第3話 - 剪定の祭日

 七月二十六日、水曜日、仏滅。グロッケンを合図に生徒たちが我先にと雪崩れ込む食堂へ出遅れた三人組は、揃って眉間の皺を深くしていた。ひと月ごとにドイツ料理と和食のテーマが切り替わる本日のランチは、ミョウガに生姜、小口葱や鰹節をたっぷりと盛った仕上げに醤油を回しかけた焼き茄子と、揚げたての鶏胸肉の天ぷらがメインに据えられた、夏バテ防止メニューだ。火から上げられて間もない茄子の熱さに舌を火傷した夜猫は、コップに手酌した檸檬水で口内を冷ましている。

「指名制なのは知っていたけど、試練付きとは思わなかったわ」

「激ムズ問題作っておいて、期末の点数だけじゃダメなんて……鬼っスよぉ」

 鸞翔高校の歴史が滲む、生徒たちの代表組織「寮鳥会」の任期は、一年生のみ半年間、その他の年次は一年間と校則で定められている。雛鳥に限って期間が短い理由は、新たに寮鳥会へ所属する人材の候補として選抜された生徒たちが、十月に控えた学園祭で成果が出せるかどうかを教師に測られ、その上で最終的な加盟の判断を下されるためである。候補生の選び方自体は単純で、直近の試験で成績上位者となった、烏寮と鷲寮の男女二名ずつに御声がかけられる決まりだ。

 先週末に開示された、一学期の期末試験の上位十名には、学年六位にランクアップと健闘した夜猫、中間試験と同じ並びでワンツートップを譲らなかった飛鳥と桜兎が、堂々たる気風で名を連ねていた。何かにつけてセットで行動する姿が日々目撃される三人組は、上から順番に掬う寮鳥会の慣習に則り、栄誉ある四本の指へ数えられる次第となったのが、先の昼休み冒頭までの話だ。

 人を率いるに値する器かどうか見極めるべく、強制的に学園祭委員へ任命された十数分前の記憶は、皆それぞれに色濃い。炭火で焼かれた葱入りの味噌汁を一口、二口と飲んだ桜兎は、透明なコップを空にしたばかりのウルフカットの少女を不意に見遣った。

「夜猫さんは、もっと喜ぶかと思っていたけど」

 雑穀米を咀嚼している飛鳥も、桜兎の発言に頷く。キュウリと塩昆布の和え物へ箸先を伸ばしていた夜猫は、苦い笑みを左側の口端に浮かべた。

「このまま請けたら、『お兄が先生に口利きした』って噂されちゃうもん。ヨネがお兄に絡んでても、周りはこっちが一方的に懐いてるだけだと思ってっから、お兄の風評被害は最小限スけど……寮鳥会抜擢ってなると、流石に目立ちすぎ」

 ぽり、と小気味のいい瓜科の歯ごたえが音になり、連結した三人分の席の範囲にだけ響く。

「思い出作りは頑張るっスけどね。寮鳥会メンバーは二年以降も再選抜されるらしいし、ヨネはそこで合流かなー」

「夜猫……」

「あ、例の秘密の件は、ガッツリ下調べしといて欲しいっス!」

「夜猫さん……」

 友人たちに異なる感情から順番に名前を呼ばれた当人は、次の予鈴が鳴る寸前まで、普段よりも長い時間をかけて昼食を噛みしめた。


 入学式に立て看板があった場所へ設置されているのは、約二ヶ月にも及ぶ準備期間を経て当日を迎えた、第百四十八回目を数える鸞翔高校学園祭の告示だ。OBやOGによる特別講演を除けば数少ない名門高校の一般公開日をこれ幸いとして、鸞翔高校に通う生徒の保護者だけではなく、他校の生徒や近隣住民、お忍びで金の卵を偵察しに来た各界の著名人やその補佐といった、思い思いの目的を胸に抱く人々が正門に詰めかけていた。人気が少ないのはグラウンドくらいで、当該の区域では、準備期間から当日までの様子を特設ステージのスクリーンへ映し出し、その後は全校生徒が手に手を取ってキャンプファイヤーを囲むことが恒例となっている、後夜祭用に準備された機材たちが占領していた。天気は快晴、一日を通して降水確率はゼロパーセント。絶好のお祭り日和である。

