第4話 - 爪先にスポットライトを

 絶え間なくシャッター音が木霊こだまし、思い思いの装いを選んだ被写体たちが一分単位のスケジュールで入れ替わっては、レンズ越しのカメラマンへと勝負を挑む。色とりどりの口紅を唇に飾った彼らは、男性も女性も、その他の性も関係なしに、最も自分の魅力を引き出せると信じた表情を、熱っぽい照明の下で咲き誇らせている。


 モデルが薄着であっても鳥肌が立たないように、という配慮から暖房が点けられた一室は、制服を冬服に衣替えしてからひと月以上が経過した飛鳥あすか夜猫よねこ桜兎おとたちの上半身から、防寒性の高いウールの詰襟つめえりを剥いでいた。


「一回休憩入りまーす。あ、タオルも下さーい」

「水! 頂戴! 干からびちゃうわよ、もう」

「ねえアナタ。あっちに置いといた花束知らない? これくらいのヤツで、小道具の生花なんだけど」

「あちゃー、予定より押しちゃってるわ。誰かマネさん呼んできてぇ」

「は、はい! ただいま!」


 少年少女が運んでいる荷物の一つ、ペットボトルの飲み口へ取り付けられているストロー付きのキャップには、パリのランウェイを毎年のように歩くトップモデルの名もあれば、新進気鋭のアイドル、お茶の間を沸かせて長いベテラン俳優といった、モデルとは別のくくりに生業なりわいを規定した芸能人のものもある。少しでもよそ見をしようものなら、床に張り巡らされた機材のコードに躓いてしまうほどに撮影へ特化した東京のとあるスタジオにて、一年生の三人組は本日限りのインターンに従事していた。


狐塚こづかサンのいじわる! ちょっとは休憩くれてもいいじゃないっスかぁ!」


 振り仰いで泣き言を叫んだ夜猫よねこは、自身が運搬していた撮影道具のシーツをしっかと踏みつけて、間もなく盛大に転ぶことになるのだった。


――――――


 荒事を隠し通した学園祭から、はや二ヶ月。寮鳥会りょうちょうかい室、と明記されたプレートが扉の上方へと固定されている西棟の三階では、何かにつけては寄り集まる癖がついた一年生たちが長机を囲い、窓際にある一人用の会長席には、当代の所有者である戌月いづきが腰を下ろしている。師走しわすに入った気温は一桁続きで、道着の上に面と小手以外の防具を付けたままグラウンドを周回する剣道部員は、懸命に声を張ることで沁み入る寒さを誤魔化していた。雪が降ったばかりの寒空を走り込む彼らが目標とするのは、高校生剣士にとって最大の晴れ舞台である、夏のインターハイ決勝戦だ。寮鳥会りょうちょうかいと並行して剣道部にも所属し、三年連続で八月の優勝をさらいきったことで全国へ名をとどろかせた戌月いづきはといえば、隅々まで暖気が行き届いた室内で、有終の美の先に用意された余韻を存分に享受している。


 若葉マーク付きの雛鳥は、オープンキャンパスで来校者へ配布する予定の、学校史と校内図をまとめたリーフレットを巻三つ折りにする機械と化していた。彼らに単純作業を任せた二年生たちは、当日に校内を歩きながら行う説明の事前練習をするべく、一時間ほど前に寮鳥会りょうちょうかい室を出て行ってから音沙汰おとさたがない。黙々と作業を進めていた三人は、紙の終わりが近付く頃合いを見計らった会長からの声かけに顔を上げ、首からの悲鳴に身体を一瞬だけ硬直させた。任務に対する飽きが限界に達していた夜猫よねこだけは、兄が次の言葉を紡ぐ前からすっくと立ち上がり、勢いよく会長席の机へと飛びついている。苦笑する戌月いづきに手招きされた残り二名は、少し遅れて同級生の横へと肩を並べた。窓辺でもある集合場所は、四人掛けのソファの付近よりも、ほんの僅かに肌寒い。


「来月の講演だが、OBとの調整を君たちに任せようと思っている」


 鸞翔らんしょう高校の卒業生には、各界の重鎮じゅうちんが星の数ほど存在する。名前の枕詞として「あの」が付くような元生徒を呼び寄せて、在学生との対話の機会を設けることは、この学校においてはさほど珍しくないことだった。学園祭の翌週に設定された講演の登壇者は、日本やドイツを含めた世界十五ヶ国が利用する、約四百キロの上空へ浮かんだ国際宇宙ステーションであるISSへ昨年末まで滞在した、JAXAの宇宙飛行士だった。その前は、テレビでもコメンテーターとして頻繁に目にする弁護士が。さらにもう一つ遡った回では、バレンタインシーズン以外でも新作が即完売するチョコレート専門店のバティシエと、在学中にローザンヌ国際バレエコンクールでスカラシップ賞――入賞者には、世界トップクラスのバレエ・スクールへ一年間無償で留学する権利に加え、その間の生活援助金として、二万スイスフランが与えられる――を獲得した経歴をもつバレエダンサーとの夫婦が、二人揃って招かれている。業種を限定しない特別講演は大講堂で執り行われ、リタイアしていった生徒の数だけ増える空席には、一般客が座ることも許されている。オープンキャンパスと同じ月に開催するよう仕組まれた日取りは、受験間際の注目を利用して、国立の名を冠するに相応しい実績を外部へアピールする狙いもあった。


