第7話 - 正礼装でフィナーレを

「ねえ、ちょっと! あそこにいるの、三年の飛鳥様よ」

 本校舎の東棟、普通教室の窓から中庭を見遣った一年生の女生徒は、赤いリボンの端と共に揺れる、烏の濡れ羽色に染まったポニーテールを捕捉した。机を少女のものと隙間なく合わせて座っているクラスメートは、抑えかねた黄色い声につられ、真夏の風景へと視線を移す。窓枠の外では、硬さが異なる鉛筆三本と練り消し、A4サイズのスケッチブックを小脇に抱えた飛鳥が、木陰に面したベンチへと腰を下ろすところだった。鉄製の肘置きに画材を立てかけ、プリーツスカートのポケットから取り出したハンカチで首筋の汗を拭う特待生は、そこで一拍、ほうと口から熱気を逃がした。

「お、本当だ。流石に外は暑そうだな」

「どこどこ! 飛鳥先輩、俺も見たいんだけど!」

 飛鳥から見て正面に位置する葉桜は、歴代の会長たちが「夜半の宣誓」を行ってきた創立碑を足元に従えている。西へ傾き始めた太陽が、磨かれた黒御影石のまだら模様と、黄緑色の葉の輪郭を光らせているのがやや眩しい。音楽、書道、美術、工芸の四つのうちから一つを履修させるよう学習指導要領で定められている芸術科目は、正解と不正解が明確に区切られた受験勉強に追われる三年生にとって、貴重な自己表現とリフレッシュの場となっていた。

 美術の教科担当から課された写生のモデルを選び終え、一息もつき終わった飛鳥が制作の準備を整えていると、グラウンドから中庭へ通じている路を経由して、ウルフカットの少女が駆け寄ってきた。表情も明るく飛鳥の隣を埋めた彼女は、三年目の付き合いとなるルームメイトへ話しかけながら、自らもスケッチの用意を始めている。換気をせずとも涼しい風が頬を撫でる、最新の空調設備が完備された室内からは、屋外の少女たちが朗らかに話している内容を聞きとることはできない。

「今日も夜猫さんと一緒か」

「寮鳥会の中でも、あのお二人は大の仲良しだもの」

「夜猫先輩も可愛いけど、飛鳥先輩は、こう……ザ・美人、って感じだよなあ。こないだ俺、集会で目が合ってよぉ」

「やめとけよ。先々代の会長とデキてるって噂、お前も知ってるだろ」

「まだ何も言ってない!」

 芥子色の瞳の鸞をあてがわれた彼らの手元には、数学の証明問題が表示されたタブレットが、班を構成する人数分だけ置かれている。一つの問題に対し、最低でも三通りの解法を見つけるために寄せられた机と頭脳は、いずれも平均よりはるかに上等な部類だ。授業とは関係のない話を続ける一年生たちは、独自の観点から解を導き出すための文章と数式を、各々のタッチペンですらすらと書き進めていく。よそ見さえしなければどの班よりも早く終わるはずだった共同作業は、ようやく半分を過ぎたところだ。

「桜兎さんは……いないな。芸術科目の選択が別だったか」

「飛鳥様と桜兎様の不仲は有名じゃない。一緒の科目を取る道理がないわ」

「それさあ。仲悪いーってよく聞くけど、マジなの? どこ情報よ」

「この前、廊下ですれ違った先輩方を見かけたが、どちらからも挨拶すらしていなかったぞ。すれ違ってから見えなくなるまで、夜猫さんが終始困った風なのが気の毒だったな」

「一年の頃は常に三人で行動してた、っていうから驚きよね」

「確かに、揃って話してるのは、取材くらいでしか見たことないな」

「飛鳥様と桜兎様、どちらが会長になられるのかしら。候補者の実力が拮抗しすぎて、任命式が後回しにされて……もう八月よ? 再来月には一大イベントも控えてるんだから、それまでに頭領を決めてほしいところだけど」

 今年の四月から始まった令和十八年度は、国立鸞翔高等学校にとっては節目の年だ。ドイツ人と日本人の夫婦が学校を立ち上げてから、実に百五十年目を数える今年を寿ぎ、恒例の学園祭をさらに拡大したイベントが催される。言わずと知れた卒業生だけでなく、諸外国在住の著名人へも招待状が送られるため、外国語科目の成績が優秀な生徒には、当日は通訳となるよう声がけもされていた。期末の評定に大きなプラスとなる上、労働の対価として与えられる報奨金も破格なため、断る生徒はほとんどいない。