 寮鳥会の会員候補として声がかけられた四名は、各々が所属するクラスの学園祭実行委員に任命された。組単位で行われる出店内容を決める話し合いの司会進行や、多数決で決まった出し物を実現するために必要な段取りの検討、保健所への飲食物販売に関する申請書類の作成に、割り当てられた予算の配分――と、昼夜を問わない作業の山に追われていたのは、あくまでも昨日までの話。学校全体が待ちかねた本番の開幕に合わせ、お仕着せの丈の長いメイド服へ身を包んだ二人の様子はといえば、飛鳥は耳をほのかに赤く染めながら、夜猫は足取り軽くご機嫌に、客への給仕に勤しんでいた。

「お、お帰りなさいませ。何名様でのご帰宅ですか?」

「お帰りなさいませ! 席が空くまでお待ちいただくんで、その間にメニューを決めといてもらえるとありがたいっス」

 「クラシカルメイド喫茶」を設営した一年一組では、昨晩借りた調理室でミルクチョコレートの海へとくぐらせた輪切りのバームクーヘンや、季節外れながらもドイツ菓子としてトップクラスに有名なシュトレン、水出しアイスコーヒー等のコールドドリンクを主に提供している。演劇部から借りた衣装は数とサイズに限りがあるため、男子は裏方での仕上げ調理担当、女子は午前中と午後でシフトを組んだ配膳と接客担当といった風に仕事を分担していた。

「思ってたよりウケいいっスねぇ。この分じゃ、早々に材料足りなくなるかも」

「ええ、追加の買い出しは頼んだけど……時間通りには抜けられなさそうね」

 最も混雑するであろうと予想していた昼時を迎える前から、オルゴールの音色が薄く流れる教室は今日限定の来客たちで満杯だった。その一因は、雲一つなく晴れた空がもたらした気温の高さにあり、空調のきいた室内でカフェ系統の出店をしている各クラスは、例年以上に軒並み賑わっているのだった。特に、肌を見せない衣装を選んだ彼女たちの住処は、間違いなく端まで冷気が行き届くよう注意が払われている。コスチュームの代償として熱気に耐えざるを得ないクラスメートを慮って低く設定された温度は、企画運営を担った当人たちをも驚かせるほどの集客に一役買っていた。

「桜兎に連絡しなきゃ。一緒に回る約束の時間、遅らせてもらいましょう」

「ぼくならもういるよ」

 謝罪と打診のためにポケットから取り出したばかりのスマートフォンを落としかけ、お手玉のように三度ほど手元でまごつかせた飛鳥は、今しがた幼馴染の声がした方向へと一息に振り返る。赤のリボンを飾り付けられたポニーテールが顔面に直撃した桜兎は、左手の人差し指と中指の腹で鼻の先が削れていないことを確かめた。彼の衣装は普段と代わり映えがしないもので、夏の制服として定められている糊のきいた白のワイシャツに、センタープレスが清潔感を演出する黒のスラックスを合わせている。

「なんで隠れるような真似! ……はあ、もう。いつからいたのよ」

「十分くらい前。こっちの客足は一旦落ち着いたから、お役御免になったんだ」

「ヨネがいらっしゃいしたんスよー。前売りのサービス券持ってたし」

 男子生徒が在籍する一年三組の出し物「十五分お化け屋敷」が結構怖いらしい、という噂は、一組に来店したグループ客も会話の種にしていた。大手配信サービスで視聴可能なホラー映画を片っ端からはしごした、にわかに話題なお化け屋敷の脚本家たる桜兎は、二つ折りのメニューブック片手に、五十円引きのジンジャーエールへ舌鼓を打っている。

「ね、あすちゃん。この『クーヘンセット』って、まだ頼めるかな」

「本格的に寛ぐつもりね。三百円です」

「じゃあそれ、お願いします」

 からかいと呆れ交じりの注文ごっこを遮ったのは、喫茶店の入り口であることを明示するための張り紙がある西側の引き戸で沸いた、黄色い声の濁流だった。音の渦中から顔を覗かせた男子生徒は、赤いリボンが結ばれたポニーテールを目印にして、飛鳥たちを見付けることに成功した。

