第2話 - 秘め事に熱

「それ、エニグマかもしれないっスよ!」


 砂漠さばくで見上げた星空に負けない輝きを瞳にたたえる夜猫よねこが、二段ベッドの上段に位置するルームメイトの私的してきな空間へ頭を突き出したのは、飛鳥あすかが呟いてからほんの一瞬の出来事だった。


――――――


 全寮制のエリート養成学校、国立鸞翔らんしょう高等学校が女生徒のために用意したからす寮。三年間を共にする自室へ備え付けられた二段ベッドの上を飛鳥あすかが、下を夜猫よねこが初めて使った時分は、入学式の開催日から日付をまたいだ頃のことだった。寮鳥会りょうちょうかい室への侵入よりも、門限をやぶったことについて懇々こんこんと叱る戌月いづきは、学生証を受け取ったばかりの女子たちからすれば、まるで口煩くちうるさい父親のように感じられた。


 特に、彼と血を分けた妹である夜猫よねこにとっては。


「おにぃ、これまだ続く……?」

「切り上げようかと思っていたが、急に続けたくなってきたな」

「どうスかこういうの。ヤな男っスよね」

「今は話を振らないで……」


 記憶にある穏やかな父親とは重ならない説教を飛鳥あすかが興味深く聞ける時間は随分前に過ぎ去っており、しおれながらも落ちてくる瞼を開けていることに必死な彼女は、絞り出すように夜猫よねこの投げかけへ応じた。早寝早起きを心がけていた特待生にとって、深夜に及ぶ活動は体力をえぐり取っていく行為だった。


「……ま、高校生活一日目だしな。今回は誤魔化ごまかしといてやるから、口裏は合わせてくれよ」


 膝に手をあてて立ち上がった戌月いづきの元へと長机を回り込んだ夜猫よねこは、叱責しっせきからの解放により取り戻して有り余る元気を、兄に飛びつくことで発散した。


「やった! おにい大好き!」

「はいはい」


 慣れたふうに妹を抱き止めた彼は、突進された勢いを受け流し、首元へぶら下がった少女を安全かつ速やかに着地させる。両手を払って息をついた会長は、座ったままの飛鳥あすかと視線がかち合ったことをよしとして、寮鳥会りょうちょうかい室にいる生徒の中で血の繋がりが唯一ない彼女へ右手を差し伸べた。握手を求められていると解釈した飛鳥あすかが同じく右手で応えると、一回り小さな掌を掴んだ男子生徒は繋がったまま腕を引き、革張りのソファへ沈んでいた少女を立ち上がらせた。


「君も災難だった、と言っていいものか迷う熱中ぶりだったようだが……困ったことがあれば、気軽に頼ってくれ」


 予想だにしていなかったなかば強引なエスコートに、飛鳥あすかは目を白黒させている。それを見下ろす長身の彼のかんばせは、大講堂の端からプロジェクター越しにあおいだ像よりも、遥かに整っていた。


「い、戌月いづき先輩たちは、きょうだい仲がいいんですね」

「俺にとっては、あれでも可愛い妹だ」

「二人とも、早く帰ろうよー」


 直接言うとつけ上がるんだが、と、先んじて廊下に出ている夜猫よねこを見遣り、苦笑混じりに小さくこぼした彼の柔らかさは、説明会の壇上だんじょうでは隠された一面だった。


――――――


 式典の翌日、始業式を済ませた午後から早速始まった授業は、一年生たちが予想していた以上のハイペースで進んでいった。高校教材の前提知識である中学までの復習を授業内で一切行わないのは当たり前、突然配布される小テストには、選択肢が皆無かいむな記述問題が列を成す。教師陣の解説自体は丁寧であるものの、内容の量と密度に潰れていく同級生たちを、ペンを動かし続ける飛鳥あすかは横目に見ていた。


 過酷な授業の合間を縫って彼女が足を向けたのは、西棟のさらに西へ構えられた、三階建ての図書棟だった。一学校の設備としては異常なほど蔵書ぞうしょが充実した図書室には、寮鳥会りょうちょうかい室と同様に、過去の卒業アルバムが欠けなく取り揃えてある。


