第6話 - 招かれざる縁辺
在校生の学年が一つ上がり、受験要項に記載された定員通りの九十名へ新品の生徒手帳が配布されて暫く経った、五月の第三週目。気紛れな春の嵐がたびたび頭痛をもたらす季節において、午前の陽射しが窓辺を照らす烏寮の一室は、四月に届いた厚い写真集を二冊分、本棚へ大事そうに抱えこんでいる。号を新しくする度に千冊のみ刷られるハードカバーの出版元は、昨年末に飛鳥、桜兎、夜猫らがインターンへ従事した、大手芸能事務所だ。一流の経営者であり、鸞翔高校のOBでもある狐塚からサプライズで限定冊子が届けられた女子たちと同じく、やけに重い自分宛の郵便を寮父から受け取った桜兎は、封を開けてからしばしの間、喜びよりも恥が勝つ品をどう扱ったものかと一人部屋で呻いていた。
「最近、名指しのインタビューが増えた気がするんだけど」
日本各地の名門校を北から順繰りに取材しているという、経済新聞のコラム欄を担当する記者を寮鳥会室から見送った桜兎が、長きに渡って手入れされた革特有の鈍い艶があるソファの背もたれへ、どっかりと寄りかかる。腰を深く滑らせた体勢では息苦しくなった詰襟の前を開ける彼のぼやきを耳にした飛鳥は、確かに、と短い同意の意を返事に前置きした。彼女の手元には、撮影の小道具として用いられた、鴇色のカンパニュラを飾った一輪挿しが抱えられている。
「寮鳥会の二年生……じゃない、三年生を飛ばして、なぜか私たちに声がかかるのよね」
代替わりした会長は、文武両道を体現しすぎるほどだった先代の戌月には及ばないものの、教師や生徒からの信頼は厚い。それにも増して、取材を避けられる理由は飛鳥が知る限りには根拠がないゆえ、ポニーテールの少女は小さく首を傾げた。
「あれ、二人とも知らない感じ? 公式SNSの感想キャンペーンで、ヨネたち三人が載ってるページを投稿した人がいたってヤツ」
取材が終わるや否や、自販機へ微炭酸入りのオレンジジュースを真っ先に買いに行った夜猫は、ペットボトルの青い蓋を捻りながら言った。
「めちゃめちゃ拡散されてたから、その影響じゃないかなーっと……ん、おいし!」
舌先で唇の縁をちろりと舐めた彼女の片手へ、今春に発表された最新モデルのスマートフォンが躍り出る。飲み口を下唇へ軽く押し当てながら画面に表示された記事のリンクが、現寮鳥会の二年生用に三人のグループを作ってある、チャットアプリの小部屋へ貼り付けられた。二人同時に鳴った着信音を確認した幼馴染たちは、夜猫から送信された半角英数字の一文を指先でタップし、「人気芸能事務所の総決算に表れた、謎の少年少女の正体は?」と煽るまとめサイトの見出しに、軽度の眩暈を覚えた。記事の冒頭に配置されているのは、先に夜猫が言っていたファンによる投稿の引用で、三人組に割り振られた見開きページを真上から撮影した、横長の写真が添付されている。
「『この子たちの詳細が知りたいです!』……だって」
「安くない買い物をした側からすれば、当然の疑問よね」
発売開始から三分後には売り切れ、一時間もすればプレミア価格が付く分厚い写真集は、毎年十二月時点で狐塚が抱えている芸能人が、余すことなくフルカラー印刷で掲載されることが売りとなっている。電子書籍での配信は一切なく、紙版にのみ販売形態が絞られた商品のため、買い逃したファンの阿鼻叫喚がネットの海で渦を巻くのも、もはや恒例行事だ。一流のメイク、一流の衣装、一流のカメラマン――全てにおいて贅を尽くした彼らの姿を目録にすることで、一般人のみならず、出版社やテレビ局などのエンタメ業界の隅々に至るまで、事務所の権威と実力を理解させることが、押しも押されもせぬ地位に上り詰めた彼の狙いだった。
業界人ではない未成年に対する配慮はあったのか、メジャーデビュー前の候補生である他のアマチュア枠のモデルたちとは異なり、飛鳥らの名前は写真集のどこにも記載されていない。しかし、被写体の正体が謎めいていることこそが、今回の事態を異様なまでに盛り上げている要因の一つだった。