「そのイベントで、いよいよ白黒つけるらしいぞ」

 どういうことだ、と班員からの注目を一身に集めた彼は、A、と前置きした下線に沿って三次関数の極値を書き込み、タブレット用の筆記具を机上に置いた。電子教材のすぐ脇には、彼の私用スマートフォンが沈黙している。

「全プログラムの最後に組み込まれてる、来賓を交えたパーティーがあるだろ。そのフィナーレとして、今年度の会長の任命式を執り行うって話だ」

 入学式や卒業式の舞台となる大講堂は、一階の座席を取り払うための仕掛けが内蔵され、観覧席付きのダンスホールにも変形可能である。「鹿鳴館外交」とも呼ばれた明治の社交場よろしく、男女それぞれの正礼装にあたり、夜会服とも呼ばれるイブニングドレスと燕尾服をドレスコードとした舞踏会が催されると周知されたのは、ゴールデンウィークが明けてすぐの頃だった。その影響で、近頃の体育は社交ダンスの練習時間と化しており、廊下を行き交う生徒たちの姿勢までおのずと改善されつつある。

「ははあ、なるほど。行事の締めに学校のトップを公示したら、華やかで印象もいいしな。決定が遅くなった分、出し物の一部にする腹積もりか」

「よほどのことでもない限り、寮鳥会の会長がそのまま首席卒業生になる年が多いし……背が高い桜兎様なら、きっとテールコートもトンビコートもお似合いでしょうね」

「おっまえ、そこは飛鳥先輩だろ! 一年の時から満点で一位をキープしてる、異例中の異例、模範中の模範な特待生だぞ! なのに、本人はそれを鼻にかけた風がないのが、またかっこ良くてさ……。まさに、我が校の会長になるために生まれてきたようなお人じゃないか」

「あら。桜兎様だって相当な人気よ。定期考査だって、二年からはずっと飛鳥様と同点で一位続きじゃない。そんな反論じゃ、あまり響かないわ」

「馬鹿。二人とも、声がでかすぎ――」

「どうやら、難問に挑戦したくて仕方ない班があるみたいだなー」

 どきりと肩を揺らしたのは、段々と雑談の声が大きくなってきていた、教室内のほぼ全員だった。とりわけ、寮鳥会の三年生を槍玉に上げて口の運動に勤しんでいた彼らは、恐る恐る視線を上げた先で、この時間を預かっている教師と目が合ってしまった。目元を細めて笑みを作った彼に合わせて、冷や汗交じりの愛想笑いで応えた三人は、次に自分たちが辿るであろう運命を瞬時に予測した。

「六班。代表者は前で解いてみなさい」

「……あんたたちのせいだからな」

 見事に的中した予感に渋い顔をしながら立ち上がった彼は、黒猫のストラップがぶら下がったスマートフォンを左胸に収納し、指名される原因となった二名へ白い目を向ける。軽く拝むようにして謝意を示した男女は、不機嫌なまま電子黒板へ向かっていく彼のために、自販機のレモンティーを折半することに決めた。


 元気にくしゃみをした夜猫へポケットティッシュを差し出した飛鳥は、野外スケッチを八割方完成させている。このまま順調に硬度の高い鉛筆で細部を描き進めていけば、授業が終わる五分前までには余裕をもって課題を終わらせることができるだろう。本校舎と体育館に挟まれた中庭を吹き抜けるそよ風に目を細めた彼女は、鼻をかみ終わった友人に名前を呼ばれ、肩の力を抜いたままに返事をした。