「いいんですか? そんな大役、一年生だけに任せて」

「もうすぐ二年になるだろう。俺もしばらく顔を出せなくなるし、頃合いかと思ってな」


 高校三年生の冬、第一志望の大学受験を目と鼻の先に控えているのは、寮鳥会りょうちょうかいのメンバーも例外ではない。組織における三年生の任期は一年間と定められているものの、十月に行われる学園祭以降の参加は、個々人の判断に委ねられているのが実情だ。十二月まで後輩の面倒を見る、戌月いづきのような三年生は稀有な例である。


「在籍時は会長を務めていた人だから、向こうも勝手は分かっているはずだ。三人の仕事は、今週末の事前打ち合わせと、当日の司会進行役だな」


 戌月いづきから手渡された資料の一枚目、左上に素っ気なく貼られた写真を確認した飛鳥あすかは、流し読みするつもりでいたその一枚を、思いがけなく凝視した。


――この人。平成二十七年度の、首席卒業生だわ。


 虹彩が小さいために三白眼さんぱくがんとなっている紫目は、殊に希少な瞳の色として有名だ。つまりは、一度目にすれば他人と間違えられようもない強固な特徴であり、飛鳥あすかが自室の本棚に隠している歴代の首席卒業生のアルバムにも、同じ眼球の持ち主が映っていたのだった。


――母さんの、同級生。


 鸞翔らんしょう高校へ通っていたことすら危ぶみ始めた実の母「うみ」の声を忘れ始めた自身の記憶を夜毎に責める、赤いリボンを髪へ飾った少女は、突然に垂らされた蜘蛛の糸へ釘付けになる。左右の耳垂に黒子があり、トンビコートを着て寮鳥会りょうちょうかい室の窓辺に佇んでいた写真の少女は母なのか、卒業アルバムに載っていないのはどうしてか。


 本当に、母は、ここに存在していたのか。


 寮鳥会りょうちょうかい室に接している隠し部屋は、いつの間にか取り付けられていた錠で閉鎖され、許可なく忍び込むことが不可能になっていた。飛鳥あすかは鍵の主に心当たりがないではなかったが、当人に「隠し部屋を開けてほしい」とでも言った日には、何度もあの部屋へ侵入していたことを自白せざるを得なくなる。その場合、学校が隠している秘密の片鱗を身勝手に探った生徒へどのような処分が下されるのかなど、考えるまでもない。


 深く昏い方へと沈んでいくばかりの飛鳥あすかの思考を引き上げたのは、彼女が握りしめる講演の資料を覗き込んだ、夜猫よねこの歓声だった。


「うわ、うわうわ! えっ、狐塚こづかサマじゃん! トップスターが講演とか、最前列争奪戦まったなしっスよ!」


 黄色を越えて蛍光色にでもなりそうな声を上げた夜猫よねこは、飛鳥あすかの手から紙束を奪い、男性の情報が羅列された紙面へ釘付けになっている。焦点が迷子になった飛鳥あすかはといえば、書類を掴んでいた手の形のまま、目を丸くする他なかった。


夜猫よねこさん、ちょっと落ち着いて……あすちゃん? 大丈夫?」

「だ、大丈夫よ。少しびっくりしただけ」


 他の一年生たちの反応が薄いことに気付くやいなや、人気バーチャルアイドルとしての顔をもつ少女は、爛々らんらんとした眼差しを二人へ向けた。スイッチの入った夜猫よねこに対して飛鳥あすか桜兎おとが身構える傍ら、妹の反応は予想の範疇だった戌月いづきは、自販機で購入してあったブラックコーヒーを飲みながら、窓の外の景色を眺めている。


「急に取ったのはゴメン! でも、本当に世界単位で引っ張りだこのお人なんス! 歌手に俳優に司会にモデル、なんでもござれなマルチタレントなのは大前提として、芸能事務所の社長としての腕も頭一つ飛びぬけてる大天才! 事務所の設立記念日に毎年やる、所属タレント大放出なライブのチケットは十数秒で即完売。狐塚こづかサマがブームを生み出すのはいつものことだし、十四歳でアイドルとしてのデビューと同時に開設されたファンクラブも、その日のうちに会員が十万人突破したんスよね」


 夜猫よねこが生徒手帳から取り出した一枚の黒いカードは、金のエンボス加工で七桁の数字が記載された、狐塚こづかの公式ファンクラブの会員証だった。


「学生証と一緒に保管しているのね」

「うん! 界隈の身分証明書っスよん」

「広告がラッピングされたトラックにかざしてる人は、ぼくも渋谷の交差点で見たことあるな。どこかのブラックカードかと思って、何してるんだろうなと」

「アドトラックはイベント近くにしかやらないプチお祭りだから、スゲーその子の気持ち分かるっス。黒と金が大人っぽくて、何合わせてもシックに映えるし」


 どんどんと喋りが早くなっていくにも関わらず、一度も噛まない活舌に感心すら見せる周囲の様子にはお構いなしの少女は、万感の思いを籠めた一拍の溜めの後、噛みしめるようにしながら、締めの言葉を絞り出した。


「芸能界のレジェンド、生けるエポックメーカー……! ここ数年は海外での活動が主なのに、学校行事が初参戦の国内リアイベになるなんて、ラッキーどころの騒ぎじゃない!」