投稿に付けられたハッシュタグから元となる企画の要項を辿ると、あらかじめ決められていた水準まで投稿数が到達した場合、キャンペーンに参加したファンの中から抽選で、事務所に属する芸能人から直筆サイン色紙がプレゼントされる――というのが、一般人を広報に巻き込むための餌だったらしい。参加資格となる感想の対象は、今年度の四月に発売されたものだけでなく、バックナンバーについても容認されていたようだ。スクロールバーの中ほどまで進んだネット記事には、三年前の冊子に掲載された戌月の正体を探る文面付きの投稿も貼り付けられている。この分では、無事に東京大学の文化一類への現役合格を果たした当人も、こちらと似たような扱いを受けていることだろう。そう推察した飛鳥は、両手を合わせるイメージを頭に思い浮かべて、彼の健闘を祈った。
「寮鳥会全員の集合写真とかは新聞に載ってるから、流石に嗅ぎつけられたんじゃないスかね。在校生なのか何なのか、コメント欄でヨネたちの素性を匂わせてる輩もちらほらいるし」
「謎は解けたけど、しばらく取材の仕事が増えそうなのも分かったよ……」
「人の噂も七十五日、を期待するしかないわね」
バーチャルアイドルとしての経歴をもち、注目されることに慣れている夜猫は、手元の作業をインターネットの地底に跋扈する掲示板たちの巡回へ切り替えている。膝に手をついて項垂れる桜兎と、肩をすくめた飛鳥の表情は、どちらも苦虫を嚙み潰したような顔つきだ。グロッケンまであと十数分となり、教室で授業の続きを受けることを諦めた彼らが思い思いの反応を見せ合っていると、寮鳥会室の壁に備え付けられた黒いスピーカーから、放送室で操作された臨時のチャイム音が鳴り響いた。
『先生、生徒の皆様、授業中に失礼いたします。お呼び出しのご連絡です。二年一組の飛鳥さん、二年一組の飛鳥さん。お客様がお見えですので、至急、東棟一階の応接室までおいでください。繰り返します――』
「お客様」の仔細を伝えるつもりがない放送は、全く同じ内容をもう一度読み上げてから、冒頭とは逆の音階で締め括られた。雑談を中断して聞き入っていた三人のうち、友人との会話を再開させたのは、僅かに眉を顰めた飛鳥の呟きだった。
「私に、来客?」
「至急って言ってたし、急ぎなのかも。後片付けはヨネと桜兎クンでやっておくんで、こっちは気にしなくていいっスよ!」
「食堂の席も取っておくね。行ってらっしゃい」
「……ありがとう、お願いね」
きゅ、と口角に力を入れた飛鳥は、座り心地のいいソファから腰を上げた。同級生たちに手を振ってから閉めた扉の外、静まり返った廊下で不意に陰った少女の顔は、誰からも目撃されることはなかった。
――――――
本校舎東棟一階、学園長室と用具室の間に挟まれた応接室は、華々しい経歴を持つ卒業生の功績を展示する部屋でもあった。日本史上初の女性総理大臣となったOGが、在学時に全国高等学校英語スピーチコンテストで優勝した際の写真が引き伸ばされた壁のキャンバスは、ゆとりがある広さの部屋でも一際目を引く一品だ。深茶色のマホガニーで枠を作られた大きなガラスケースの中には、正面玄関のトロフィーケースに入りきらなくなった過去の賞状や表彰楯の数々が、所狭しと並んでいる。
「ようやく来たか。いやぁ、随分待たされたよ」
「こっちも暇じゃないんだから、気を遣って欲しいわ」
「……お久しぶりです。伯父さん、伯母さん」
来客用の空間へ足を踏み入れた飛鳥は、全身を巡る血液がするすると下降していく感覚を味わった。セミフォーマルとは言い難い、原色をふんだんに使用した服で身を包む、今は亡き飛鳥の父の視座からは血縁遠からぬ親族が、夫婦揃って顔を出した。歓迎できない非日常の訪れを肌で感じ取った少女は、静かに深呼吸をしながら、左右の掌を強く握り込んだ。
向かい側に座るよう促され、二対一の構図となった座席の位置は、呼び付けられた彼女が下座になるようにあらかじめ空けられていた。五十代に乗り上げたばかりの男女は、埃一つなく磨かれたアンティーク調の内装において、オーダーメイドのドールハウスへ後から付け足された海賊版のおもちゃのように、周囲の情景から見事に浮いている。