「桜兎クンとは、結局仲直りできてないんスか?」

 黒鉛と粘土の混合物が浅い凹凸を滑り、粒子の欠片で軌跡を描く。先が丸くなってきた鉛筆で夜猫が写し取っているのは、スニーカーを履いた自身の足元だった。

「仲直り、って……そもそも、私は喧嘩した覚えなんかないわ。急にこっちを避け始めたのは、桜兎の方よ」

「でも、廊下ですれ違った時とか、おはようの一言もないし。寮鳥会でも仕事の話だけして、どっちも怒ってるようにしか見えないっスよ」

 アブラゼミの合唱が、会話の隙間に滑り込む。唇を尖らせる夜猫に図星を突かれた飛鳥は、しばらく筆を止めてから、ひいたばかりの線をゆるゆるとなぞった。

「だって、なんて声をかければいいか、分からなくなっちゃったんだもの」

 二年生の五月、伯父夫婦と従兄が逃げ帰ってから、幼馴染たちの足並みは揃わなくなってしまった。家庭の問題が一旦の解決に至ったことを伝えるために用意されたフールセックは、賞味期限の当日まで粘った末に、飛鳥と夜猫で食べざるを得なくなった。いつ渡しに行っていいかと予定を尋ねていたチャットに追伸を重ねても、彼の既読がつく気配はない。どちらからともなく一緒に過ごしていた昼食のひとときも、クラスメートと談笑しながら箸を動かす桜兎を遠目に見付けた飛鳥には、誘い直すことすら憚られた。また、時期を同じくして、定期考査では万年二位だったはずの少年は、突然に満点を取り始めた。彼らの手元に残ったのは、十分な話し合いの場が設けられないままに離れた距離と、何か重大な軋轢が二人の間に生じたのだろうという、周囲の勝手な推測だけだった。幼馴染たちのために作られたチャットルームのログには、一年以上に渡って飛鳥のメッセージが置き去りにされている。

「そりゃ、見えてるところにも色々ゴタつきはあったし、ヨネの知らないやり取りとかも、当然あるんだろうけどさ。それよりも、飛鳥チャンのことが大好きな桜兎クンが、こんなにあからさまな態度を取るのに驚き通しっつーか」

 靴紐の平たいねじれの陰影を表現するべく、少女は柔い鉛筆の先を寝かせる。

「どっかで膝突き合わせて話してほしいってのは、単なる外野のぼやきっス」

「外野なんかじゃないわ。……板挟みにさせて、ごめんなさいね」

「二人とも、変なところで頑固だからなー」

 授業の終わりを告げるチャイムが、校舎の内外へと響き渡る。授業中に終わらなければ放課後に居残りとなる美術課題は、木製のベンチに並んで座る二人のうち、夜猫だけがその対象者に当てはまった。


「毎度毎日ご苦労さん。七時までには返しに来いよー」

「はい、失礼します」

 職員室の扉を閉めた飛鳥の手には、通例であれば常日頃から会長が保管するよう定められているはずの、一本の鍵が握られている。新しい会長の座が空席のままとなっている今年は、この寮鳥会室の鍵についても、他教室分と同じく職員室で管理されているのだった。借用の際は、三年生の会員であっても必ず教員に一声をかける必要があることに加えて、日を跨ぐ貸与は認められていない。そのため、夜の寮鳥会室へこっそり忍び込んで宝探しをすることはもちろん、曖昧な関係値となった桜兎や、後輩らの人目がある多忙な日中も満足に動けないまま、残り少ない卒業までの日数ばかりが過ぎていった。

 黒ごま入りの堅焼きプレッツェルを夕食代わりに噛む数学教師から鍵を受け取った飛鳥は、その足で西棟へと向かった。夜猫は終わらなかったスケッチの仕上げ中で、二年生の会員たちも、サポート役に桜兎を連れ立った打ち合わせで出払っている。寮鳥会室に現在いるのは飛鳥のみ――とはいえ、昼間はいつ誰が戸を叩いても不思議ではない。隠し部屋の錠と、手持ちの鍵とが符合するかを確認したいと思う冒険心を堪えた特待生は、当初の目的通り、トンビコートが収められたワードローブの鍵穴へ、古金のペアを差し込んだ。

「そういえば、乾拭きくらいはした方がいいわよね」

 湿度の高い日本の夏は、木製の家具とは相性が悪い。戸棚の素材として統一されているマホガニーは、木材の中では耐久性が高い方であるとはいえ、全身が深茶色に変わる程度には歳を重ねてきた分、丁寧に手入れをするに越したことはない。中の四隅に乾燥剤を置こうとした右手を引っ込めるついでに、上着がかかったままのトルソーを抱え、箱の外へと救出する。週に一度は丁寧にブラッシングをかけられるカシミヤは、入学式の夜に初めてまみえた時と同じく、染み一つない美しい毛並みを誇っていた。

 水道で軽く湿らせた古新聞をよく絞り、触っても指が濡れなくなった即席の掃除用具で木目を擦る。上から順に力を込めてはみるものの、定期的に開閉される空間ということもあり、埃はほとんど舞い落ちない。僅かな艶が出た表面を、水にくぐらせていない三面記事で磨き上げれば、心なしか色が明るくなったような気さえする。

――コートの埃がどうのと言っていたけど、狐塚さんは、掃除が嫌いなのかしら。

 狐塚が保管していた写真で、無邪気に笑ったまま時を止められた母の顔を思い浮かべる。首席卒業生にのみ着用が許されるトンビコートを、禁を犯してまで退学前に着せてみせた当時の彼らの関係を深く推察することは、かつて少女だったその人の娘である飛鳥には、とても野暮ったいことのように感じられた。それと同時に、巣立ち間近だった戌月の誘いに吸い寄せられ、羽織らされた布越しに伝った鼓動と続きの行為を思い出した飛鳥は、あっという間に赤くなった顔の熱を額の前で払う。膝を畳んで小さくなった彼女は、処分される前の最後の役目を終えた古新聞を、手近な床へと転がした。