「ん、ヨネは二回目だろう」


 身振り手振りを加えながら大騒ぎしていた様子から一転、きょとんとした目付きで兄を見つめる夜猫よねこは、口端をきゅっと持ち上げたまま、小首を傾げた体勢で固まってしまった。メインスピーカーを引き継いだ戌月いづきは、机上に置いていた自身のスマートフォンを引き寄せて、指紋による生体認証で画面ロックを解除する。


「五歳の時の七五三。覚えてないか? 自分で選んだドレスを着たくせに、誰も手がつけられないくらい大泣きするヨネをあやしたのは、狐塚こづかさんだぞ」


 一年生たちの眼前に差し出された端末の液晶画面には、フリルたっぷりの水色のドレスに身を包んだ幼い夜猫よねこと、少女を片腕で抱える八重歯が特徴的な男性とが、一枚の画像の中に収められていた。写真館の真っ白な背景に映える未就学児の頬は不機嫌そうに膨らみ、たっぷり泣いたのであろう目元もうっすら赤い。五歳の右手でカットシャツの襟首を掴まれている彼は、子どもの生態を面白がっているのか、少女のそれとは対照的に、満面の笑みを浮かべている。年の頃こそ違えども、講演の事前資料へ添付された宣材写真と、幼子とのツーショットを撮られた彼が同一人物であることは、誰の目から見ても明らかだった。


「えー、っと……そんなにすごい芸能人と、警視総監がいらっしゃる堅めな戌月いづきさんのお宅が、どうして家族ぐるみのお付き合いを?」


 フリーズした夜猫よねこ、もとい熱烈なファンを桜兎おとが見かねて、間を持たせるための質問を戌月いづきへ投げかける。暫しの逡巡しゅんじゅんを挟み、他言無用な、と前置きした会長の声は、先程よりも密やかな響きをもって、続く回答へ一年生たちの耳を傾けさせた。


「彼は、日本の全極道を統率する一家の頭領が、どこかから養子にとった人間だ。本人は構成員ではないが、俺の家系には警察の幹部が多い都合上、その手の組織とは切っても切れない縁がある。父と狐塚こづかさんは、ふるい友人なんだとさ」


 妻との晩酌を楽しむ父親から友人との交流模様を聞かされ、二年前の帰国に合わせて開催された講演の調整役を任命された戌月いづきも、七五三の写真を撮った日付から、約十年越しの再会を果たしている。


「競合他社も、下手に妨害できない訳だ。この事務所を潰したかったら、ヒットチャートとか、タレントの育成とか、正攻法で喧嘩を売るしかない」

「でも、実力勝負でも通用しすぎるくらい、彼には華と商才があったのね」

粗相そそうをしたら、狐塚こづかサマの手で東京湾に沈められちゃうかも……贅沢っスね……」

「知識がかたよりすぎてるし、なんで『それもいいかも』って顔してるのさ」


 放心状態から帰ってきた夜猫よねこは、うっとりと目を閉じ、左右の指を組んだ手の甲を左頬にあてがっている。飛鳥あすかは、出会ったその日の夜に寮鳥会りょうちょうかい室へと侵入し、トンビコートを眺めた時の夜猫よねこの表情を思い出した。


――物語が詰まっているものが好きっていうの、人間にも当てはまるのね。


 先日、飛鳥あすかが隠し部屋から持ち帰った首席卒業生の記念写真が集められている四六判のアルバムを、友人たちはまだ見せられていない。過去の卒業生に関する膨大な量の資料がある上で、特別な一冊が別途編纂へんさんされたトンビコートの着用者には、それに値するだけの意味があるのではないかと、飛鳥あすかは疑っていた。しかし、「国立鸞翔らんしょう高等学校の校舎のどこかには、第二次世界大戦から隠され続けている秘密がある」という噂の証拠として有力なエニグマとの繋がりが分からない以上、共犯者にも迂闊うかつに伝えることが憚られたまま、今日を迎えている。


――この人なら、何か、知っているかもしれない。


 事前資料のテンプレートへ嵌め込まれた、バイオレットの瞳を細める狐塚こづかの涼やかな笑みは、飛鳥あすかの目には謎めいたものとして映っていた。


「私たち、本当に大丈夫かしら」


 学園が抱える秘密のこと、エニグマのこと――そして、母のこと。写真が消えてしまった無名の少女の行き先をも訊けたとして、裏社会にも通じる相手がどう出るかは、飛鳥あすかの想像が及ぶところではなかった。


――――――


「お、随分早ェじゃねえの。おチビちゃんたち、今日はよろしくなァ」


 銀座のビルを一本丸ごと買い上げた経営者から指定された集合場所は、事務所に併設されたカフェのテーブル席だった。入館証を首から提げた一年生たちが周囲を窺っても、どこもかしこも、液晶や印刷物越しに見覚えのある顔しか見当たらない。関係者のみが利用できるタレントたちの憩いの場所では、BGM代わりのステレオラジオが客同士の会話を過不足なくジャミングしている。三十分前に席へ着いた飛鳥あすか夜猫よねこ桜兎おとの三人は、ブラックコーヒー、レモネード、テータリックをそれぞれホットで注文し、厨房のカップウォーマーであらかじめ温められていた白い器で、冷えきった掌の暖を取っていた。