「結局、お父さんにはちーっとも似なかったわね。ま、当たり前だけど」
「たまたま、ネットニュースで飛鳥を見かけてね。楽しそうに過ごしているみたいだけど、卒業後の進路について、何か考えているのかい」
妻の嘲笑にも、膝の上に落とされた飛鳥の視線にも言及しないまま、にこやかに話しかけてくる男の声色に波はない。
「そうですね。人並みに」
口先で返事をした飛鳥は、目の前の大人たちに対してささくれ立つ気持ちとは裏腹に、今頃は食堂でランチメニューに目を輝かせているであろう夜猫や、人通りが少ない席に荷物を置き、席を確保してくれているはずの桜兎の姿を空想していた。
――昨日は牛肉だったから、今日のメインは魚かしら。
飛鳥の逃避を見透かしたように流れ始めたグロッケンが、各教室の日直へ、午前中を締め括る号令の合図を出した。にわかにざわめき始めた廊下から伝う、男女入り混じった生徒たちの明るい声が、特待生の耳には霞がかって聞こえた。
「寮生活が終わったら、色々と物入りになるだろう。ここの寮を出たら、すぐに戻って来られるよう手配してあるからね」
「……はい?」
片眉と共に顔を上げた飛鳥の目に映ったのは、弛んだ下瞼にわざとらしく力を入れた笑みを崩さない伯父と、左手の人差し指で右手の甲を何度も叩く、機嫌の悪さを隠そうともしない伯母の険しい表情だった。
「前の家とも話をつけてあるの。あいつら、ここぞとばかりにふっかけてきて、腹立たしいったらありゃしない。飛鳥ちゃん、あたしたちにようく感謝しなさいよ」
「あの……お話が、よく……大学に進学した後は、一人暮らしをするつもりです。お二人のいらっしゃる父方だけでなく、母方の親戚から声をかけられたとしても、どなたの家にも行きません」
「君の口座に残っていた預金は、僕たちの通帳に移したよ。かなり少なかったけれど、家賃と生活費の前払いだと思ってくれればいい」
まるで飛鳥の声が聞こえていないかのように話を続ける男に、少女は言葉を失った。彼の妻に至っては、事後報告を聞かせている相手に一瞥もくれず、薄手のストッキングに包まれたふくよかな右脚で、貧乏ゆすりを始めている。
「今日はそれを伝えに来ただけ。いくつか書類を持って来たから、来週までに埋めておきなさいね」
ああ嫌だ、客が来たっていうのに、ろくな空調すら点けやしないのね。聞こえるように愚痴を零す伯母が、乱暴な手つきで少女の目の前へ置いた紙束は、伯父夫婦の家庭におけるしきたりと、それらを破った際の罰金の一覧だった。項目ごとに設けられた、ルールを破らないことを承知させる署名欄に自身の名前を書かない限り、調理済みの食事どころか、僅かばかりの食材すら用意させない家長たちであることを、飛鳥は身をもって知っていた。
「それじゃ、また来るから」
要件を話し終えた中年の二人は、寮鳥会室のものよりも上等なソファから腰を上げる。部屋の出口へと歩き去ろうとする彼らを追った飛鳥は、もつれそうになる脚を叱咤して、廊下に面した扉の前に立ち塞がった。大人たちを睨んだ少女の顔は、今に倒れてもおかしくはないほど青白い。
「待って下さい! だって、第一、あの家には」
「うちの息子にしでかしたことは、水に流してあげると言っているんだよ」
男の湿った掌が、飛鳥の肩に置かれた。指先から這い上がった嫌悪感が、少女の皮膚に鳥肌を形成する。
「もっとも、万が一にも断られようものなら、君の同級生あたりに口を滑らせてしまうかも知れないけれど」
潜められた声に含められた愉悦の色で限界を迎えた飛鳥の腕は、自制が追い付く寸前に彼の手を叩き落としていた。
「飛鳥ちゃん。謝りなさい」
嫌悪と怒りで唇をわななかせる飛鳥を見遣る、女の視線は冷たく鋭い。薄く耳鳴りがする中から辛うじて命令を聞きとった少女が、険しい眼光を一層鋭くする。
「私、悪いことなんてしてません」
瞬間、飛鳥の頬に平手打ちをした伯母は、うら若い少女に対する軽蔑を、舌打ちでもって露わにした。
「相変わらず、ふてぶてしい子ね」