「仕事中に、何考えてるんだか」

 不意に湧きあがった羞恥を苦心して落ち着けた飛鳥は、ワードローブの底へ両手をついて、再び立ち上がろうと試みる。しかし、軽く体重をかけた拍子に、板が僅かに動いた感触で、少女は身体を強張らせた。貴重なアンティークを壊してしまったかと、外れてほしい仮説を脳裏へ浮かべながら、恐る恐る視線を落とす。すると、底面とばかり認識していた木の板が手前にずれ、五センチ弱の高さがある空間が奥へと姿を現しているではないか。覗き込む彼女自身の影が覆い被さる隙間へ目を凝らせば、容量の上限間際まで積み重ねられた、厚い紙束の端が見えた。瞬きを忘れた飛鳥は、恋とは異なる心臓の高鳴りに胸を痛めながら、僅かに震える手で仕切り板を滑らせる。

「――灯台下暗し、って訳ね」

 滞りなく暴かれた衣装ケースの二重底には、定規を用い、筆跡鑑定が行えないように細工されたアルファベットが連なるくたびれた白地の紙と、三年ごとに一枚ずつ抽出された卒業証書が数十枚、それぞれの領域を犯さないように折り重なっていた。


 大講堂の一階を浸す慎ましやかな賑わいは、今夜のドレスコードに沿った正礼装で着飾った来賓と、話術や社交ダンスの巧拙などから選抜された一部の生徒、および教師陣らの控えめに開けられた口の奥から生産されている。二階の観覧席に通された他の生徒はといえば、学校負担で仕立てられたオーダーメイドの衣装の着心地や、巡回する軽食、近隣の席に座った同門との歓談といった、各々の娯楽を見つけているようだった。鸞翔高校の創立百五十周年イベントを締め括るために用意された後夜祭代わりのパーティーは、カシオペヤ座が昇る雲一つない十月の空の下、恙なく進行している。

「飛鳥チャンも、誰かと踊ってくればいいのに」

 掌を差し出されるままに応じてきた夜猫の額には、ファンデーションの層を押しのけた汗がうっすらと浮かんでいる。黄褐色が格別に濃いシンハライトが煌めくネックレスは、彼女が十八歳となる当日に学校を訪れた両親から贈られた品だ。細いプラチナのチェーンに揺れるレアストーンは、オフショルダー・ラップの型紙によって露わにされた少女の胸元へ、高貴な牽制を添えている。首飾りと揃いのイヤリングが固定されたまろい耳朶に、黒のウルフカットを纏め上げた項、フィッシュテールスカートによって露出した細い脛を目撃した男子生徒たちは、揃って頬をほのかに紅潮させており、チークを施したかのような顔色となっていた。

「もう少し後でね。化粧直しもいいけど、ちゃんと水分とること」

 デコルテから七分袖の端までレースを縫い付けるイリュージョン・ネックを採用された、ワインレッドのAラインドレスを纏う飛鳥の耳元では、ルームメイトから借りた真珠の粒が揺れている。編み込みを取り交ぜたハーフアップの横断線にも、天然の白い球が点々と散りばめられており、少女の長い黒髪はキャンバスの役を演じていた。

 近くのウェイター――今日この日のため、OGが経営する専門業者から派遣された、警備と接待のプロだ――を呼び止め、軟水が注がれたシャンパングラスを受け取った彼女の指先には、赤く塗られた短い付け爪が乗せられている。

「えへへ、ありがと。桜兎クンは?」

「……そういう気分じゃないかな」

 次期会長候補として周囲からの視線を避けられない彼は、飛鳥からグラスを受け取る夜猫から発された、何気ない質問にも答えざるを得なかった。入学時からさらに身長が伸びた少年は、腰の位置が高く見えるよう工夫された伝統的な黒の燕尾服へ、鳥の羽を模したラペルピンを左胸に飾っている。硬質な服装に合わせるべく、後ろへと撫でつけられた前髪の後れ毛が、生来から色白な生え際で揺れていた。

「ふうん。ま、卒業生の入場がもうすぐだし、固くなっちゃうのは分からんでもないっスよ」

「緊張とかでもないけどさ」

 桜兎の反論を聞いているのかいないのか、クリームチーズとスモークサーモンをライ麦パンに乗せたカナッペを満面の笑みで頬張る夜猫は、口をつけていた残りのミネラルウォーターを飲み干してから、ホールの外部に備え付けられた手洗い場へと旅立った。