「三人とも、ここにいたのか。探したぞ」

「……私、この光景にも段々と慣れてきたわ」

 寮鳥会の腕章を左腕に付けた会長は、毎度お決まりの注目を(主に女子から)集めつつ、涼風が立ち籠めた店内へと進み入る。名門校の代表としてメディアからの取材を受けることも珍しくない戌月は当然として、試験では常に一点差でワンツートップを飾ることがエンタメの一つとなっている飛鳥と桜兎、学業では他のメンバーに一歩及ばないものの、体育会系の部活の助っ人を任される度に必ず賞を攫っていく夜猫らは、四人の顔ぶれが揃ったことにより、四方からの視線を独り占めしていた。

 二年生の女子グループが戌月のために席を空けようとする素振りを見せたが、彼女たちの好意は丁重に辞された。休憩はまだ先だから、と断る彼の表情が僅かに強張っていることへ気付き、また、先程の「探した」という発言を思い返した飛鳥は、個人の名前も判然としない周囲からの嫉妬覚悟で、よく見知った仲の三年生へと耳打ちする。

「何かあったんですか」

 耳元を掌で隠しながら背伸びする後輩を見遣った戌月は、目元を細めながら口角を上げた。

「場所を変えたい。構わないか」

 桜兎と夜猫にも聞こえるように言った会長は、それに加えて、動きやすい制服へ着替えてくるよう、これから誘拐する予定の女生徒二名へ促した。

――衣装は予備も少ないし、これで校内を歩くのは恥ずかしいし。正直、ちょっと助かったわ。

 我先にと着替えを済ませた飛鳥は、教室の一角に作られた即席のバックヤードから悠々と抜け出す。半袖の可動域の広さに感動しながら伸びをした飛鳥は、着替えを覗く不届き者が万が一にも近寄らないようにと、出入り口のすぐ脇で見張り番をしていた戌月――の、眼鏡へ、日焼けの少ない手の甲を直撃させた。うお、と思わず驚きの声を上げた彼の状況を把握するまで三秒かかった現行犯は、自らの所業を脳で理解してからカンマ一秒、慌てて両手を胸元へと引き寄せた。

「嘘っ! あの、ごめんなさい!」

「はは、ちょっと近すぎたな」

 飛鳥の過失をフォローしながら笑う戌月は、胸ポケットから取り出した水色の眼鏡拭きで、ハーフリムのレンズを擦っている。医療用具、兼、装飾が外された彼の相貌を至近距離で見上げつつ、両肩を縮こまらせたまま先輩の顔色を窺う被告人は、それにしても、と口を動かしながら眼鏡をかけ直した戌月の言葉を聞き逃さぬように集中した。

 しかし、彼が続けた会話の先にあったのは、飛鳥が思い描いていたいくつかのルートのいずれにも当てはまらない、彼女にとっては予想外の言葉だった。

「さっきの衣装。似合っていたから残念だ」

 耳を疑う飛鳥だったが、歯の浮くような台詞を素面で投げかけてくるような相手は、見渡したところで他にいない。頼みの綱である桜兎は、家族からの入電があったために空き教室へと先行しているし、夜猫に至っては仕切りの向こう側で着替えの最中だ。こともなげに仮装への賞賛を口にした戌月を前にして、成すすべもなく顔を真っ赤に染めた少女は、風のような速さで廊下へと身を翻した。


「爆破予告……」

 各クラスによる出店のホットスポットである東棟とは異なり、取り扱いに注意が必要な薬品も保管されているという理由から、催事であっても頑なに部外者を拒む西棟。その三階に存在する、寮鳥会のために構えられた一室で戌月が口にした単語を復唱したのは、着替えの直後に見舞われた顔の火照りを治めた飛鳥だ。平の会員用に設置された二列のソファで男女に分かれた四人は、幼馴染と兄妹とが各々向かい合うように座った。机の上には、学校の敷地内を網羅した見取り図が広げられている。これは、左胸のポケットから会長が取り出した一本の鍵によって解錠された戸棚から、慣れた手つきで引き抜かれたものだ。空調の電源は数分前に点けたばかりで、窓も扉も施錠された密室には蒸された熱気が篭っている。集まった四人のワイシャツはといえば、後ろ身頃に汗が模様を作り始めていた。

「三十分前に職員室へ電話がかかってきてな。犯人はボイスチェンジャーを使っていて、逆探知も間に合わなかった。本校舎のどこかに仕掛けられた爆弾は、十四時ちょうどに起爆するそうだ」

