本章

第1話 - 鳥と兎と犬猫と

 鸞翔らんしょう高校が生徒に求める学力は、日本で高等学校と名のつく他の追随ついずいを許さない。通常は大学で履修する第三外国語についてもカリキュラムへ含まれているかと思えば、茶道や日本舞踊といった伝統芸能の実習も授業に組まれている。過酷な課題の連続に音を上げて、西暦が一年分更新されるまでに自主退学で学びを去る生徒は、例年二割を超えている。卒業まで生き延びて初めて誇れる戦場と形容しても、決して過言ではない箱庭だった。


──まだスタート地点に立っただけ。卒業まで踏ん張って……いや、それ以上に功績を残して、二度と私と、私の家族を馬鹿にできなくしてやる。


 厳格な指導の賜物として、歴代の卒業生は軒並み各界で名の知れた人物に成長するのが、鸞翔らんしょう高校が高い入試倍率を維持する理由の一つだった。十年前、日本初の女性総理大臣として先進国のトップニュースの一面を飾った議員もそのうちの一人で、彼女の学歴を遡れば、鸞翔らんしょう高校の名前を目にすることになる。


 飛鳥あすかが背もたれに向かって体を傾けると、ポニーテールの厚みにはばまれた。やむを得ず不完全な脱力を享受きょうじゅし、やや寝不足な瞼を緩慢に動かしていると、右隣の椅子に影がかかる。新入生は到着した順に席を詰めるよう案内されるのだから、人が来ること自体は何も不思議なことではない。ただ、席へ辿り着いた後、続けて着席するそぶりがないことを不審に思った飛鳥あすかが顔を上げると、光を背負って彼女を覗き込む男子生徒の視線に射抜かれた。予想していたよりも近い距離からの眼差しに、少女の薄い肩がびくりと跳ねる。


「なっ、にか、用でも」


 飛鳥あすかから見て逆光を背負ったままの彼は、驚きで強張こわばった問いかけと、たじろいで離れた数センチを深追いしない。その代わりとでも言うように、自身の位置を変えないままで、警戒をあらわにする同級生へはにかんだ。


「あすちゃん、だよね」

「……え?」


 二人の間に流れた数秒の空白で動いた身体の部位は、生きている以上は必須となるルーティンで瞬きを繰り返す、二対の瞼だけだった。


「ほら、小学校の……ええと、あすちゃんが引っ越すまでは、よく遊んでたんだけど」


 覚えてないかな、と力なく眉根を下げる、少年の青い瞳と左目の泣き黒子を凝視した飛鳥あすかは、それらの特徴が合致する知人を脳内で検索する。毛先が肩につかない長さの栗色で作られたハーフアップのシルエットは、彼女が目にしてきた異性の範囲内では、さほどありふれたスタイルではなかった。


「……もしかして、おと?」


 恐る恐る口に出した飛鳥あすかに目を輝かせた男子生徒は、今にも飛び跳ねそうなほどの喜びを表情に乗せた。


「そう、桜兎おとだよ!」


『おい、見ろよ。おとのやつ、また女子と遊んでるぜ』

『おとチャンはオンナノコだもんなぁ』


 飛鳥あすかが幼少期を共に過ごした同級生の「おと」は、鬼ごっこやジャングルジムよりも、人形遊びやお絵描きが好きな、落ち着きのある子どもだった。彼の穏やかな気性と相性が良かったのは、身体を動かすことで己の優秀さを見せつける強気な男子よりも、大人っぽさに憧れて背伸びをする女子の方で、そんな彼を揶揄からかうクラスメートもいた。


『こんなもので遊んで、教育に悪ーい!』

『や、やめて、返してってば!』

『年長でおままごととか、気持ちわりーんだ、よっ!』


 カーペットに叩きつけられた小さな人形の首が外れて、フェルトペンで「あすか」と書かれた少女の上履きにぶつかる。上履きの主人は、散らばったパーツを拾い上げ、ナイロン製の髪に絡んだほこりを手で払って取り除いた。


『ねえ』

『うるさい、おんなが出しゃばるな!』

『人のことに口出しできるほどヒマなら、自分がかっこよくなるのをがんばったらどうなの』


 小ぶりなポニーテールの根元に結ばれた赤いリボンが、髪の動きと合わせて揺れる。出しゃばるなと通達された少女は、半泣きの少年へ直した人形を手渡し、彼をからかっていた男子三人組へ遠慮なく距離を詰める。びし、と効果音がつきそうなほど彼らにきっぱりと指を差した「あすか」による糾弾きゅうだんの眼差しは、少年たちの反論を完全に抑え込んでいた。