「夜猫とは話すのね」

 残された幼馴染たちのうち、業務以外では久方ぶりとなる会話の初球を投げたのは、飛鳥だった。自分用にと確保していたアセロラジュースで咥内を湿らせた少女は、想像よりも酸味が強かった液体に眉を顰めてから、勢いづけて水位を下げる。飛鳥の唇を彩る口紅が付着したフルート型のグラスには、大講堂の様子が上下逆さまに映り込んでいる。

「こういう場なら、話さない方がおかしいだろう」

「急に態度を変えたのは、あなたの中では理にかなっているとでも言いたいの」

 壁の花となった二人は、互いの視線を前に向けたまま、それぞれの表情を見ることなく声帯を動かしている。人の熱気を冷ますために駆動する空調は、素っ気なく低い温度の言葉の応酬を続ける彼らの傍へ、涼風を吹き込めるだけの大義名分を失っていた。

「ぼくにだって、それなりの事情があるんだよ」

「話してくれるつもりはない?」

「少なくとも、人前でするような話じゃないのは確か」

 赤い水の全てを胃の腑へと移し終えた飛鳥は、料理が完売した大皿が積み重ねられた配膳用のカートへ、器であれと命じられた細長いガラスを置いた。曲の切れ目を迎えたホールの中心部では、数分間を共にしたパートナーにこうべを垂れる男女が群れを成している。

「なら、二人きりになりましょう」

 飛鳥の一回り小さい掌が、桜兎からの返事を確認する前に、彼の手首を捕らえる。瞬間、大講堂の天井で燦燦と輝いていた人工灯は、一斉にその瞼を閉じた。


「呆れるべきか怒るべきか、すごく悩ましいんだけど」

「あら、じゃあ感心して頂戴」

「威信をかけた一大行事を放り出す役員が、どこにいるっていうのさ……」

 飛鳥たちがハイヒールと革靴のままで抜け出してきた舞踏会の会場には、再び明かりが灯されている。新たなゲストとして入場することが決まっていた卒業生に注目させるため、入り口のスポットライトのみに照明を絞った数分間の演出は、エスケープ希望者にとっては絶好の機会だった。

「思ったよりも暗くて安心したわ。夜猫は私がこうすることを知っているから、場はうまく回るはず」

 アドリブ劇のいい訓練になりそうね、と微笑む彼女の横顔は、柔らかな月明かりに照らされているからか、桜兎の目には穏やかなものに見えた。レースの網目が頼りなくとも、かろうじて布地には覆われている前面とは対照的な、腰元まで素肌を暴くドレスの輪郭。空気を掬うように丸められた黒髪が、すべらかな肩甲骨を掠めている。

「ずっと前から気付いていたわ。隠し部屋に鍵をかけたのは、桜兎だってこと」

 草間に隠れた鈴虫が、小さく薄い鈴を細かく揺らす風にも似た、か弱い鳴き声を上げる。一匹の先達を皮切りに、我も我もと呼応し始めた自然の楽器たちは、即興で音の波形を作りながら、番う相手を探していた。

「……今日のあすちゃんは、随分と突飛だね」

 りん、と音を区切った頼りない翅は、休み時間もほどほどにして、変わらない高さの音符が連綿と続く、次の小節を奏で始める。長机に寄せられた革のソファは、座らせ慣れた少年を危なげなく支えていた。

「隠し部屋に初めて忍び込んだ時は、夜猫が一緒だったわ。でもね、二回目の侵入は、電話をかけてきた桜兎しか知り得ないのよ」

「どこにいるかを黙秘したまま、きみは強引に電話を切ったじゃないか」

「音を吸える遮蔽物があるのは、隠し部屋以外となると、図書室と音楽室くらいね。残念ながら、学園祭の当日は、西棟より奥の特別教室には揃って鍵がかけられていたわ。大講堂も考えたけど、そこじゃ今度は壁が分厚すぎて、電話なんて繋がらない」

 寮鳥室の隅に雑然と積まれた、ガムテープが貼られた形跡のない組立済みの段ボールへと手を伸ばした飛鳥は、紙の造りが晒された蓋の長辺へと指を差し入れ、長方形を順番にひらめかせる。