 定刻の十分前、手袋と靴は素材を革、色を黒で統一し、衣服には無彩色のタートルネックにテーパードパンツを合わせた狐塚が、三人の待つテーブル席へと到着した。耳朶みみたぶには、リング状のシンプルな金のピアスが貫通しており、彩度が低い服装に硬質なアクセントを与えている。羽織っていたチェスターコートを秘書に預けた彼は、男女で二体一に分れていた桜兎おとの隣へと腰を下ろして、店員へ「いつもの」を言付けた。上着を受け取った側仕えは、入り口付近のクロークへ防寒具を収納した後、厨房近くのカウンター席で、しばしの休息を甘受している。


「今回の講演で司会進行役を務める、寮鳥会一年の飛鳥あすかです。不手際もあるかと思いますが、当日までどうぞよろしくお願いします」

「同じく、桜兎おとです」

「よ、夜猫よねこっス……!」

「アスカに、オトな。ご覧の通り、あんま真面目な社長様って訳でもねェから、肩の力抜いてくれや」


 約一名の動きがぎこちない挨拶を交わしていると、金の縁取りが目を引く黒い有田焼の湯呑が、おもむろに狐塚こづかのもとへと運ばれてきた。注がれている液体は色の濃い緑茶で、半透明の湯気が立ち上っては消えていく。子どもたちの飲み物がほとんど空同然であることに気付いた彼は、最初の品と同じものを三人に持ってくるよう、背を向けようとしていたウェイターに注文した。


「ヨネは久しぶりだなァ! 綺麗になっちまってまあ。変な虫が寄りゃしないか、イヅキも心配してるだろ」

「えっ! いや、そんな……狐塚こづかサマに褒められるほどじゃ……えと、えへへ……」

「砕けていいっつったろう。様付けなんかしなくていいぜ」


 珍しく歯切れの悪い夜猫よねこは、頬や耳だけではなく、首の後ろまでもが赤く染まっている。憧れの人を前にして、明らかに挙動不審となった友人へ助け舟を出すため、飛鳥あすかは二人の会話の間に割り込んだ。


「彼女、あなたのファンなんです。小さな頃に会っていたことを戌月いづき先輩から聞かされて、しばらく驚きで固まっていたくらいには」

「ほう、そいつァ光栄。今度は忘れられねェよう、精々気張らせてもらうとすっか」

「お待たせいたしました。コーヒー、レモネード、テータリックです」

「ありがとさん」


 空いたカップと交換で机に置かれたホットドリンクたちは、一杯目とは違うデザインの器に注がれていた。塗装された色は同じだが、飲み口が狭くなった卵型のシルエットに、陶器の厚みもやや増している。話し込む際に熱が逃げにくいよう計算された、造形美と心遣いの融合だった。


――あまり、危険な人には見えないけど。


 カウンター近くの柱に掲げられた時計を飛鳥あすかが盗み見ると、長さの異なる二本の針は、ちょうど打ち合わせの開始予定時刻を指している。それに合わせて桜兎おとが配り始めた資料には、講演当日のタイムスケジュールや、過去の開催分のうち動画形式でのアーカイブが残っている内容の一覧、さらには生々しい依頼料の詳細など、一般の生徒には見せられようもない目録が次々に並んでいる。先に本題を済ませ、時間に余裕を作った後であれば個人的な質問をしても双方に文句はなかろうと内心で結論付けた特待生は、あらかじめメモを書き込んである自分の資料に目を落とす。背筋を伸ばし、赤いリボンの端を揺らした少女は、「学外秘」の太文字が赤で印刷された書類の表紙を手早く捲り、要項をすらすらと読み上げ始めた。


――――――


 鸞翔らんしょう高校のOBでもあり、卒業後の特別講演に招かれた経験も豊富な狐塚こづかとの打ち合わせは、一年生たちが想定していた以上にスムーズに進んだ。制限時間まで三十分以上を残して終了した会議の後、狐塚こづかは後輩たちとの交流に興じるべく、彼らの担任にまつわる昔話や、運が良ければ食堂で特別なメニューを出してもらえる合言葉など、先達ならではの小さな悪知恵を在校生に仕込んでいた。緊張がほぐれた夜猫よねこは、タブレットへ打ち込み終わった議事録を早々に鞄へ仕舞い、温くなったレモネードを飲みながら、自然と緩む口元を誤魔化している。十一時を過ぎた店内は、撮影の合間に軽食をとりにきた芸能人らによって、ざわめきが増していく一方だ。


「そういや、オトは兎だろう? 一年で寮鳥会りょうちょうかい入りたァ、卒業まで安泰ってワケだ」

「あはは……脱兎とかけたんですね。このまま、平和でいられたらいいんですけど」


 朗らかな声色で会話する男性陣と、狐塚の一挙一動を観察できてご満悦な夜猫よねこをよそに、飛鳥あすかは一人、清潔な天板へ肘をついた右手のうち、中指の背を唇へあてがいながら、必死に思考を回転させていた。


――どうやって切り出そう。人も増えてきちゃったし……。


 飛鳥あすかが隠し部屋に関することで桜兎おと夜猫よねこに共有している事項は、「エニグマらしきものを見付けた」という一点だけだ。狐塚を含む、過去の首席卒業生がずらりと並ぶアルバムや、左右の耳垂じすいにピアスのような黒子ほくろがある女生徒の写真については、まだ二人にも打ち明けられていない。