「ちょっと、あと二時間半もないっスよ! 昼過ぎなんて、一番ごった返す時間帯だってのに」

「学園祭って、確か外交の側面も強いんですよね。訪問客を校外へ避難させるなら、なるべく早い方がいいと思います。お忍びで来ている著名人は、軒並み発言力の強い方ばかりと聞きますし」

「できるものなら、そうしたいんだがな」

 胸元で組んでいた両腕を解いた戌月は、前髪の中央に作られた分け目から覗く額を、右手の中指の爪で二、三度掻く。

「最高峰の学園を謳う鸞翔高校において、『何らかの問題が生じた』と公表することは望ましくないと、我らが学園長は仰せだ。マスコミからの取材も受け入れている手前、スキャンダルは避けたいのだろう。寮鳥会の候補者までなら許容するが、一般生徒に伝えることすら御法度だと」

 溜め息をつく兄の言に絶句する夜猫の横で、飛鳥は、隣人に聞き取れるかも危ういほど、掠れた呟きをぼとりと溢した。

「なに、それ」

──目を塞いで、嘘であることだけに賭けて、避難すらさせないつもりなの。

 膝上で握りしめられた少女の両手は、プリーツスカートの布地を巻き込んでいる。

──まだ、助けられるのに?

「それで、だ。事を一般人に露見させず、かつ速やかに対処するよう、寮鳥会へお達しが出た。君たちはまだ正式なメンバーではないが、力を貸して欲しい」

 スラックス越しに自身の膝へ手を当てて頭を下げる三年生の姿に、彼の斜め向かいへ座っていた飛鳥の腰が浮く。

「顔をあげて下さい! 頼まれなくても、協力するつもりでいましたよ」

「しかし……」

「パパにはもう連絡したんスよね。なら、ヨネたちにできる事はやらなきゃ」

 半袖のワイシャツを着用しているため、ない袖を捲り上げるジェスチャーを付け足しながら飛鳥に同調した夜猫からの声かけに引き上げられ、戌月は困ったように微笑みながら姿勢を正した。話し込むうちにエアコンから流れ出る風が行き渡り始めた室内は、冷房に併設された除湿機能で不快指数が低くなりつつある。

「イタズラじゃ、ないんですか」

 あとは鎮まるだけと思われた水面へ石を投げ入れたのは、戌月による状況説明の冒頭から沈黙を守り続けていた桜兎だった。他三人の視線を一身に受け止めた彼が見据えているのは、先ほど背を伸ばしたばかりの上級生ただ一人である。

「食堂への仕入れとか、清掃業者とかに扮して出入りするにしても、外部の人間には必ず学校側の男性職員が同行する決まりがありますし。犯人は、ガセネタに慌てふためく様を見物したいだけの大ほら吹きかもしれませんよね」

 流暢に所見を述べる桜兎からは、日頃の柔和な雰囲気が削げ落とされており、声色に遊びがない。彼の相手役として唯一抜擢された戌月が、すぐに返事を行わないことへ焦れた夜猫は、もう一人の立会人である飛鳥の様子を盗み見た。それにより、愛されて無邪気に育った少女は、眼差しを険しくした同学年の特待生が言葉を発せんと息を吸い込む瞬間を目撃することとなった。

「その議論に夢中になっていられるほど、私たちに時間は残されてないわ」

「迂闊に首を突っ込むのは危険だって言ってるんだよ」

 桜兎は、訴えを続けようとした唇を、そこで一度だけ縫い合わせた。少年の閉じられた口が次に開かれたのは、小さな深呼吸を間に挟んだ後だ。

「ぼくたちは子どもで、やれることなんてたかが知れてる。警察に話が通っているなら、大人に任せてもいいじゃないか。あすちゃんがわざわざ危険な目に遭ってやる必要なんて、どこにもないだろう」

「桜兎」

 三歳から四歳を目安とした年頃の幼児に訪れる、俗に「なぜなに期」とも称されることがある第二質問期に痺れを切らした保護者のように、飛鳥は彼の名前だけを前置きして、会話に小休止を与えた。少女の眼は、理由を明かさないままに余裕を無くした幼馴染の視線を、正面から真っ直ぐに捉えている。彼女の表情の険しさは怒りから来るものではなく、真剣に考えを巡らせている時の顔つきであることを、試験勉強を共にする仲でもあるルームメイトは知っていた。