「だから、桜兎に何らかの事情があることは想像できた。それがどういったものなのか、断片的にでも詳しく推測できるようになったのが、つい最近の話ね」

 彼女が掴み、段ボールの中から引き揚げられた紙束は、彼の目の前に横たわる長机へと、寄り道せずに着地した。

「ワードローブから出てきたの。エニグマの文法に則って変換された暗号文と、名前のどこかに必ず『兎』が入った先輩たちの卒業証書が」

 種類の異なる紙によって構成された二色の層は、表面から続く数センチ分の断面を、クリーム色に独占させている。彩度の低い金色の枠模様には、学校のシンボルでもある鸞が、悠々と描かれている。

「母さんの分も、あったわ。卒業証書には、戸籍通りの名前が記載されるから……ここまで綺麗に『兎』のつく人たちが揃っていて、全部が偶然で全員が赤の他人だなんて、そう考える方が乱暴だと思わない?」

 一番上に重ねられた紙片の終盤には、幼馴染たちが入学する直前の暦である「令和十五年度」が、伸びよく香る墨でしたためられている。

「三年に一度、決まってここに入学する『兎』は、私たちの代では桜兎だった」

――そういや、オトは兎だろう? 一年で寮鳥会入りたァ、卒業まで安泰ってワケだ。

「妙な言い回しをするとは思っていたけど、『兎』の役目が影に徹することだとすれば、狐塚さんの言葉にも合点がいくわ。本来なら、この人たちと同じ道を辿るはずだったあなたが、前例のないイレギュラーだってこともね」

 本人に渡されなかった卒業証書は、一期生の分を皮切りに、三年ごとに一枚のペースを乱すことなく続いている。決まった年度に入学した後、密かに退学するまでが彼らの学校生活だとすれば、「寮鳥会」という鸞翔高校で最も目立つ組織に所属するメリットは、彼らにとって皆無だ。人目につけばつくほど、学校生活の満了を待たずに消えた後の生活ぶりにも注目を集めてしまい、好奇心旺盛な野次馬の餌食となる。事実、飛鳥の母である兎未は、誰もが認める才女であったにも関わらず、会員名簿には名を連ねることが叶わなかった。この原因が、個人の適正と血筋の役目が衝突した点にあったと仮定すると、寮鳥会のメンバーを選抜している教員、ひいては学校全体の采配に対する違和感をなだめることができる。

「戌月先輩に訊ねたら、拍子抜けなくらいあっさりと教えてくれたの。狐塚さんの事務所でインターンをした時、次の『兎』が誰なのか質問したんだ、って」

 その頃は一年生だったはずなのに、鍵でもくすねたのかしら。そう言いながらはにかんで見せる、中途半端に空いていた桜兎の隣の席に腰を下ろした特待生は、実年齢よりも幾分か大人びた顔つきで、喉の深層を動かし続けた。

「あなたの素性を知っていた戌月先輩は、どれだけ優秀な生徒であっても『兎』は寮鳥会に所属できない慣習が覆されるように仕向けた。爆弾騒ぎの解決に貢献した中心人物として巻き込んで、私や夜猫、『兎』の存在自体を知らない会員に疑念を抱かせないために、学校があなたを日向に出さざるを得ないように。……ここまでの推測で、違ったところはあるかしら」

 伴侶を乞うていた秋虫の演奏は、もうすぐ十八になる少女が舌を休めるとうの昔に、楽譜のコーダを過ぎていた。

「兎として生まれたのだから、鳥に憧れるのはやめなさい」

 常とは異なる口調で呟いた桜兎は、曖昧な焦点をよしとする、判然としない眼差しを机上へと向けていた。

「『兎』は、ドイツと日本、それぞれの国のスパイでもあった、初代学園長の末裔だ。一族の子どもは、選び抜かれた優秀な人材に混入した不純物を弾くことが、身籠る前から決まっている。生まれ方から違うから、僕たち『兎』は、巣立ちはおろか、羽化すらできないんだよ」

 膝元にある桜兎の指は、教会で罪を懺悔する敬虔な信者のごとく、少しの隙間もなく組み合わされている。他校と比べて異常に多い退学者の根源を前に、脱落とは対極の位置に君臨し続けてきた飛鳥は、彼が背負う透明な荷物の重さを想った。

「きみと知り合ったのだって、単なる出来レースさ。遠縁だったけど、駆け落ちしたきみの母親を見張るために、ぼくの家族は引っ越した。あすちゃんが不穏分子として教育されはしないかと騒ぐ年配が、きみの母親が健在なうちは、子ども共々監視するように命じた」

 打ち合わせくらい、後輩に任せるべきだったな。苦笑しながら目を開けた桜兎は、まっすぐに自分を見つめる幼馴染と視線を合わせた。異国情緒を思わせる彼の青い瞳は、創設者のうち片方に流れていた、欧州の血の名残が色濃く反映されている。母が「兎」であったため、桜兎の祖先から株分けされた遺伝子を自身にも含むはずの飛鳥の瞳は、夜闇をたたえた無彩色だった。