受け流せなかった重い衝撃で扉にぶつかり、そのまま床へ倒れ込んだ飛鳥を置き去りにして、夫婦は応接室を立ち去った。エナメル質と擦れた頬の内側から滲む鉄を飲みこんだ少女は、机上に積まれた傲慢な契約書を掴み、力任せに引き裂いた――ちょうどその時、友人の戻りが遅いことを心配し、応接室の様子を偵察しに来た夜猫が見開いた眼と、乱された飛鳥の前髪から覗く険しい目とが、不意にかち合った。
――――――
「後ろ姿しか見えなかったんスけど、あの派手な人たちがお客サン?」
食欲がないと言って箸すら持とうとしない昼食に始まり、午後の授業でもずっと上の空だった飛鳥を早風呂へ連行した夜猫は、夜を待たずに自身のベッドへと彼女を押し込めた。まだ眠くないから、と起き出そうとする同居人を掛け布団でくるみ、自分も横に寝転がったウルフカットの少女とて、穏やかな眠気など少しも感じていない。夜猫の思考は、親愛なる友人へ速やかに休息を与えなければならぬという、飛鳥が高熱を出した日以来の使命感と、彼女の身に災いが降りかかったのではないか、という第六感を根拠とする心配の二つに占められていた。
「……そうよ。父さんの兄と、その結婚相手」
真っ白な枕の脇、スリープ状態に固定された夜猫のスマートフォンは、桜兎との通話を繋げてある。年が明けてすぐの頃、よく集中を欠いていた時期とはまた違った友人の荒み方に戸惑ったルームメイトが、念のために会話を盗み聞きしておいて欲しいと、己よりも当人との付き合いが長い彼に頼んであったのだ。彼側の音声はミュート状態となっているため、部屋にぽつぽつと落とされるのは、少女たちの密やかな声ばかりである。
「なんつーか、ちょっと意外な系統だった、っていうか」
身なりを主とする造形に加えて、雰囲気も全く似ていなかったという正直な感想を一生懸命に濁そうと奮闘する夜猫の努力を視界の端で捉えた飛鳥は、しばらくぶりに眉根を下げた。
「あの人たちとは、血の繋がりがないのよ」
「え?」
「私、母さんの連れ子なの」
壁に身体を寄せていた飛鳥は、寝返りを打つついでに、夜猫が並んで横たわっている方角へ顔を向けた。
「五年前、中学の入学式の前日に両親が事故で死んで、諸々の手続きをしている時に知ったんだけど。遺伝子上の父親の名前は、ちっとも見覚えがなかった」
平成二十七年度の卒業生であり、「兎未」と同期でもある狐塚は、昨年のうちに三十七歳を数え、今年で三十八歳となる。母が二十一歳の時に生まれた飛鳥は、いつでも優しかった父親とも血族であることを、葬儀の前日まで疑いすらしなかった。
「生まれたばかりの私を抱えた母さんが、鹿児島から本州へ飛び出した矢先に、父さんと出会ったらしくて。駆け落ちしたことも火葬場で詰られたけど、こっちはそんなの初耳だし、第一、本人に直接言え、って話よね。母方の親族は、一人も連絡先が分からなかったから、家族葬にすら呼べなかったわ」
ゆっくりと瞬きをする飛鳥を正面から見つめ返す夜猫は、日ごろの無鉄砲が鳴りを潜めた神妙さでもって、一度、生唾を飲み込んだ。
「じゃあ、なんで今日、その人らが学校に来てたのか、とか……聞いてもいい?」
布擦れの音まで拾うスマートフォンのマイク機能は、正常な動作を続けている。辛抱強く接続されている通話先からは、受話器のマークをタップされた冒頭から今に至るまで、一言たりとも差し水を手向けられていない。
「四年前、あの人たちの家に住んだ時期があったの。乗っている車からインテリアから全て、物凄い見栄っ張りなのよ。どんなものを着ていたかは、背中だけでも分かったでしょう」
「あー……そうっスね。絶妙なセンスで、逆に指摘しにくい感じだったっス」
「指輪に付いてるダイヤの粒が大きすぎて、何度もベンツに引っ掛けてるのよ。十中八九、イミテーションなんだけど」
二段ベッドの上段の底を見上げた飛鳥は、暗がりに慣れた視界で木目を数えた。地理の教科書ではお決まりの等高線にそっくりな年輪を二十本数えてから、長い溜め息を吐いた。
「そんな悪趣味な夫婦にも、一人息子がいてね。恐らく私は、体のいい小間使い、兼、嫁として連れ戻されようとしてるわ」
「よ、よめェ!」