「お話し中に申し訳ございません。社長、急ぎお耳に入れたいことが」

「ん、どうしたァ」


 カウンター席でカフェオレとサンドイッチを堪能していた狐塚こづかの秘書が、逡巡しゅんじゅんする飛鳥あすかの思考を知ってか知らずか、鸞翔らんしょう高校の関係者で固められたテーブルの脇へと、小走りでやってきた。彼が座っていた座席の食器は簡単に整えられており、ハンガーとするべく折り曲げられた左腕には、手入れが行き届いた狐塚こづかのチェスターコートがかけられている。


「正午からの幹部会ですが、副社長が前倒しで始めたいとのことです。今朝方にオファーがあった局からの案件について、少々、懸念けねん事項があるらしく」

「あー……アレなあ」


 背もたれに体重をかけ、目を閉じて天井を仰いだ狐塚こづかは、三秒間を思考の整理に費やした。脳内で組み立てられていた一日分の業務の比重を計測し、予定を繰り上げた場合、および繰り上げなかった場合のメリットとデメリットをそれぞれ試算する。これは、一日の始まりに側近から伝えられたスケジュールが全て頭に入っているからこそ可能となる、若きアイドルが業界最高峰の芸能プロダクションの代表取締役社長まで上り詰めるために必要とされた、最低限の芸当の一つだった。


「おチビちゃんたち。今日の予定はもう済んだ、ってことで大丈夫か? ちと急ぎの用事ができちまった」

「はい、ぼくらの方は問題ありません。追加でお聞きしたいことが出てきた場合は、メールで確認させて欲しいのですが……」

「悪ィな。なるべく翌日までには打ち返すようにすっから、それで頼むわ」


 返答しながらも既に腰を上げている狐塚こづかは、三枚の伝票をまとめて摘み、自らのクレジットカードと共に部下へと明け渡した。勝手知ったる青年は、自分の軽食代も含めて上司のポケットマネーで会計を済ませてから、会議で必要となる資料を取りに、ビルの最上階にある社長室へと向かった。


「あすちゃん、ぼくらも出よう。あまり長居しても良くないよ」

「……ええ、そうよね」


 話している間にも、カフェの軒先に置かれた簡素な空枠の名簿には、席の順番待ちを表す手書きの履歴が増えていく。署名の用途で書き込まれた名だたるタレントのサイン群はファンにとっては垂涎すいぜんものだが、あまり長く並ばせてしまっては、彼らの予定にも差し障りが出る。そうなった場合、滞る原因を作っている客には自然と注目が集まり、秘密の相談どころではなくなってしまう。居候先の「家」を安寧の地とは呼べず、出先で勉強することも多々あった飛鳥あすかは、その可能性を痛いほどの実感を伴って理解していた。


狐塚こづかさん、外まではご一緒させてください」

「ゆっくりしてきゃいいのに。おれは構わんけどよォ」

「残っていたら、寛いでいる皆さんにアポなしの取材を始めそうな子がいますので」

「え、それってヨネのこと?」

「他に誰がいるんだろうね」


 指摘されてもなお周囲への目移りが止められない夜猫よねこは、ついに桜兎おとに背中を押される形で外へと押し出される。四人用のテーブル席が空いた分、ほどなくして店内に案内された一団は、毎週火曜日に放送されている刑事ドラマでお馴染みの主演メンバーだった。


「本日は貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございました。当日もよろしくお願いします」

「そりゃこちらこそ。準備も大変だろうが、適度に息抜きしておけな」

狐塚こづかサマ……いや、狐塚こづかサンに応援されちゃったら、疲れなんてブッ飛んじゃうっスけどね」

「可愛いこと言ってくれるねェ、この子猫ちゃんはよ」


 夜猫よねこの頭を雑に撫でる狐塚こづかの表情には、青いドレスの幼子を抱えていた十年前の七五三の写真が鮮明に思い出されるほど、屈託なく明るい笑みが浮かんでいる。気前の良さと愛嬌を兼ね備えた彼の言動は、寮鳥会りょうちょうかいのトップとして君臨する者が備えるべき資質として、飛鳥あすかも十分に頷けるものだった。


「そうだ、アスカ」


 言葉では表さずに感銘を受けていた少女の名を呼んだ彼は、先日、戌月が寮鳥会りょうちょうかい室で一年生に向けてやったジェスチャーと同じように、己の近くへ寄ってみせるよう、手首から先の左手で促している。頭を撫でられたことで落ち着き始めていた照れと好意がぶり返し、足元が危うくなった夜猫よねこを慌てて支える桜兎おとが心配な飛鳥あすかではあったが、変わらず手招きし続けている狐塚こづかに後押しされ、踵の高いローファーで一歩、二歩と続けて踏み出した。小集団を形成する四人の中では四番目にカフェを出たため、友人たちよりも僅かに開いていた飛鳥あすか狐塚こづかの距離がぐっと縮まり、身の丈が百八十センチメートルを優に越す彼との乖離かいりは、いくらかの高低差のみとなっている。


 少女を歩かせた彼は、上半身を屈め、飛鳥あすかの耳元へと顔を寄せる。思わずたじろいだ細い肩を片手で押さえた狐塚こづかは、慌ただしく介抱に追われる十代の両の鼓膜には届かない、密やかな声で少女へ短く囁いた。