「あなたが泣き虫だったのも、私を油断させるための作戦だった?」

「うーん、頷きたかった質問だなあ」

 勝気な吊り目を細めた少女が、それにふさわしい笑みを口元へと託す。彼女によって横にずらされた卒業証書の下からは、角ばった英字の羅列が顔を出した。

「暗号の方には、苦労させられたわ。アルファベットを置き換えるまでは順調だったのに、フェイクの文字や専門用語が多くて、単語の区切りを見つけるのが大変で……夜猫と一緒に徹夜して、どうにか今日に間に合わせたの」

「解読したなら、これが何を意味するのか、理解しているんだよね」

「第二次世界大戦中、ナチスドイツが秘密裏に開発していた、原子爆弾の設計書よ」

――国立鸞翔高等学校の校舎のどこかには、第二次世界大戦から隠され続けている秘密がある。

「隠し部屋にあったエニグマは、解読方法のヒントでもあり、『これによって解かれるべきものがある』ことの示唆でもあったのね」

 数秒、耳を劈く静寂が二人の間に流れ、形の違う耳の奥に張られた鼓膜を震わせた。

「日本版の原爆開発にあたる『二号研究』は検討中に終戦を迎えたけど、この設計書は、被害者だからこそ通せた日本の論の骨子を、根本から脆くさせる爆弾ね」

 国境を超えたスパイ夫婦の連名で国立鸞翔高等学校が創設されたのは、一八八六年のこと。ドイツ人技術者のシェルビウスが機械式暗号機「エニグマ」の特許を出願したのが一九一八年、ナチス政権下で原子爆弾の開発が本格化したのが、一九三九年頃である。それを追うように始まった、日本の「二号研究」の存在は、文部科学大臣が認可した義務教育課程の教科書からは省かれている。

 第二次世界大戦中は、日独伊三国同盟を結び、日本とは強い協力関係にあったヒトラーから、通商破壊戦――通商物資や人を乗せた商船を攻撃することによって、海運による物資の輸送を妨害する戦法――を日本にも実行させるため、ドイツ海軍から潜水艦が参考品として提供されたこともあった。すなわち、同盟国から武力の増強に繋がる情報連携が行われていた当時の日本において、先んじて開発が進められていたドイツ流原子爆弾の設計書の受領や、それらの再現を試みることが決してなかったと断言するためには、まず、悪魔の証明を克服する必要がある。日本の「二号研究」のため、ドイツを出発した潜水艦からアメリカが押収した五百六十キログラムの酸化ウランの他に、海を渡りきった原爆の材料はなかったか。同盟国から分けられた知識で底上げされた完成品は、極東の島国になかったか?

「あなたがあからさまに会長を目指し始めたのは、母の面影探しついでに、秘密の調査もやめる気配がない私から、この事実を遠ざけるため。危険なものは手が届かない場所に、なんて……まるで赤子扱いね」

 信用を置き、時には哀れみさえした相手が、実は許しがたい前科をもっていたということを知ってしまった場合、態度を変えずにいられる人間は、一体どれほどいるだろう。しかも、個人の話ではなく、世界単位の規模ともなれば、その影響は計り知れない。この「秘密」が外部に漏れれば、誇張や比喩ではなく、言葉の通りに国力が削がれる。彼らの母国が揺蕩っているのは、情報が盾となり、また刃ともなる時代だった。

「きみには、表側の世界にいてほしかったんだよ」

 きつく組まれた彼の指は、爪の半分ほどまで白く変色し、両手に注がれた強張りを印象づけていた。

「この学校の正体は、元生徒にパイプを作ることによって実現された、世界各国の機密事項を収集している情報機関だ。戦時中に実在したスパイ養成学校として有名な陸軍中野学校は、姉妹校と言ってもいい」

 陸軍中野学校は、昭和十三年に諜報、謀略、防諜活動のための工作員要請を目的として設立され、日本の秘密工作を支えた組織だ。現代においては、東京警察病院の敷地内にひっそりと作られた碑と、歴史の一つとして研究された数々の関連書籍が遺されているのみで、学校自体は戦後に解体されている。既に秘密を暴かれた状態にある陸軍中野学校とは対照的に、鸞翔高等学校は、今もなお国家の第二の頭脳として暗躍していた。

「『兎』による選別が終わった生徒たちは、卒業後、例外なく何らかの分野で身を立てる。花の蜜を吸う時に足へ花粉をつけられて、飛びながら欠片を撒き散らす蜂みたいに、利用されていることにすら気付かないOBやOGがほとんどだけど……この設計書に辿り着いたら、その他大勢という訳にもいかなくなる」