素っ頓狂な声で叫びながら跳ね起きた夜猫は、二段ベッドの下側の宿命でもある低い天井へ、したたかに頭をぶつけた。ネオンカラーがちらつく視界で、静かに瞼を閉じている飛鳥を見下ろした少女は、会話相手に見えていない身振り手振りを加えながら冷や汗をかいている。
「でっ、でもさあ? さっきは、親族からも随分な嫌われようだって言ってたじゃないっスか! なんでまた、そこから結婚騒ぎに……!」
「その息子っていうのが、かなり性格に難があるのよ。いつでも示談金をすぐ用意できるように、自宅に大仰な金庫があるくらいにね」
「げ。何はともあれ口封じ、って感じ」
「でも、もし私を家族に迎え入れたら、あの人たちは、世間からどんな目で見られるかしら」
「……身寄りがない女の子を引き取って、息子との結婚も快く認めた慈善家、とか?」
「しかも、『偶然』その女の子が、卒業さえできれば将来がほとんど確約されている名門校の出身となったら、家の株はうなぎのぼりでしょうね」
掛け布団の下でシーツを強く掴んだ飛鳥は、再び開かれた黒い眼で、頑丈な木板の向こうに伯父と伯母の顔を幻視した。
「とっくに成人してる息子が、いち中学生を強姦しかけたことも握り潰して、私が誘ったとかどうとか喚くだけじゃ飽き足らず、母さんと父さんの遺産をほとんど持って行った人たちですもの。本当、いい性格してるわよ」
「飛鳥チャン、それって――」
聞き逃してやれなかった飛鳥の発言に耳を疑う夜猫は、目を細めて微笑んでみせた友人の表情で、確信を得るために用意していた言葉の続きを見失った。
「今日は、ちょっと疲れたわ」
壁側に身体を向け直した少女の長い黒髪は、夜猫が丹念にドライヤーをかけた恩恵で、その毛先まで絡まることなく、清潔な白い布に散らばっている。話し込むうちに暮れていた太陽と入れ替わった夜の帳は、星々と共に厚い雲を連れてきた。にわかに降り始めた雨粒が、外から窓をノックしている。
「……話してくれて、ありがと」
おやすみ、と飛鳥に囁いた夜猫は、スマートフォンを片手で拾い、そろそろとベッドを抜け出した。普段なら飛鳥が眠っているはずの二段ベッドの上段へと向かいながら、なるべく煩くないようにと気を払っている友人の足取りで目頭に熱さを覚えた少女は、掛け布団の端を目元へとあてがった。
――――――
「どー……っしても、顔、見せに行くつもりなんスよね」
親戚の来訪からちょうど七日目を数える平日は、音もなく降り続ける霧雨と共にやってきた。ランチタイムの開幕から間もない食堂にて、五月に旬を迎えたホッケのフライを一口飲み込んだ夜猫は、次に味噌汁が注がれた漆塗りの椀を手に取った。特に京都で長らく親しまれてきた西京味噌は、サクサクと軽やかで歯触りの良い狐色の衣に包まれた白身魚の脂をさっぱりと濯ぎ、咥内の後味には糀由来の芳醇な甘味を残す。眉を寄せながらも箸は止めない少女や、普段と変わりない顔つきで三角食べを遂行する桜兎とは対照的に、話しかけられた飛鳥の食事にはほとんど手が付けられていない。ややこけた頬と青白くなった顔色が、ここしばらく続いている彼女の心労を物語っていた。
「無視したら、もっと騒がれるだろうから」
粒立ちが良い新潟県産の白米を咀嚼している幼馴染は、事のあらましを当人から直接聞かされていた。強姦騒ぎについては意図的に省かれた説明に頷いた彼は、語った後に微熱をきたした彼女へソーダ味のアイスキャンディーを差し入れたその日から、飛鳥が何かを完食する姿を目にしていない。詰襟の中に収められた桜兎の喉仏が上下に往復し、噛み砕かれた白い穀物は食道へと押し出されていく。
「ぼくは、あすちゃんの味方だからね」
「そんなのヨネだって!」
向かいの席で繰り広げられる温かな喧噪に目元を緩めた飛鳥は、午前中に返却された英語と数学の小テストの採点結果を、可能な限り思考の端へと追いやった。高校入学以来どころか、これまでの人生で見たこともないほどに低い点数は、教科担当の教師たちからも訝しまれるほどで、彼らをごまかしている最中の全身は、厚い氷に包まれているかのように寒かった。
――今回は、成績に響かない確認用のテストだったけど。これが定期考査だったら、学校はどうするつもり?