「私は、この学校を守りたいの。もちろん、桜兎も含めて」

 窓の外では、正午へ向けて勢いを増すばかりの太陽がコンクリートを熱し、近隣住民が打ち水をした公道には蜃気楼が揺れている。己の存在を知らしめんとする遅鳴きのアブラゼミは、発振膜に鳴筋、共鳴室から作られた自前の楽器を、命を削りながら震わせていた。

「危ないのは、絶対無しだからね」

 当人たちにとっては永遠ほどにも長く感じられた沈黙の末、ついに退室しないことを選んだ少年は、口から息を吐きながらソファの背もたれへと身体を投げ出した。女生徒二人が対岸でハイタッチをしている光景を薄目で眺めた桜兎は、脱力した体勢のまま、五秒間だけ瞼を強く閉じた。


 一年生三人の総意がまとまるまで見守りに徹していた戌月は、次に、校舎の見取り図のうち、ある一点を指差した。

 学校の敷地内にある屋根付きの施設は、入学式などの式典や講演で使用される大講堂に、生徒たちの居住地でもある鷲寮と烏寮、普段の授業のほとんどを執り行う本校舎と、寮と本校舎に連結した食堂、そして、本校舎から中庭を挟んで建てられた体育館とプールがその全てだ。さらに、本校舎の内訳は、普通授業を行うための東棟と、実験などの特別授業に使われる西棟、学校図書館としては異例の蔵書数を誇る図書棟の三つに分けられる。これらのうち、食堂と繋がる渡り廊下が整備されているのは東棟のみ。屋外施設であるグラウンドの付属品として、その他の教室と比べればやや手狭な部室棟も、運動部に所属する生徒のために完備されている。

「学園祭当日に最大限のダメージを与えられる場所、という点を考慮すると……一般客に開放されていて、かつ、各クラスの出店目当てに最も人が集中する東棟。この範囲内に、爆弾は設置されていると見て間違いないだろう」

 「東棟」と右から順番に書かれた文字にあてがっていた手指がぐるりと大きく回され、単語が示す建物を囲むようにして透明な丸を描いた。戌月は、机上へ焦点をあてていたハーフリム越しの視線を上げ、改めて、候補生たちの顔ぶれを確認する。

「民間人にはもちろん、他の生徒にも情報は伏せたまま、爆弾を捜索するための時間が欲しい。こちらの用意が整いしだい、北東にある裏門から食堂を経由して、東棟に爆発物処理班を動員する。これについては父とも打ち合わせ済みだ」

「寮鳥会の他のメンバーは何してるんスか? お兄だけじゃなくて、三年も二年もいるはずっスよね」

「この賑わいようだぞ。トラブルの対処と運営で手一杯だ。短い時間であれば動かせるが、専属の手駒にはできない」

 要するに、何かしらの理由をこじつけて、ごった返した東棟から人払いをしなければならない。通達しやすい安牌として『ガス漏れ検知による一時的な点検』はどうかと言った桜兎の案は、大仰に受け取った生徒や来客がパニックを起こしかねないということで、惜しまれながらも却下された。

「一つ、アイデア自体はあるのだけど……」

「さっすが飛鳥チャン! 聞かせて聞かせて」

 前のめりになって目を輝かせる夜猫をよそに、作戦の発案者たる飛鳥は顎に手をあて、眉間に皺を寄せている。もう一度、確かめるように重ねて呼ばれた名前に至っては耳に届いてすらいないほどに、描いた青写真を机上へ載せることに対するためらいばかりが、飛鳥の思考の大半を占めていた。

「先に、保護者の許可が必要ね」

 瞼を上げた特待生は、戌月を部屋の端に同行させる。席へ置いて行かれた桜兎と夜猫が耳をそばだててみるものの、移動した上で声量も絞った彼女たちの内緒話はほとんど聞きとれない。

「桜兎クンさ。しれーっと読唇術とか体得してそうなイメージ、あるんスよね」

「ぼくがどうこうは横に置いておくとして、そう簡単に得られる技術じゃないことは間違いないね」

 手持ち無沙汰になった夜猫から桜兎へ提案した手遊びが三ラウンド目に突入したタイミングに合わせて、グロッケンが鳴り響く。その電子音に合わせたかのように、離席していた二人のうち、飛鳥だけが友人たちの待つテーブルへと戻ってきた。同じく席を空けていた戌月はといえば、校舎の見取り図を出してから放置されていた壁沿いの戸棚を間違いなく施錠した後、そのまま部屋を出て行ったのだった。