——母さんの年齢から逆算すると、この辺りかしら。


 飛鳥あすかは、装丁そうていに布が貼られたハードカバーを一冊、本棚から手元へと移動させた。平成二十五年度に鸞翔らんしょう高校へ入寮し、平成二十七年度に巣立った生徒の顔ぶれと、顔写真の下に印字された名前へ目を通していく。しかし、最後のページまで捲ったものの、飛鳥あすかの母の若かりし姿と推測できる特徴――耳垂じすいに一粒ずつある、直径二ミリ程度の黒子ほくろ――を外見にもった生徒や、彼女の母が名乗っていた「うみ」というたった一文字は、ついぞ発見されることはなかった。そればかりか、飛鳥あすかが秘密の小部屋で見つけた写真の少女も、アルバムから見出すことが出来ていない。もしや手繰たぐる年度を間違えたか、と前後三年分を同じようにあらためた飛鳥あすかだったが、お目当ての人物はやはりどこにも見当たらなかった。


——写真の子がいないのは、私が知らないだけで、特別な事情があるのかもしれない。けど、母さんは確かに生徒の一人だったはずなのに。そう、聞いたのに。


 寝物語への疑いがとぐろを巻き始めた思考に押し出され、秘密の部屋の中で見つけたタイプライターもどきについての疑問を飛鳥あすかが呟いたのは、夜猫よねこくつろぐ寮の自室にて、課題に一区切りをつけた自分と同じく休憩中の桜兎おととの通話に興じる夜のことだった。


「エニグマってのは、第二次世界大戦でドイツが使った暗号機っス。戦後は連合国に破壊命令が出されたんスけど、たまーに難を逃れた奴がネットオークションに出ることもあるんスよね。令和元年に出品された、説明書付き美品の初値は……なんと! 二十万ドル!」

「日本円だと、約二千二百万円……それがスタート価格なのね」

『うーん、形は一つじゃないみたいだけど』


 飛鳥あすかとの会話に割り込まれた桜兎おとは、引っ越しの際に持ち込んだ薄型ノートパソコンで、「エニグマ」を検索ワードに入れてからエンターキーを叩き終えていた。二百万件弱の探索結果を画像のみ表示するように絞り、液晶パネルを眺めながら頬杖をつく彼の住まいは一人部屋だ。入学式に夜猫よねこ桜兎おとへの問題行為を働いた二年生らを始めとする、主に勉学の重圧に耐えかねて自主退学の道を選んだ十余歳の群れには、数週間だけ彼のルームメイトだった生徒も含まれていた。新入生にとっては、順位が貼り出される形式では初の腕試しとなる一学期の中間試験が近付いているのも、教師たちが指導に熱をめる要因の一つだった。


桜兎おとクンだ、おひさぁ」

『こんばんは夜猫よねこさん。クラスが別だと、中々ね』

「ランチは毎日一緒じゃない。数時間も離れてないのに」


 うつせのままあきれた声で指摘する、マットレスに置かれた特待生の半月板はんげつばんは、何度も折りたたんでは伸ばされる膝下を健気けなげに支え続けている。


「レプリカとかも含めるといくつか型があるんスけど、超有名、かつ第二次世界大戦に使われたエニグマは、木箱に入ったタイプライターって感じの見た目でさ。手前には画鋲がびょうみたいな形のキーボード、奥にはローターが付いててぇ……ん、これこれ」


 溌溂はつらつとした可愛らしさを備えた夜猫よねこ風貌ふうぼうとは裏腹に、アングラの世界に踏み込んでご機嫌な少女の細い指は、スマートフォンの検索結果から一件の画像を表示した。飛鳥あすか眼前がんぜんに差し出されたのは、先の話に出たネットオークション用に所有者が撮影し、全世界へ公開されたエニグマの写真たちだ。


「あ……これ。多分、こんな形だったと思う」

「っしゃ! 手がかりゲットぉ!」


 ベッドの梯子はしごを飛び降りて小躍こおどりする夜猫よねこの遠のく声に笑いをこらえられなかった桜兎おとと、幼馴染の様子に釣られて破顔はがんした飛鳥あすかは、しばらく画面越しに肩を揺らし続けていた。