「ご両親のことは、残念だったな」


 視線を強張らせる飛鳥あすかをよそに、姿勢を真っ直ぐに戻した狐塚こづかは、フィルター越しに別の物を見ているかのような眼差しで、柔らかに少女を見下ろしている。


「おまえさん、ウミによく似てるよ」


 少女の肩を押さえていた大きな掌を、もう一度だけ同じ場所へ置き直した彼は、軽やかに後方へのステップを踏むことで、二人の間に余白を取り戻した。


「じゃあな、おチビちゃんたち。また後日」


 に、と白い犬歯を見せてターンを決めた彼は、開けたロビーの中央に構えられた大階段へと革靴の先を向ける。ありがとうございました、と後方の桜兎おと夜猫よねこが男の背中に投げかける別れの挨拶を、言葉ではなく音としてしか聞きとれなかった飛鳥あすかは、心臓の急所を無遠慮に掻き回されたかのような心地のまま、本人にも説明できない衝動に駆られて、その場で大きく息を吸い込んだ。


「あの!」


 フロアの高い天井に吸い込まれた彼女の声は、賑やかだった周囲の会話を中断させると共に、立ち去ろうとしていた狐塚こづかの脚を引き留めることに成功した。靄がかって反響する自身の声と、刺さる視線を肌で感じながら、飛鳥あすかは震える手を握りしめ、睨み上げるような視線で続ける。


「まだ、聞きたいことが……とても、私的なことですが……もう少しだけ、お話はできませんか」


 言葉少なに、けれども必死に食い下がる少女の張り詰めた喉を聞き届けた狐塚こづかは、コートの裾を翻した。その動作は、コマ送りのスローモーションで再生した、録画の映像のように飛鳥あすかの目には映っていた。


「予定外の情報には、相応の対価ってのが必要だよなァ?」


――やっぱり、怖い人かもしれない。


 年若い好々爺然こうこうやぜんとしていた先の態度から一転。振り返った狐塚こづかの吊り上がる口元から覗く犬歯と、左右非対称に細められた紫の三白眼さんぱくがんが、飛鳥あすかの背筋に冷や汗を伝わせていた。


――――――


飛鳥あすかちゃんと夜猫よねこちゃんはそのまま、桜兎おとくんはもう五センチ上、この辺に視線お願いしまーっす!」


 長編ミステリー映画の真犯人もかくやという表情を見せつけた彼が提示した交換条件は、残りの半日の間、事務所の手伝いをすることだった。地下に撮影セットを作られた現場での弁当配りに始まり、某歌手のファンミーティングで頒布する小冊子へのカバー付け、そして来年の四月に発刊予定である所属タレントの写真集の撮影補助と、慌ただしく時間が過ぎていった末に、一年生の三人は、勝手知ったるメイク担当によりモデルたちの控室へと拉致された。化粧と同時進行で衣装を合わせてくるスタッフへ戸惑いながら質問をすると、鸞翔らんしょう高校から講演の打ち合わせにやってきた生徒のほとんどは、飛鳥あすかと同様に狐塚こづかへ講演とは関係のない質問をし、回答を得るために半日のインターンに身をやつすことが恒例なのだと教えられた。


「三人もっていうのは、ちょっとびっくりしちゃったけどね」

「そうねぇ。今までで一番多いんじゃないかしらぁ」


 二年前、戌月いづきも全く同じ流れを踏んだことを説明するために、語尾を間延びさせる癖をもつヘアセット担当が、部屋の本棚に差し込まれた写真集のうち一冊を抜き出し、後半のページを一年生たちから見えるように開く。するとそこには、名だたるタレントたちに交じり、アマチュア枠として着替えされられた現会長が、憂えるヘーゼルの瞳でファインダーを見つめている色姿が写し取られていたのだった。


「お兄ってば、超かっこいいじゃないスか! こんな面白いことが最後にあるなら、ヨネたちにも教えてくれれば良かったのにぃ」

「あくまでもイレギュラーだし、仕事に関係ない話だと思って言わなかったんじゃないかな……」


 それまでの疲れと愚痴はどこへやら、大きな瞳を輝かせる夜猫よねことは対照的に、やや疲れた声で大人しく布をあてられている桜兎おとは、赤のアイシャドウを目尻に塗られている飛鳥あすかを横目で見遣った。


「あすちゃんは、例の部屋について尋ねるつもり?」


 肩が触れ合うほどの近くに他人が行き交っているため、対象の明言を避けた桜兎おとからの質問の意図は、飛鳥あすかに正しく伝わった。窓から光が差し込まない、棚で密閉された隠し部屋には、世間一般がいうところの教育機関の範疇はんちゅうを明らかに逸脱いつだつした情報が山積している。部外者による二度の侵入を許した後は開かずの扉と化したことを踏まえても、単なる備品倉庫と片付けてしまうのは、いささか強引にして鈍感な仮説だった。


