については古風と形容するべきなのかどうかもよく分からない。

 蒼雪は実鷹とほとんど身長が変わらなかった。ただひょろりとして見える実鷹よりも、蒼雪の方がしっかりとした体付きをしている。


「佐々木こそ、何だってここに?」

「それは、その……姫烏頭がここに入っていくのが見えたから。興味本位で首を突っ込むものじゃないし」


 じっと蒼雪は実鷹の顔を見る。その視線がどうにも落ち着かず、実鷹は視線を泳がせるしかない。何もかもを見透かすような目で見た後に、蒼雪はふと口の端を緩めて笑みを作った。

 呼吸が浅く早くなる。奥底に隠したものまで暴き立てられそうで逃げ出したいのに、足が動かない。


「……そういうことにしといてあげよう」


 そうしてようやく、蒼雪の視線が実鷹の顔から離れていく。ようやく息ができるような心地がした。


「ところで君、七不思議はくわしいか?」

「は? 呪い殺されるんだぞ?」

「だから俺はそんなもの信じていないんだ。俺は幽霊も怪異も信じてない。なぜなら見たことがないからだ」


 そう言われてしまうと、実鷹に反論する材料はないのだ。じゃあお前は見たことがあるのかと聞かれてしまえば、それに対する答えは『否』しか持ち合わせていないのだから。

 見たことはない、その通りだ。けれど実感していることもあって、何かを言いたいのに腹の底に降り積もった何かが言葉にならない。

 蒼雪はそんな実鷹をまるで無視して、階段のところにふたたびしゃがみ、じっと観察している。


「それともそんな、殺されたかもしれない人間を放置するのか?」

「殺された?」

「事故や自死でないのなら、他殺だろ? 何を当たり前のことを」


 だからその他殺の犯人が七不思議だということではないのか。けれど蒼雪の論説からすれば、七不思議というものはらしい。

 ならばその犯人は、人間になるのか。どちらにせよぞっとするが、そういうものを調べるのは警察の仕事であってやはり興味本位で首を突っ込むものではない。


「別に君が教えてくれなくても俺は勝手に調べるが」

「だ、駄目だって!」

「じゃあ、君も確認してみればいい。


 すくっとまた立ち上がり、蒼雪はとんでもないことを口にした。


「はあ?」

「そうだろう? 実際自分が呪い殺されたなら、それは真実だ」

「正気かよ」

「正気だが、それが何か?」


 何を言っているのだというような顔をして、蒼雪はきょとんと実鷹の顔を見ている。彼は何も嘘偽りを言っているわけではなく、本気でそう思っているのだ。

 信じられないものを見ているような気持ちになる。

 七不思議には触れてはならない。七不思議を調べてはならない。七不思議を知ってはならない。そんなおそろしいものに、誰も自ら近付こうとは思わない。

 だって実際に、人が死んでいる。それから――


「呪い殺されるなんて、あるわけないんだけどな。そもそも何をと言うのやら、七不思議が。だいたい見えやしないだろ。それを只人ただびとが見るためには、を通さなきゃならないんだから」


 埃っぽい空気を吸い込んで、またざらりという舌ざわりがあった気がした。埃っぽい空気が喉に貼り付いて、呼吸ができなくなるような気がする。

 目の前で蒼雪は至極しごく当然のことを言っているような顔をして、意味の分からないことを言っていた。

 恨めしや、それは分かる。けれどとは何の話か。


「それに、気持ちが悪いじゃないか。解を得たいんだ、俺は」


 じゃあどうして、

 実鷹は頭の中に浮かんで消えた言葉に、ふたをした。

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