「お兄、どっか行っちゃったけど」

「色々と手続きが必要になったから。あなたのことを、ご両親と関係者に取り次いでもらっているの」

「ん……んん? ヨネのこと? え、爆弾探しの話じゃなかったんスか」

 元から大きな目をさらに丸くする同性の友人へと向き直るために、両膝を揃えたまま上半身を捻った飛鳥は、ついに意を決して打ち明けた。

「夜々中寝子の、限定復活ゲリラライブ。しましょう」

「へぁ?」

 空調設備が駆動する、僅かな環境音だけが満ちた寮鳥会室。頭上にエクスクラメーションマ―クを大量に浮かべ、母音の形に口を開いたまま呆ける少女は、ひたすらに瞬きを繰り返していた。


 午後一時半過ぎ、朝方は閑散としていたグラウンドは、溢れんばかりの人、人、人で埋め尽くされている。人口密度が急上昇した運動場で、たった一人で注目を集め続けているのは、制服から校章を取り外した学年不詳の歌姫「夜々中寝子」だ。鼻から上の顔半分には黒猫の面を被っており、表情の全貌は観客から見えることはない。ポリエステル製のウィッグを被って演出される黒のストレートヘアは、気紛れにステージ上を行き来する軽快なステップに合わせて毛先が元気に揺れている。首には青のリボンをチョーカーのように蝶結びし、装飾と色を合わせた青色のタイツを履いている細身の脚は、既に三十分もの間、休みなく動き続けていた。

『次も新曲、行くっスよー! あ、そこのお兄サンとお姉サンは動画止めてね。写真も動画もアップNGなんで』

 ヨロシク! と、彼女が高らかに宣告した丁度のタイミングで、録音済みのベースとドラムが、次曲のイントロを刻み始める。男女の垣根がない大歓声は、雲一つない晴天へ響き渡っていった。

 バーチャルアイドルの第一線へたった三年で上り詰めた夜々中寝子の活動休止は、ほとんどのファンにとって、また関係者にとっても寝耳に水だった。キャラクターの声帯を預かる中の人――夜猫からは、受験日から起算して一年以上前から、マネージャーに休止の可能性を打ち明けていた。にもかかわらず、「志願倍率が三十倍を超すほどの名門校に、彼女が合格できるはずはない」と判断した所属会社の意向により、長らく外部にはその事実を伏せられていたというのが、夜々中寝子の突然すぎる活動休止を巡る騒動の原因だった。その対応もまた彼女を燃え上がらせる一因となり、会社からのある種の期待を裏切った夜猫は、見事に鸞翔高校へ入学する権利を勝ち取ってみせた。

 電撃発表の煽りを受けたのは、あらかじめ事態を把握できるはずだったプロジェクト内部についても例外ではない。今後のリリースを見越して、ミュージックビデオの用意まで完了していた楽曲は、一曲や二曲ではとても数えきれない。つまり、夜々中寝子こと夜猫は、未発表曲となった十数の新曲を抱えたまま、四月からの休止期間に突入せざるを得なかった。なお、所属事務所の浅慮を指摘することも忘れなかった夜猫と株主たちの手によって、社長は既に首を挿げ替えられており、今回のゲリラライブを認可したのも、現行の新社長の手腕によるものである。後夜祭でダイジェスト映像を流すために用意されていたスクリーンには、お蔵入りにせざるを得なかった動画たちが、画面いっぱいに投影されている。野外ライブにも耐えうるスピーカーからは、楽曲からメインボーカルの音のレイヤーが除かれている、いわゆるカラオケ音源が大音量で放流されていた。