 桜兎は、設計書の束から一枚を抜き取り、左手の親指で四角い文字を撫でた。

「これを見付けられるだけの勘や運、さらに読み解ける程度の知能があって、その意味の重さを理解できる思慮深さまで備えている人材は、諜報員として、喉から手が出るほど欲されているんだよ」

「だから、ネットの噂も火消ししないのね。まずは暗号に興味をそそられてくれないと、金の卵を炙り出せないから」

 彼が手にしている紙面の右上をつまんだ飛鳥は、ぐ、と一度だけ自分の方へと引っ張ることで、設計書を離すように促した。無言の指示に従い、桜兎が手の力を緩めると、経年劣化で柔らかくなった紙は、机の天板の上へと戻されていく。

「桜兎の答え合わせが終わったなら、勝ちは私に譲ってもらおうかしら」

 気落ちした桜兎とは反対に、彼の顔を覗き込む飛鳥の瞳は活き活きとしている。まるで、解法を熟知している証明問題が、そのまま試験に出された時のような表情だ。

「この学校は、鸞が翔ぶと書いて『らんしょう』と読ませるけど、同じ読みで造語じゃない熟語として、さんずいがつく『濫觴』があるわ。物事のはじまりを表す濫觴は、アルファベットにおいては、古英語やラテン語でのみ使われる特殊な文字を除くと、Aがそれに該当するわね」

 桜兎は、隣に座った少女が何を言い出すのか予測ができないまま、ひたすらに耳を傾けるしかない。己が知っている学校の事情は、先ほど白状したものがその全てで、幼馴染が得意げに語る話の着地点を、完全に見失っていた。

「解き終わった設計図の文章から、Aの直後に入れられたフェイクの文字を抽出してみたの。ほんの手慰みに……。そうしたら、何が浮かび上がってきたと思う?」


 盲目な平穏を望むなら、この紙を焼き払いなさい。


「ローマ字で書かれていたから、ドイツから送られてきたオリジナルの設計書には、確実に存在しなかった暗号よ。紙の状態から判断するに、丸ごと全部の設計書は、半世紀以上前からすり替えられていた」

 山を崩され、斜めに流れた紙たちを、特待生が手際よくまとめ直していく。その光景を眺める彼は、嘘をついたことなどついぞない彼女によって明かされた、親族や学校、ひいては国の意向が、歴代の諜報員には最初から見透かされていたという事実に、強い眩暈と頭痛を覚えた。

「原典でない以上、この紙束は、とっくに危険物としての効力を失ってる。その代わり、暗号を解いた先に用意されている大仕事を解読者へ匂わせて、次の代に引き継ぐかどうかを判断させているの。リトマス紙代わりの問題文がなくなったら、学校側も多少は手間取るでしょうから」

「……頭が、追いつかないな。ええと、つまり」

「舐めるんじゃないわよ、ってこと。賞金も確証もない宝探しにここまで深入りする人間が、ハイリスクハイリターンの人生をちらつかされて、じゃあ止めます、見なかったことにしますなんて、引き下がる訳ないでしょう」

 並べ直した複製品と卒業証書を元通りに重ね、束の長辺を机で軽く叩く。飛び出していた数枚を無事に中へと収め終えた飛鳥は、両手を塞いでいた問題文の集合体を、そっと机に置いた。

「だから」

 スカートの付け根に手を差し込み、布を払いながら座り直した少女が、隣の少年と身体を向き合わせる。僅かに肩を揺らした桜兎の青い瞳には、飛鳥の顔周りと背景とが、小さく縮められて映っていた。

「これは、私が自分で決めたことだから。桜兎が責任を感じる必要も、危険から遠ざける権利もないの。そんなことを頑張られるより、私は、あなたと一緒にご飯が食べたいわ」

 彼女の言葉に応えようとした桜兎は、音が喉でつっかえて出てこないことを訝しんだ。それから、しばらくぶりに頬が塩水で濡れていることに初めて気が付き、驚きと戸惑いで調子を崩す。

「あ……ご、ごめん、ちょっと、待って……」

「もう。おとは本当、泣き虫なんだから」

 飛鳥は、はらはらと涙を流す彼の胸元からポケットチーフを拝借し、瞼から零れた水滴を拭っていく。大講堂の盛況ぶりからは遠く離れた寮鳥会室にて、並んで座る幼馴染たちの様子を知っているのは、風ではためいたカーテンから室内を覗き見する晴れた夜空だけだった。

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