第5話 - 遅咲きの胸花
目にも鼻にも甘い香りが漂う街中で、東日本旅客鉄道——通称、JR東日本が運行する電車の三両目に足を踏み入れた飛鳥と戌月が抱える袋へ詰め込まれた品々は、カカオが主成分として練り込まれた菓子でもなければ、食べ物ですらない。学校行事の受付が生涯唯一の出番となる使い捨てのボールペンや、ドット模様が続くテープ式の接着剤といったありふれた安価な事務用品たちが、ポリエステルで作られた狭い空間の中を、車両の振動に合わせて泳いでいた。
――――――
「だからさ。後半組は特に、玄関の所でもたつくんじゃないかなって」
「靴箱で絶対ごちゃつくっスよねー。いっそ持たせて上がらせる?」
「ビニール袋のスタンドをいくつか設置して、教室まで連れて行ってもらおうか。あすちゃん、このルートはどうかな」
「……あ、ごめんなさい。もう一回いいかしら」
「卒業生が大講堂から出た後、教室までの流れをどうしようかって話っス。御涙頂戴した直後にもたつくのは締まらないんで、いっそ今年からやり方を変えてみましょうよーってのを、二年のメンツに提案しようかと」
「そうね……うん、いいと思う。正面玄関前は大講堂に入りきらなかったマスコミが構えているはずだから、留まらないようにできれば最良ね」
「……随分、疲れが溜まっているように見えるけど」
「まさか! そんなことないわ。平気よ」
「でも、なんかさぁ」
電車に乗り込む三日前、ぼんやりと遠くを見つめるようになった少女は、親しい間柄にある上級生の命によって、炎天下でも筆跡が消えない一本の油性ボールペンを握ることとなった。彼に言われるがまま筆を動かし、五分もせずに欄の全てが埋まった紙片の正体は、週末の日付が指定された、二枚の外出届だ。
「都心まで遠出をしなくても、学校近辺で揃いそうな物ばかりでしたが」
「はは、バレたか。勉強は嫌いじゃないが、俺にだって
吊り革に右手をかける
そして、
「少し目立つな。着替えてくればよかったか」
「私服をあまり持っていないので、もし制服以外を指定されていたら、きっと困っていたと思います」
「そうなのか? 今日はいつもと違う髪型だから、何か合わせたい服でもあったのかと」
「これは……
いつも通りのポニーテールを作ろうとしていた
「やっぱり、変ですよね」
視線を落とし、胸元に垂らされた髪のひと房を指で扱く少女の上へ、にわかに淡い影がかかった。
「可愛いよ」
手を差し込むための空洞をもつ三角形のプラスチックは、銀色のパイプとの接合部を
「中学までのヨネは、髪を切ったり伸ばしたり、忙しなかったからな。手先は器用なはずだ」
滑らかに停車した電車は、進行方向の左側に位置する扉を一斉に開く。出口近くで足踏みをしていた客が吐き出されるのを待ってから、入れ替わって我先にと乗車する人々の様子は、白泡が立つ波にも似ている。
「あの! よければ、座ってください」
マタニティマークを提げた二十代後半と思しき女性は、肩を一度跳ねさせてから、左右をきょろきょろと見渡している。その一方で、少年少女の席に近い場所でイヤホンから音漏れさせている青年が、
「ごめんなさいね、ありがとう。荷物も沢山あるみたいなのに」
「平気です。次で降りるので」
「学生さんに席を譲ってもらえるなんて、久しぶりだわ」
緩やかに発車した鉄の箱は、動き出してから七分後に、定刻通りの一時停止を迎える。膨らんだ腹部へ手をあてる女性と互いに会釈をした
「……すみません、見栄を張りました」
「はは、気持ちは分かる。伊東屋でも覗きに行こう」
JR中央線中央特快、東京駅から立川駅まで乗り換えなしの高尾行きで予定外の途中下車と相成った二人は、買い込んだ荷物をコインロッカーへ詰め込んでから、新宿駅の安田口へと足を向けた。
――――――