「夜猫って、本当に楽しそうに歌うのね」

 安心した気持ちから呟いた飛鳥の現在地は、夜々中寝子の中の人によるライブ告知を校内放送で流した十分後には空になった本校舎のうち、爆弾が設置されている可能性は低いと推測された西棟にあった。演劇部から衣装を借りて大急ぎでアイドルの外装を用意した飛鳥は、ゲリラライブの開幕を見守ってから、人混みを縫って本校舎へと戻っていたのだ。人っ子一人いなくなった東棟には、蒸し暑そうな防護服で全身を包んだ爆発物処理班が、一斉に各教室を漁っている。戌月が言っていた通りならば、あとは警察が問題の品を解体してくれさえすれば、万事丸く収まる――それは、飛鳥も十分に理解していた。けれども、自らの目で確認しなければならないと信じる場所があるからこそ、グラウンドから本校舎へ戻ってくる者がいないように見張っている教師たちの目を掻い潜った末に、西棟の階段を駆け上がっているのだった。

――あの写真だけは、万が一にも燃やされてたまるもんですか。

 無人になった寮鳥会室を開け放った飛鳥は、部屋の一角に鎮座するホワイトボードを避ける作業へ一直線に取り掛かる。少女にとっては入学式の夜以来となる隠し部屋の入り口は、半年前の侵入で整理のコツを掴んだことも幸いし、前回必要とした時間の半分ほどで全貌を露わにした。

 相変わらず鍵のかかっていない秘密の扉に手をかけて、爆破までのタイムリミットがあと十分を切った焦りに逸る身体を、棚ばかりが設えられた空間へ滑り込ませる。トンビコートを纏った生徒たちの写真が綴じられたお目当てのアルバムと隣り合うように配置されていたタイプライターもどきは、ガラス戸の向こうにすぐ見付けることができた。そして飛鳥は、木箱のケースに格納された機材の外見が、夜猫が見せてきたエニグマのオークション用の写真とも一致することに改めて気付かされ、静かに生唾を飲み込んだ。

 棚を開けた飛鳥は、エニグマと戸棚の端に掌を滑り込ませる。四六判のアルバムは、出来るだけ外から見えにくくなるよう、能う限り奥へと押し込んであったのだ。

「届いた」

 爪に触れた紙の感触に顔を明るくした飛鳥は、ぶつかった背表紙の角へ指の腹を掛けて、手前へと呼び寄せる。けれども、達成感に震える手でページを捲った彼女が、本命である一枚の写真を見付けることは叶わなかった。

――絶対、挟んだのに!

 何度もページを手繰り直し、収納場所をスマートフォンの明かりで照らし、周囲の床を見渡しても、被写体の名前がない写真は、どこにも見当たらない。時間を忘れて探し物に没頭していた少女を引き戻したのは、端末のロック画面に浮かび上がる、桜兎からの着信だった。

『もしもし? 戌月さんが、爆弾の解体と処理班の撤退が完了したって。会場の近くを探したけど、あすちゃんが見当たらなかったから、電話でごめんね』

「え、あ……。そう、よかったわ。ゲリラライブも順調かしら」

 かきあげた前髪は、汗でじっとりと濡れていた。動揺が声に出ていないことを祈りながら、額に張り付いた数本の髪を払って、通話先の返答を待つ。しかし、十数秒待ってみても、彼の声は聞こえてこない。一度耳から離した端末の表示から、現在地の電波状況が悪くないことを確認し、飛鳥は再び耳元へと液晶パネルをあてがった。

「桜兎?」

『今、どこにいるの』

「どこに、って」

『ライブは、もうとっくに終わったよ』

 拳大の心臓が、一際大きく跳ねる。少女の左手首に巻かれた時計は、既に午後二時を十分ほど過ぎていた。

――あの大音量が届かない場所なんて、どうしたって限られるじゃないの。

 今日の幼馴染の振る舞いは、普段の朗らかな様子とは似ても似つかなかった。弱気なだけ、騒動に怯えていただけと言われればそれまでだが、そうだとすると、ああまで会長に食い下がっていたシーンとの辻褄が合わない。そんな彼に、正直に現在地を明かしたらどうなるかを想像した少女は、回答をごまかす方向へと舵を切ることを即決した。

――桜兎にだって、機嫌が悪い日はあるわよね。

 飛鳥は、電話を少し顔から離してから、深呼吸を一つ落とす。左右を持ち替えて輪郭へ添え直したスマートフォンのマイクには、あえて軽い笑いを吹き込んだ。

「すぐ戻るから、内緒にして頂戴。ちょっとした野暮用よ」

『あすちゃん!』

「後でね」

 強引に電話を切った飛鳥は、間もなくかかってきた入電の通知を横へ滑らせ、応答を拒否した。電源を落としたスマートフォンは、収納先の定位置である、プリーツスカートの襞に隠されたポケットへと滑り込ませた。