「相談もせずに巻き込んでしまって、本当にごめんなさい。……質問したいことは、桜兎おとの言った、あの部屋のことだけじゃないの。ただ、個人的に知りたいだけのことよ」


 メイク台の下、手元で弄っている赤いサテンのリボンは、ポニーテールと一緒に解かれた彼女の私物だ。


「二人にちゃんと説明できるほど、私の中でも整理ができていないけれど」


 どうしても、訊きたいの。


 きゅ、と噛みしめられた飛鳥の口元には、アイメイクと色味が統一された真っ赤なルージュが塗られている。後ろ髪にはコテがあてられ、緩く巻かれた長い黒髪が、ワイシャツ越しに肩甲骨をかすめている。三辺に丸い照明が点けられた鏡の中に映る少女は、たとえ二十歳を越えているとうそぶいたとしても、立派に通用することだろう。鏡越しに視線が交わった桜兎おとは、彼女の真っ直ぐな視線に絡めとられてしまう前に、瞳を伏せて呟いた。


「別に、責めているつもりはないけどさ」

「そうそう。いっつも飛鳥あすかチャンは頑張りすぎだし、今回みたいに巻き込んでくれる方が友達がいがあるっつーか、こっちも嬉しいんスよ」

「二人とも……」


 潤みそうになった少女の涙は、目のすぐ下に当てられた柔らかい三角形のパフで引っ込められた。化粧がやり直しにならなかった点には安堵しながらも、絶妙な間の悪さに、三人は苦笑いを浮かべている。わざと空気を無視した古株のメイクアップアーティストは、鏡の外側でこっそりと微笑んだ。


「いやぁ、青春ねぇ。そんな可愛い皆に、社長から伝言を預かってるのよぉ」


 飛鳥あすかの後ろ髪に施す最後の一巻きを完遂した美容師は、ヘアクリップと一緒に入れていたメモ用紙をエプロンから取り出し、三人に漏れなく伝わるよう、はっきりとした声量で万年筆の走り書きを音読した。


「撮影が終わったら、話がある人だけ社長室に来るように。ですってぇ」


 何かあったら迷わず警察を呼びなさいね、殴ったって構いやしないわ、などとアドバイスをするのは、コンクールでの受賞経歴を引っ提げ、当事務所との専属契約を済ませたスタイリストたちだ。彼女らの表情は和やかで、狐塚こづかがこれまでに培ってきた信用を、初対面の子どもたちにもありありと感じさせた。


「なら、行くのは飛鳥あすかチャンだけの方がいいっスよね」

「……いいの? 特に夜猫よねこは、あの人ともっと話したいんじゃ……」

「ヨネは、パパに言えば何とかなるもん。でも、飛鳥あすかチャンが聞きたいことって、今日しか聞けない気がするんス」


 熊野筆のチークブラシで淡いオレンジを乗せられている夜猫よねこは、瞼も閉じて得意げだ。


「ま、勘なんスけど!」


 第六感に全幅の信頼を寄せる夜猫よねこの無邪気さを直視した飛鳥あすかは、本人も気付かないまま、くすぐったそうな笑顔でまろい頬を綻ばせている。その一方で、左目の泣き黒子ぼくろにコンシーラーを置かれなかった桜兎おとは、年相応にいとけない表情を見せる飛鳥あすかへ、思い浮かべていた自身の言葉を伝えることができないまま、隣のフィッティングルームへと連れ去られて行った。


――――――


 学生証に印刷するために学校へ派遣されるカメラマンとはまるで勝手が違う撮影会を経て、這々ほうほうの体でメイク落としと制服への着替えを済ませた飛鳥あすかは、緩く巻かれた髪を結い上げるだけの暇を惜しんだ。履き慣れた革靴でエレベーターへ飛び乗った少女は、午前中に顔見知りとなった社長秘書に連れられて、事務所の最上階へと運ばれていく。ちらと盗み見た側近は、現在地を示す上方の電光板を眺めるばかりで、にわかに緊張する同伴者へ声をかけたり、様子を窺ったりといった気遣いを与えることはしなかった。


 ポン、と箱が鳴った階層で降ろされた少女は、秘書が携えていたカードキーで開門された本丸の床を、やや擦り減った靴裏で踏みしめる。門番は飛鳥あすかに続かずに、閉じゆく扉の向こう側へと姿を消した。来客の気配に顔を上げた狐塚こづかは、バニラの香りが立ち上る手巻き煙草をガラスの灰皿に押し付けて、僅かに目尻を和らげている。


「そうやって髪を下ろしてると、尚のこと似てらァな」


 特等席の前まで進んだ飛鳥あすかは、甘い煙の残り香に鼻腔びこうを刺激されながら、鋭く光る紫色を見返した。


「では、質問してもよろしいでしょうか」

「構わんよ。今日の人数に合わせて、三つまでは応えてやる。ただし、おれが教えてやれることもあれば、知った上で教えないこともある。このことだけは、あらかじめ承知しときな」

「後者の場合は、この場で明かせない情報だ、ということを覚えて帰れと」

「どんな物事でも、順序ってェのが肝要だからよォ」


 返した狐塚こづかは、流暢なフランス語を紙面に滑らせていた右手を止め、愛用する万年筆に蓋をした。ブラインドが引き上げられた窓越しの世界では、去り際の夕暮れが街の輪郭をほのかに赤く燃やしている。また、からすわしのシンボルを掲げるそれぞれの寮へ提出した外出届の効力も、間もなく切れようとしていた。