鸞翔高校の特待生に求められる実績のハードルは極めて高く、受験生の中で一番になった後は、学年で九位以内の成績を保ち続けることが契約として定められている。もしも十位以下に転落した場合は、その瞬間から学費の免除、並びにいくばくかの生活支援費を含む奨学金の給付資格を失い、自費で学校に通い続けるか、退学するかの二択を迫られることになる。
――アルバイトで賄える額じゃない。遺産も取り上げられた今、あの人たちが恩を押し売りできるような隙を作ることだけは、絶対にご法度なのに。
段々と視線が下方へと移っていく飛鳥は、先日と同じチャイム音で肩を揺らした。「授業中」が「食事中」に置き換わった以外は一言一句変わらない生徒の呼び出しに、ポニーテールを固く括った少女が立ち上がる。髪と同じ黒のヘアゴムで縛られた結び目は、彼女のトレードマークでもある赤いリボンが覆い隠していた。
「ごめんなさい、外すわね。箸をつけた後で申し訳ないけど、二人のお腹が空いているようなら、私の残りも食べてくれると助かるわ」
返事を待たずに背を向けた飛鳥の背中を、少女の友人たちは黙して見送る。歩を進める度に遠くなる人の声を聞くともなく聞いていた飛鳥は、プリーツスカートを一回りする折り目のうち、左の側面に縫い付けられたポケットの膨らみを指で辿って、ウールの織目越しにその中身を確かめた。
――――――
食堂と東棟を繋げる渡り廊下が終われば、すぐ右手に用具室が現れる。学園長室との間に割り込んだ応接室からは、僅かに複数人の声が漏れ出ており、呼びつけられた少女の耳にも、そばだてないうちから自然とそれらが入ってきた。
「ねえ、今日って俺が来る意味あんの? あんたらが言い出したことだしさあ、こっちも暇じゃないんだよね」
「昼間はずっと家にいるくせに、何言ってるんだか。たまにはママと一緒に出掛けてちょうだいな」
「これが済んだら、舞台でも見に行こうか。ディナーはミシュランの星付きで」
「そういうの興味ねえんだって。あーあ、つまんねえの。女の家にでも行っとくんだった」
ローテーブルを雑に蹴り飛ばした音が、鈍く廊下に伝わる。途切れ途切れに拾った会話に眉を顰めた飛鳥は、ほとんど食べてもいないのにせり上がってくる胃液を強引に飲み下して、乾いた口で深呼吸をした。礼節の教本に書いてあった通り、応接室の入り口である横開きの扉へ三回ノックをすると、室内の騒音がぴたりと止んだ。
「失礼します」
丹田に力を込めて、万が一にも聞き逃せないように声を張る。奥歯まで強く噛みしめた飛鳥は、手をかけるための凹凸へ指を差し込み、まっすぐに伸ばした背で敵陣へ踏み入れた。伯父と伯母が窓側のソファに腰を掛けている様子は先日と変わらないが、飛鳥が座るために空けられている一人分の余白には、隣人として彼らの息子も付いてくる。仰け反るように振り返り、舐めるような視線で全身を見られた飛鳥は、声が聞こえた時から多少の予測はしていたものの、嫌悪感と怒りで頭が沸騰しそうだった。
「うわー、飛鳥ちゃんだあ。久しぶりだねえ、四年ぶりかな」
少女の品定めが済んだ三十代間際の男の口調は、両親に使っていた荒いものから、甘さを多分に含む口ぶりに変わった。わざとらしく細められた両目には小皺が寄り、日頃の不摂生ぶりが見て取れる。大きく開けられたカッターシャツの胸元には、シルバーのネックレスが二重に巻き付いている。伯父夫婦らは相変わらずけばけばしい装いで、この親にしてこの子あり、という一文が飛鳥の思考に割り込んだ。
「無視しないでよ、寂しいじゃん」
用意された席に座りながらも、彼自身には一切視線を遣らずに前を向き続ける少女へ、至近距離から舌打ちが飛ばされる。伯母譲りの横柄な態度に加えて、伯父に似た下品な視線を無遠慮に寄越す血の繋がりがない従兄を、飛鳥は心の底から軽蔑していた。
「あら、飛鳥ちゃん。渡しておいた契約書はどうしたの」
「捨てました」
「……なんですって?」
「全部、破って、捨てました」
首より明るい色のファンデーションを厚塗りした伯母のほうれい線が、一際くっきりと深くなる。弛んだ下瞼は頬に押し上げられ、少女を威圧するために圧縮された眉間には、皮下脂肪で小山が連なった。
「あのね、もう決まったことなのよ。まだ子どもだからって、だだを捏ねないで」
「私、卒業までには十八歳になります。部屋も一人で契約できるし、伯母さんが仰る『決まったこと』は、単なる人身売買でしょう」
十本のうち八本に指輪が飾られた太い指が、ソファの間に横たわる机に叩きつけられる。いずれも質屋で買い求められた紛い物は、緩んだ石座を伝う縦方向の衝撃で、赤や緑の色硝子に細かなひびが入った。
「まあまあ、僕から話すさ」
鼻息荒い妻の背を撫でた伯父は、自身の太ももに左右の肘をついて、覗き込むかのように丸めた背で飛鳥を見上げる。
「いいかい飛鳥ちゃん。世話になった人に、そんな口をきいちゃいけないよ。君は、弟みたいな馬鹿じゃないと思ってたんだけど」
「他のこと全部を許さないといけないルールが適用されるくらいなら、大馬鹿野郎の身の程知らずで構いません」
サーカス団のピエロを彷彿とさせる不気味な笑みはそのままに、次の毒を吐こうとする男との会話に割り込んだのは、飛鳥の隣を陣取る従兄だった。突然に横から肩を押された少女は、座椅子の肘置きに通された芯の木材へしたたかに頭を打ちつけ、数秒の間、焦点のコントロールを失った。
「さっきからさあ、ごちゃごちゃごちゃごちゃうるせえのな。俺らをあんま怒らせんなっつってんの」
詰襟の一番上を留める金具が、覆い被さる男の指先で外される。揺れる視界の中でも分かる煙草と酒の臭気に顔をしかめる飛鳥の首に、彼の掌が沿わされた。
「今度はママも止めないだろうし、ちゃあんとセキニン、取ってあげるからさ」
見た目では分からない女性の喉仏を左手の親指で押し上げて遊び、たくし上げられた黒髪で露出した生徒の項を中指が辿る。緩やかに気道を締める息子の手を、彼の両親が制止することはない。苦くて生温かい吐息を吹きかけられるのは、少女にとってはこれが二度目だった。フラッシュバックで吐き気を催した体温に爪を立てた飛鳥の右手は、辛うじて指一本分の隙間を首と肌との間に作り出した。
——震えるな、震えるな、震えるな!