 少女の手元に残されたのは、全てのポートレートのモデル名が明記された、「完璧な」フォトアルバムだけとなった。


 異例で異例を隠し通した学園祭と、全生徒に対して門限が特別に免除された後夜祭は、大団円のうちに終了した。避難指示、および犠牲者を出さないまま幕を閉じた爆弾騒ぎは、今後もマスコミに情報が漏れないよう、学校側で然るべき処置を行ったことが、全てが収束した後で関係者に告げられた。また、本件に携わった一年生の三人は、学園長からの下命として、明日から寮鳥会へ所属することも決定していた。

 会長が担う義務の一つに、週に一度の「夜半の宣誓」がある。歴代寮鳥会の会長たちは、本校舎の消灯後、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの詩「旅人の夜の歌」が作者の母国語で書かれた中庭の創立碑の前に立つ。八行足らずの詩を目にしながら、七日間分の自省と次週の目標を黙想することで、学園を率いる者としての自覚を新たにするというものだ。学校創設から間もない頃、詩人のファーストネームと時刻をもじったドイツ文学好きの会長が勝手に始め、いつしか伝統に変わっていったこの慣わしを知っているのは、本人が寮鳥会に所属しているか、あるいは親しい友人に会員がいるか、そのどちらかに振り分けられる上級生ばかりだった。

 生徒たちが寝静まった深夜に、件の責務を終えて静かに創立碑前を離れた戌月は、懐中電灯の明かりで不意に照らし出された影へと目を留める。白い光に浮かび上がる、髪をハーフアップに結い上げた男子生徒の横顔は、彼もよく見知ったものだ。

「君まで夜更かしか」

「少し、お話したいことがあっただけです」

 少年は、戌月が自身に近寄るまでの間も待たずに、言葉を続ける。それを気にした風でもない灯台守は、歩きながら、静かに彼の話へと耳を傾けた。

「寮鳥会の候補生は、男女それぞれで二人ずつ、合計四人のはず。それなのに、どうして爆弾騒ぎでは、ぼくたち三人だけを呼びつけたんですか」

「人手欲しさに親しい相手を頼るのは、ごく自然なことだろう? 君こそ、ああまで飛鳥に反論するなんて、らしくなかったんじゃないか」

「爆弾騒ぎで活躍すれば、自分の利用価値を学校へアピールすることができる。元から寮鳥会へ勧誘されていたぼくらが目覚ましい働きをすれば、まず確実に引き抜かれることでしょう」

 鳴き疲れたアブラゼミは、六本の足を全て縮こまらせて、乾ききった地面に横たわっている。

「そして、この『試験』への参加チケットが、戌月さんの声掛け一つだとしたら──もう一人の候補は弾かれることが、あの時点で既に決定されていたとしたら。本来ならば教員のみが行うとされる寮鳥会メンバーの選抜に、生徒が加担したことを意味します」

 人工灯に照らし出された少年は、眩しさに目を細めながら、会話相手へと身体を向き直らせる。正面から見据えた先達がもつ、暗闇との境界が曖昧な輪郭は、少年にはほとんど捉えることができなかった。

「戌月さんは、ぼくたちに、何を見出しているんですか」

「背中を任せるに値する同志を、自ら選んで何が悪い?」

 ちか、と光ったような錯覚を少年が覚えたのは、彼の眼孔に嵌められた、ヘーゼルカラーの虹彩だった。

「さて、君の空想に付き合ってやれるのはここまでだ。早く寮へお帰り」

「……はい。おやすみなさい」

「おやすみ。良い夢を」

 左手に掴んでいたスマートフォンの画面を点灯させた少年は、鷲寮までの帰路を辿るべく、砂利の少ない地面を照らす。自室へ向かう一年生の足音が遠ざかっていくさまを聞き届けた戌月は、観測者のいない笑みを口元に浮かべた。

「か弱い兎を演じるのも、楽じゃなさそうだな」

 抜け出しついでの見廻りを再開した彼の足取りは、少年と会話をする前と比べて、何ら変わってはいない。規則正しい足音は、見慣れた夜更けの景色を確かめる作業へと戻っていった。

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