「……寮鳥会りょうちょうかい室に隣接した隠し部屋。あそこにあるエニグマは、本物ですか」

「イエス。正真正銘、第二次世界大戦でドイツ軍が使った遺物だぜ」


 手袋が外されてあらわになった、節のある左手の人差し指が、飛鳥あすか狐塚こづかに訊ねた回数を示している。


「ネットの掲示板に流れた噂、『第二次世界大戦から隠され続けている秘密』は、エニグマのことを指している?」

「そうさなァ……四割、いや、三割は正解ってとこかね」


 次に立てられたのは中指で、言葉が継ぎ足される気配もない。「知った上で教えないこと」の壁にはばまれた飛鳥あすかは、質問の選択を誤った彼女自身に対して眉根を寄せかけ、表情に表れる寸前でぐっと堪えた。


――チャンスは、あと一回。


 力んだ飛鳥あすかの右手には、彼女のトレードマークでもある赤のリボンが握られている。理由を問いただすことすらせずに背中を押してくれた友人たちのため、選ばれるべき問いがあるはずだと念じながらも、少女の脳裏にこびりついて離れないものは、たった一つ、カフェの軒先で彼を引き留めた衝動だけだった。


「……母は、……うみという女性は、どんな人でしたか」


 頼りなげに掠れた声は、僅かにぶれた瞳の焦点と拍子を合わせ、虚勢でもって絞り出された。言ったきり、唇を堅く引き結んで黙り込んだ飛鳥あすかを、狐塚こづかはひたりと見定める。部屋に掛けられたアナログ時計によればたった数秒に過ぎない会話の空白も、華奢な肩をもつ黒髪の少女にとっては、数分どころか、数時間にまで及んだようにも感じられた。


 一人用の椅子に座っている彼は、革張りの背板へ上半身を預け、薄い瞼でもって瞳を覆う。成人男性の重さに鈍く鳴った家具の支柱は、次に狐塚こづかが目を開けるまで、辛抱強く所有者を抱え続けた。


「随分と真っ直ぐな子だったよ。役目と板挟みになっちまって、息苦しそうなくらいには」

「役目、って……寮鳥会りょうちょうかいに所属していた、ということでしょうか」

「いンや。ウミは才女だったが、寮鳥会りょうちょうかいには頑なに入らなかった――と、いうよりも、入れなかったクチだな」


 重心を前に戻した狐塚は、机の下方に続いている引き出しを開き、数十枚の紙束を片手で取り出した。


「時々出る薩摩弁も可愛くてなァ、男子連中の間じゃ、結構な人気だったぜ」

「母さんは、鹿児島の出身でしたから」


 彼の手によって選り分けられた書類の中から姿を現したのは、半透明の袋に入れて保管されていた、一枚の写真だ。縁が僅かにせた紙片は、画角に入りながらシャッターを押したのであろうことが推測できる、前方に腕を伸ばした詰襟つめえりの少年と、トンビコートを羽織った少女の二人を確かなピントで捉えていた。背景として映り込んでいるのは寮鳥会りょうちょうかい室の窓辺で、肩を組まれながら照れくさそうに笑う少女の耳には、左右に一粒ずつ、小さな黒子ほくろが飾られている。


「あと少しで卒業って時に、どうしても退学するってんでよ。その写真は、会長命令でおれが無理矢理撮ったモンだ。そうそう、コートに埃がかからないようにすんのも、結構苦労させられたんだった」


 詰襟つめえりの少年でもあった狐塚こづかは、言葉を発することも忘れた飛鳥あすかへ、彼女の母親が映った印画紙いんがしを明け渡す。震える手で受け取った少女の顔立ちは、同じ年の頃である静止画の少女とよく似ていた。


「四年前。夫婦一緒に交通事故で亡くなったって聞いてなけりゃ、おまえさんのことをウミと見間違えてたかもしれねェな」


 日常の中の一コマを切り取られた女生徒の姿に、愛娘は、目の奥からこみあげる熱さを自覚していた。兄弟も姉妹もなく、他人よりも冷たい態度で接してくる親類を除けば天涯孤独の身となった夜を越えて、鳥籠の学び舎という僅かなよすがを正しく辿っていられた自身の軌跡が、少女の心臓を一層引き絞った。


 しかし、飛鳥あすかの温かな涙は、長くは続かなかった。


『平成二十七年度二月、寮鳥会室で兎未と』


 頬を伝った塩水が写真に垂れる寸前、慌てて手元をひるがえした少女の目に入ったのは、音こそ同じであれども、飛鳥あすかが母と信じ続けた「海」とは似ても似つかない文字列だった。


「う、み……って、どうして……狐塚こづかさん、これは」

「質問は三つまで。アスカはもう、その権利を全部使いきったろう」


 これでもサービスしたんだぜ、と肩をすくめた彼は、おどけた時と変わらぬ声色のまま、動揺の渦中にある飛鳥あすかの揺れる眼差しを、己の視線で捕まえてみせた。


「な、おチビちゃん。危ない目にいたくなけりゃ、今からでも別な道を選ぶことをお勧めするぜ」


 満月に照らされた下層では、底が見えない崖を人工の星々が照らすように、色とりどりのイルミネーションが頼りなく点灯している。先に帰路へついた夜猫よねこが待つ寮のベッドに身を投げ出した飛鳥あすかは、どうやって自分が私室まで帰ってきたのか、その一切を思い出すことができなかった。

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