「……そっちこそ、どうして分からないんですか」
掠れた声を絞り出す少女の覚醒しつつある思考は、真っ先にスカートのポケットへと左手を動かす。朝の着替えと共に忍ばせていた細長いそれを抜き出した彼女は、軽やかな異音を響かせながら、空けたばかりの狭い隙間に銀色を滑り込ませた。
「自分勝手な考えの割を食わせていいのは、思いついた本人だけってこと」
僅かな空白を埋めたのは、八センチ強の刃が押し出された厚手のカッターだった。よく研がれた白銀は、飛鳥の首元へと切っ先が向けられている。表皮にぴたりと沿わされた文房具の持ち手は、少女の視界から照明を隠した男の手が最も内側に、さらに外側には、飛鳥の両手が硬く巻きついていた。
「はは、は……何だよ、冗談だろ? はったりかましたところで――」
「このカッターは、昨日買ったばかりの新品です。持ち主である私の指紋が付いていても何もおかしくないけど、今、あなたの指がべったりと触れましたね」
グラウンドを湿らせていた霧雨の粒が、少しずつ大きくなっていく。昼時で無人となった教室では、細く開けられていた窓から侵入した透明が順調に床を濡らしていく。頸動脈のすぐ傍で尖った工具鋼は、寒気で震えた男の振動によって薄皮を削り取った。
「もう少し奥に入ったら、あなたたちは殺人犯に早変わり。良かったですね? きっと一面を飾れますよ。『血塗られた名門校』とか、『成金一家の恥さらし』とか……ふふ、できるだけ安っぽく煽られることを祈ります」
さも可笑しそうに笑った少女の喉は、一筋の赤い液体で乾燥した男の指を潤す。鮮やかな彩度を誇るヘモグロビンが、詰襟の内側に纏った白シャツの縁を汚した。
「飛鳥ちゃん、やめなさい! やめて! あたしの息子から離れて!」
「お、落ち着きなさい。話せば……そうだ、きっと君は何か誤解してる」
「私の言う事なんて、一度だって聞いてくれた試しもないくせに」
強まる一方の雨脚は、ついに雷を連れてきた。明滅する閃光を追って、数秒の後に空が唸る。時折ちらつく電球が男の網膜に焼き付ける、少女の黒い眼差しは、底冷えするほどに深かった。
「お前、頭おかしいぞ……」
「あなたたちみたいなクズに辱められるくらいなら、死んだ方がマシよ」
最後の仕上げを宣告するように力んだ少女の細腕は、突如として消えた明かりによって中断された。昼間とはいえ、厚い雲と遮光カーテンで覆われた応接室においては、享受できる自然光もごく僅かで。本校舎の全てが停電してから間もなく、飛鳥は親戚の左手とカッターナイフを何者かに取り上げられた。男の呻き声が少し離れた床から聞こえてきたかと思えば、暗がりに浮かび上がった乱入者のシルエットは、意識せずとも見慣れた彼のものだった。
「あすちゃん」
床へ粗雑に放られたのは、従兄と飛鳥の手から奪われたばかりの、真新しい銀色の文房具。細身の詰襟と、毛先が肩につかない長さの髪型から導き出される輪郭の答えは、音と同時に正門付近へ駆け下りた眩い光で明かされた。
「それだけは見たくないって、ぼく、言ったよね」
「桜、兎……?」
常の甘さが削げ落とされた幼馴染の声に、飛鳥はソファの上で後ずさる。呼ばれた自身の名前に返事をしない男子生徒は、戸惑いと安堵がないまぜになった少女の首に、清潔なハンカチを押し当てた。浅い傷口を圧迫する彼の掌へ、今度は柔らかく手を添わせた飛鳥は、闇に不慣れな視界で目を細めた。やはり判然としない桜兎の表情には、およそ感情と呼べるものが窺えるような熱がなく、伏せられた青い瞳と見合うことができない。
「桜兎。もしかして、怒ってるの」
「……本当に、きみは言う事をきいてくれないから」
ハンカチを明け渡した彼は、ついていた片膝をソファから離し、向かい側で腰を抜かしている伯父夫婦へと向き直る。ローテーブルを足蹴にした最短距離で到着した、眼前の彼らにしか聞こえない距離で発された桜兎の言葉は、飛鳥の耳に届くことはなかった。