「はぁ、おっかしい。真面目に考えなきゃいけないのに、笑わせないでよ」

『あすちゃんがそんなに笑うのも珍しいけどね』

「ねー。声出すのは初めて見たかも。顔も真っ赤」


 再び飛鳥あすかのテリトリーへ侵入した夜猫よねこは、何とはなしに手の甲で触れた友人の肌の熱さに目を瞠った。


「ちょっと、尋常じゃない熱さなんスけど! 体温計借りてくるから、ちゃんと仰向けになって寝てて!」

「そんな、大げさにしなくても」

「いいから!」

『……あすちゃん。ぼくも、夜猫よねこさんと同意見だよ』

桜兎おとまで……」


 飲み物を冷やすためだけに用意された小ぶりな冷蔵庫からスポーツ飲料のペットボトルを一本取り出した夜猫よねこは、ルームメイトの枕元へ素早く配置する。自分が友人の世話をしなければ、という使命感に駆られた少女は、宣言通り、非接触の体温計を寮母室りょうぼしつから、汗を拭きとるためのフェイスタオルを山ほどリネン室から借りてきた。赤外線から解析された飛鳥あすかの体温は、平熱よりも三度高かった。


――――――


 曜日が更新された正午過ぎ、午前の授業と昼休憩を区分けする鐘――ビッグベンの鐘の音を流用した他の予鈴よれいとは異なる、ミュンヘンの市庁舎に取り付けられたドイツ最大の仕掛け時計「グロッケンシュピール」で採用されているものと同じ音楽が流れることから、生徒たちは皆「グロッケン」と呼ぶ――が鳴ってから十五分後の桜兎おとが背を預けていたのは、人が出払ったからす寮の廊下の壁だった。右手に提げた「資源を大切に」と青で印字されている乳白色のビニール袋には、食堂の入り口に併設へいせつされている購買で買い求めたプリンにゼリー、生理食塩水やスポーツ飲料が雑多に詰め込まれている。左の掌で支えた彼のスマートフォンに表示されているチャット画面のトーク履歴は、少年からの問いかけが最後に送信されていることに加え、会話相手が入力中であることを示す三つのドット模様が、入力欄のすぐ上で飛び跳ねている。ほどなくして部屋の主に入室の許可を得た男子生徒は、兎が題材に採用されたイラストのスタンプで、了承の旨を手短に返信した。


「あすちゃん、入るね」


 オートロックの扉は、あらかじめ内側から解錠されていたおかげで、性別から判ずれば部外者となる少年も、難なく開くことができた。入り口にある段差で来客用のスリッパを脱ぎ、すぐ左手にある小さな冷蔵庫へ差し入れを詰めていく。桜兎おとは、男子生徒専用の寮であるわし寮とは鏡合わせになっているからす寮の間取まどりにも、遊びに来る回数を重ねるうちにすっかり慣れていた。ルームメイトの退出により一人部屋となった男子寮の自室へ、関係を結んだ時期が新旧まばらな女子の友人たちを招かないのは、第二次性徴を終えた彼なりの配慮だった。


「具合はどう? 昨日よりは楽かな」

「ええ。だいぶね」


 開封されたものはドアポケットに、それ以外は冷気をとどこおらせない程度に余白を作りながら詰めて——と、実用的な立体パズルを着々と組んでいた桜兎おとは、返事がなされた声の出所に眉をひそめた。「要冷蔵」とパッケージに書かれた残りの品を適当に冷蔵庫へ放り込み、レースのカーテンで簡単に仕切られた奥の居室きょしつへと進む。すると、昨夜に高熱が発覚したばかりの飛鳥あすかは、北側へ置かれた二段ベッドの上下どちらでもなく、南側に設えられた勉強机に向かい合っていた。手元には数学の問題集とノートが開かれており、問題の番号を冒頭行に記載した五ミリ幅の横罫線けいせんには、所々でもつれる筆跡がページの半分以上に渡ってつらねられている。常よりも乱れた前髪から覗くひたいには、乾いてふちまくれた冷却シートがかろうじて貼り付けられていた。


「何してるの、寝てなきゃダメだよ!」


 肌に触れる部分が水色のジェル状になっている吸熱剤をがしたひたいへ、桜兎おとは自分のき手をあてがう。掌の感覚神経から伝達される彼女の温度に、彼の開いた口がふさがらない。微熱などとはとても言えない、四十度はあろうかという熱源が、飛鳥あすかの身体中を駆け巡っていた。四肢のだるさで結い上げられずに垂らした長い黒髪は、椅子の背でたわんでいる。また普段ならば、ヘアゴムに重ねて髪飾りとする赤いサテンのリボンは、他の住民がリップクリームと日焼け止めに限られた、アクリル製の安価なコスメボックスに入居していた。