赤いゼムクリップが添えられた看板が目印となる、全国各地に支店をもつ文房具店の本拠地を一通り冷やかした二人は、昭和の風情が色濃く残る喫茶店で食事を済ませてから帰路に
自習室として開放されている東棟とは対照的に、
「机、殺風景になりましたね。言ってくれれば、皆も手伝ったのに」
「引継ぎも終わったんだ。後輩たちの邪魔はできないさ」
他の会員とは切り離された会長用の特別席は、数ヶ月前とは見違えるほどに物が減った。山積していた書類はもちろんのこと、業務に関する覚書が蓄積されていた手帳やペンケース、装飾がほとんどない月曜始まりの置き型カレンダーといった
会長が管理を行うよう定められている鍵によって開錠された、南側の戸棚へ新しいファイルの収納を終えた
『平成二十七年度二月、寮鳥会室で兎未と』
一着の上着を通して少女の瞼に映るのは、屈託のない笑みでファインダーを覗く、若かりし頃の母の姿だった。
――ちょっと、漢字が違っただけ。それだけなのに、どうしてこんなに寂しくて、胸騒ぎがするの。
一期生の卒業式から今日まで受け継がれてきた
「そういえば。今年の卒業式では、俺が着ることになったぞ」
「……先輩を差し置く不届き者がいたら、女子たちが黙っていませんよ」
顔を互いに前へ向けたまま、ガラスに反射する半透明以下の像で視線を交わす二人の輪郭を、雲一つない夕暮れが照らしている。
「君も、その抗議に加わってくれるのか?」
からかっているのか、と返そうとした
「あなたが相応しいとは、思ってます」
後ろで組まれた少女の細い指が、返事に合わせて折りたたまれる。人知れず力がこめられた左右の手は、透明な板にも映らないまま、小さな一つの塊になっていた。
「おいで、
開け放たれたワードローブからトンビコートを取り出した
そして、
「い、
突然に捕らえられた驚きで身じろいだものの、彼女の背と後頭部に回された
「……もっと早くに、こうしておけば良かった」
隙間なく沿わされた戌月の身体で脈打つ心臓が、自分と同じか、あるいはそれ以上の早鐘を打っていることに気付いた少女は、苦しいまでの胸の痛みで吐息が震えた。甘やかな拘束によって逃げ場を絶たれた
――乱されたくなんて、なかったのに。
ゆっくりと瞼を閉じた
「……顔。赤いですね」
「そっちこそ、人のことは言えないだろう」
「ふふ。だって、珍しいから」
息がかかるほどの近くで囁き合っていた
「隠し部屋の扉も、その鍵で開けられるんですか」
かねてより考えていた仮説ではあったものの、このタイミングではあまりにも甘さの足りない疑問が口をついたことに自らも驚いた表情を見せる
「悪い、悪い。いやな、『今それを聞くのか』と」
「……すみませんね、空気が読めなくて」
笑いを堪えながら謝罪する彼からわざとらしく顔を背けた少女は、可笑しさが落ち着いたらしい
「鍵のことは、
「言いましたね。私、絶対に自力で上り詰めますから」
挑戦的な眼差しで彼を見上げる少女の表情は、さっぱりとして明るい。物憂い陰が取り払われた
「よし、元気になったな。他の二人も、かなり心配していたぞ」
「ちょっと、色々あって……余裕がなかったんです。
「彼のことは、あまり信用しない方がいい」
窓枠に後ろ手を付き、天然の色が混ざりゆく様子を横目で眺める
「して欲しくない、ではないんですね」
「どうだろうな」
バラ売りの文房具を包んでいた紙袋を折り畳む
「夕食は、ヨネたちと約束をしているんだったな。後はやっておくから、もう上がっていいぞ」
「なら、お言葉に甘えて」
商品の抜け殻が未だ細々と残る長机から離れた
「
「……卒業式で、また」
「ああ。また」
――――――
抜けるような快晴が祝福する三月。遠目に見付けた少女へ振った
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