ちかちかと点滅してから復旧した人工灯は、尻もちをついたような体勢で床に転がった従兄と、落ち着きのない視線を左右に振る大人たち、そして、困ったように微笑む桜兎を照らし出した。今度は家具を迂回して飛鳥の元へと戻った幼馴染は、光に目を白黒させる飛鳥の代わりに、血小板が固まりつつある傷口から布を剥がす。少年の左胸のポケットから取り出されたのは大型の絆創膏で、ガーゼ部分には消毒液が浸されている。紙箱の中で小分けされていたうちの一つ、薄紙で密閉されたパッケージを剥がされた剥き身のガーゼを、彼はそっと彼女の首筋にあてがった。一体いつから持ち歩いていたのか、と問おうにも、先までの凶行に多少なりとも後ろめたさが残る現在の飛鳥にとっては、自分から話題を提示することは至極ハードルが高い行為だった。黙々と応急処置を進めた桜兎は、貼り終わった絆創膏を隠すように少女の白シャツと詰襟を整え、最端のホックを留めた。
「でも、ちょうどいいのか」
独り言のように落とされた桜兎の一言を拾い損ねた飛鳥は、訊ね返すために視線を上げた先にあった彼の微笑みが、薄闇の中でまみえた無表情と重なって見えた。
五人もの人間を内包した部屋に満ちる静寂を不意に破ったのは、東の方角から慌ただしく近寄ってくるゴム製の足音だった。駆けてきた勢いのまま力強く扉を開け放った騒音の源は、停電で混乱する生徒たちを掻き分け、全力で走ってきたがために髪を乱した夜猫である。
「飛鳥チャン、本当ごめん! 簡単によその事情に顔突っ込んじゃダメだよなとか、ヨネの常識を振りかざすのは良くないとか、一応色々考えたんスけど……やっぱり、やっぱりさあ! 大事な友達が、これから先ずっと辛い思いをするような家に行っちゃいそうなのに、それを黙って見てる意気地なしになんかなりたくない! いざとなったらいくらでも証拠探させるし、絶対に飛鳥チャンの名前も出させないから、そんな奴らのところに行かないで――って、あれ?」
開口一番の謝罪から頭を下げていた少女が見据えた応接室は、彼女の想像とは大きく異なる様相を呈していた。何度も瞬きを繰り返す夜猫の横をすり抜けるように小走りで逃げ帰っていった三人を、夜猫は口を開けたまま眺めていた。
「……えーっと。桜兎クンは、お腹痛いの治まったんスか?」
――――――
次の休日、特待生の権利として隔月で授与される奨学金を確認するべく、最寄りのATMへ通帳を飲み込ませた飛鳥は、先週から残高がゼロとなっていた自身の口座に、学校からの奨学金とは別枠で、元々銀行へ預けていた金額以上の入金がなされていることに目を疑った。更新された日時は、関東全域が午後から雷に見舞われた、忌まわしいあの日の夜だ。増えた金額を確かめてみると、四年前に伯父夫婦に奪われた遺産の分も含めて、飛鳥の預金がそっくりそのまま戻されている。謀を疑って電話をかけてみても、態度だけはいつも落ち着いていたはずの伯父ですら、しどろもどろで話にならない。二度と関わらないことの言質だけを得た飛鳥は、録音した通話記録をクラウドとスマートフォンの両方に保存して、駅ビル内の一等地に軒先を構える、人気の洋菓子店へ足を踏み入れた。
「大変お待たせいたしました! ご注文、お伺いいたします」
「苺のショートケーキと、クラウンメロンのタルト。それから、ナッツのフールセックを一つずつお願いします。持ち帰りで」
保冷剤を入れたケーキの箱を提げ、立川駅から烏寮へ帰り着いた少女を出迎えたのは、満面の笑みを浮かべた夜猫だ。家の騒動が落ち着いたことを飛鳥からのチャットで先に知らされていた彼女は、地面と水平に保たれた白い箱の存在に気付き、すんでのところでルームメイトへ飛びつくのを中断した。
飛鳥がタルトを、夜猫がショートケーキを頬張る間、二人のスマートフォンはそれぞれの皿の横に裏返しで置かれている。話す口実と詫びの印として購入したフールセックを桜兎へ渡すために彼の都合を尋ねた、幼馴染たちの一対一のチャットルームには、ついぞ既読が付くことはなかった。
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