「どうして、こんな……。ほら、シャーペンも置いて、せめて横になろう」


 少女に握られた筆記用具を取り上げようと伸ばされた少年の右手は、簡単に引き抜けるだろうと予想していた病人の持ち物が、強く握り込まれて動かせないことにたじろいだ。二度、三度と試してみても、自身に爪が刺さるほど強く執着した飛鳥あすかの拳は解けない。どうして、と呟いた幼馴染には一瞥いちべつもくれない学年唯一の特待生は、奥歯が鳴るほど力みながら、書きかけの証明文に目を落とした。


「私には、これしかないの」


 少女の指先に張り巡らされた毛細血管のいくつかが千切れ、短く切り揃えられた爪の先を、浅く鮮やかに湿らせる。


「こんなことすらできなかったら、繋がっていられない」


——家族とのよすがは、もう、ここだけ。


 鸞翔らんしょう高校の特待生であり続けるための条件には、入学後も学年で指折りの成績であり続けることが含められている。一学年の生徒数は、入学時点で九十人。定期考査で二桁の順位におとしめられた時点で、特待生は、そう称される資格と共に、学校からの支援をも失う。人という意味でも、金銭的な意味でも後ろ盾のない飛鳥あすかにとって、失敗の許されない関門の一つは、個人の体調をおもんぱかって動いてくれはしない。


 部屋が、静寂せいじゃくで包まれる。桜兎おとの手は飛鳥あすかの拳から離れ、指の腹が机へと押しつけられている。うつむく幼馴染の眼にぬるい塩水が張り詰めているのを、人工灯の僅かな反射で、彼は察していた。


「ぼくは」


 彼女よりも一回り以上大きく成長した体躯たいくで、さながら木陰こかげを作るかのように少女のそばへと身体を寄せた少年は、二人分が並んだ右手へと視線を移す。


「ぼくはさ。あすちゃんには、あすちゃん自身のことを、もっと大事にして欲しいよ」


 爪の際、親指の背が、拳の側面に触れる。岸辺に乗り上げたさざ波をとどめようと、己の地熱で身を焼く彼女は、瞼を精一杯見開いた。


夜猫よねこさんが来ない理由、知ってる? 休み時間のうちに、きみの分のノートを写すんだって」


 朝の出立しゅったつ前、足元がおぼつかない患者とベッドの上下を交換した同居人が、換気のためにと数センチ開けていった窓から、不意に風が吹き込む。透明な力がページをまくり、折り目をつけていた見開きより前の、既に解き終わった問題たちをよみがえらせてみせる。


「元気になったら、ぼくだって、いくらでも追い上げに付き合うよ」


 だけど。


 息継ぎをするために区切られた会話の続きを探し、顔を上げた飛鳥あすかが目の当たりにしたのは、眉をひそめながら瞳を細める、見知った幼馴染の知らない表情だった。


「辛そうなのは、どうしても、見たくないんだ」


——どうして、おとが泣くの。


 少年の目元は乾いていた。けれども、飛鳥あすかが彼の表情から真っ先に連想した水面みなもはそのままに、窓の外から侵入する微風そよかぜだけがレースの端を遊ばせている。お互いが十を数える前の歳の頃に何度も見た、声変わり前のボーイソプラノがあどけない幼馴染の涙とは異なる泣き顔に、飛鳥あすかは一瞬、自分へ陰を落とす彼のことを、初対面の「誰か」ではないのかと錯覚した。


 飛鳥あすかが知る「泣き虫なおと」は、大人しさに付け込まれて心無い扱いを受け、彼なりに勇気を出して抵抗はすれども、結局はどうしようもなかった時にくやし泣きをする子どもだった。かばってくれたり、仲裁ちゅうさいしてくれたりした相手へ謝罪しながら、己を責める気持ちが涙になって表出ひょうしゅつしてしまう幼子。そして、「ごめん」を最も多く、近くで聞く権利を得ていたのは、幼馴染の少女のはずだった。


 だのに、四捨五入すれば二十歳にもなる今、外部の誰にもあざけられはしない最上級の箱庭で、彼女の眼前に立ちすくむ彼は、口元に笑みを浮かべながらも、強張こわばって歪んだ眼差しで飛鳥あすかを見下ろしていた。


——それじゃ、まるで。私のせいで、泣いているみたいじゃない。


 涙のない泣き顔の理由をつかそこねて黙りこくった飛鳥あすかを眺めた桜兎おとは、一つ、瞬きを落とす。次に瞼を開いた時には、数秒前の彼とは打って変わって、思い描いたままに眠りへつくことができない赤子をあやす風にも似た、ほがらかな、目尻を緩めた笑みへと顔つきを整えてしまった。


「ちゃんと休んでからの方が、効率もいいしさ」


 無意識に緩んでいた右手から、固く握りしめていたはずの筆記用具を容易たやすく取り上げられた少女は、もはや取り返そうと試みることはできなかった。


――――――


飛鳥あすかチャンが病み上がりっての、信じらんないやからが出そうっスねぇ」

「熱が下がってから、すっごく頑張ってたもんね」


 本人よりもしたり顔で目を扇形にするウルフカットの女生徒をはじめとする三人組が見上げているのは、本校舎の東側、普通教室に面した廊下へ設置された、大型の電光掲示板だ。先日実施されたばかりの中間試験の結果をもとに、各学年の一位から十位までにランクインした生徒たちの名前を見上げる生徒は数多く、掲示板の周りはごった返している。混雑の中心から抜け出した三人のうち、夜猫よねこは九位、桜兎おとが二位、飛鳥あすかに至っては五教科全てが満点での一位に該当する優れた頭脳の持ち主であることを流布るふする簡素な一覧表は、採点の結果、あえなく表示外となった他七十名弱や、他学年からも注目を集めていた。二位に甘んじた桜兎おとと、一位に君臨する飛鳥あすかの得点差がたった一点のみであるということも、より一層同級生からの興味を掻き立てている。


「中々いいスタートを切れたみたいじゃないか」

「あ、おにい!」

「おはようございます、戌月いづき先輩」


 女生徒たちが振り向いた先にいたのは、寮鳥会りょうちょうかい会長であり、三学年の首席でもある戌月いづきその人だった。飛鳥あすかが名前を呼んだがために、彼の所在しょざいに気付いた周囲の生徒たちはにわかに色めきだったものの、台風の目に置かれていることを一切考慮しない夜猫よねこは、登場したばかりの兄へ無邪気に飛びついた。人混みの中にまぎれたどこかの一団から、絹を裂くような悲鳴が上がる。


「ヨネはもう少し頑張らないと、友達に置いて行かれるぞ?」

「げげえ……もうちょっと褒めて欲しかったっス」


 ねている今の表情を似顔絵にしたら、さぞかし内面を捉えたイラストが出来上がるのだろうなと考えながら、会長は妹を自身から引きがした。頬を膨らませたままの夜猫よねこは、怒り肩で飛鳥あすかの右腕に抱き着いて落ち着く。


飛鳥あすかは流石だな。優秀なのは知っていたが、まさかノーミスとは」

戌月いづき先輩からも、助けていただいたので」


 食堂で早々に昼餉ひるげたいらげた後、持ち込んだノートを机へ広げてせっせと書き写す妹を見つけた戌月いづきは、飛鳥あすかの体調不良を伝え聞いていた。とこした彼女が知らぬ仲ではないことと、夜猫よねこが友人のために行動している姿をこのましく感じた彼は、飛鳥あすかの快復を待ってから、二人の試験勉強を何度か見てやってもいたのだ。過去の試験問題まで惜しみなく提供される手厚さに遠慮する飛鳥あすかを黙らせたのは、「人脈だって強みの一つなのに、使って何が悪いんスか?」などと口にしながら、心の底からさっぱり分からない、と言わんばかりに小首をかしげる友人だった。


「今後も、期待している」


 微笑む彼を至近距離で目の当たりにした飛鳥あすかは、彼が視線をらしてから、左手の甲を自身の頬へとあてがった。しかし、本人が比べたのでは、体温の変化は分かりようもない。


――まだ、本調子じゃないのかしら。


 熱がぶり返したものと解釈した飛鳥あすかは、桜兎おと戌月いづきが対面を果たしている横で、今日の早寝を決意していた。


「……君が、桜兎おとか。じかに会うのは初めてだな」

「二人が戌月いづきさんのことをよく話すので、多分ぼくたち、今、同じ気持ちです」

「一点はどこで落としたんだ?」

「あはは……。英作文の最後、『members』に『s』を忘れて……」

桜兎おとクンって、こういう天然っぽいトコがあるんスよねー」

「見直しは念入りにな」

「はい。次からは」


 ホームルームが間もなく始まることを告げる録音が、学校の敷地全体へと響き渡る。五分後に備えて散った彼らは、互いに軽く手を振り合ってから、それぞれが籍を置く教室へと吸い込まれていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る