『いじわるしてるの、すっごくかっこ悪い』


 しん、と静まり返った保育室に、昼休みが五分後に終わることを知らせる予鈴よれいが鳴り響く。電話応対で数分だけ席を外していた保育士が戻ってくる駆け足の音も、段々と近くなってきた。


『な、なんだよ……』

『行こうぜ、もう』


 ばつの悪そうな顔で自分たちの席に戻った悪童は、半透明のビニール素材の筆箱を、忙しなく振り回している。


『あすちゃん』


 呼びかけに振り返った少女は、青い瞳に涙をいっぱいに溜めた少年へ、開けたばかりのポケットティッシュを差し出す。


『ごめんね』


 「おと」は、「ありがとう」よりも、「ごめん」の方が多い子どもだった。


 女生徒の思い出に住む子どもの姿と、目の前に現れた男子生徒の体格は、印象が大きく異なっていた。痩せ型なのは昔から変わらないが、昔の彼は、身長が同世代の女子の平均よりも低かったはず。それが今では、軽く見積もっただけでも、男子の平均よりも高い背丈へと育っているのは明らかだった。


「男子三日会わざれば、って奴ね」


 口角が上がったままの桜兎おとは、満を持して席についてから話を続ける。


「高校で会えるなんて思わなくて、自分の目を疑ってたんだ。じろじろ見て、びっくりさせちゃったよね」

「私の方こそ、すぐに気付けなくて。桜兎おと、かなり背が伸びたんじゃない」

「その分、成長痛は辛いよ」


 飛鳥あすかは少年の喉仏を盗み見してから、会場の前方へ顔を向け直した。


「泣き虫は治ったの」

「あはは、どうだろう。背が伸びてからは、ちょっかいかけてくる子も減ったから」


 頬をかく桜兎おとも、隣人に倣って視線を移す。ざわめきが増して声が通りにくくなった会場の、出入口となっている両開きの扉が閉めきられ、電灯の明るさが二段階絞られる。まもなく入学式が開会されることを告げる放送部のアナウンスが、通路に点々と設置された小型のスピーカーから流れ出した。


――――――


「さて。そろそろ休憩は終わりにして、今後の説明を始めようか」


 祝辞が長々と読み上げられた入学式が終わり、保護者が退席を促された後。おもむろに壇上だんじょうに登ったのは、学生服をまとった男子生徒だった。舞台の中央に設置された机へ両手をつく彼は、飛鳥あすかも受付で世話になった、ハーフリムの眼鏡を愛用する三年生だった。後ろ側の席に座った一年生にも顔を見せるため、宙吊りにされたスクリーンへ話者わしゃのバストアップが投影された瞬間、押し殺された黄色い声が、観客席の所々から上がった。桜兎おとが横目に盗み見た飛鳥あすかは、だんまりを決め込んだまま、これから演説をせんとする彼を眺めている。


「改めて、入学おめでとう。俺は、鸞翔らんしょう高校の寮鳥会りょうちょうかい……平易へいいな言葉にするなら、生徒会のようなものかな。その会のまとめ役をしている、三年の戌月いづきだ。在校生を代表して、皆を歓迎しよう」


 隙間なく閉じられたベルベットのカーテンの向こう側では、高い位置に座した太陽が、雲の隙間を縫って大地を覗いている。しばしの別れの寂しさと、世界でも有数な名門校へ入学した我が子への感動を涙で流し終えた保護者らは、ぱらぱらと校門の外へと向かい始めていた。


「細かい規則や授業内容については、受付で渡したシラバスを確認して欲しい。この場では、最低限のルールだけ通達させてくれ」


 マイクがなくともよく通る、声変わり済みの喉をもつ戌月いづきは、手元に用意された台本をちらとも見ない。


「肝が座ってる」


 小さく独りごちた飛鳥あすかは、寮鳥会りょうちょうかい会長の均整が取れた相貌そうぼうよりも、数百人を前にして視線を落とさない、彼の堂々たる振る舞いへ注目していた。幼馴染の呟きを耳で拾った桜兎おとは、短い相槌あいづちで同意を示す。


「第一に、ここでは生徒の誰もが平等に評価される。出自しゅつじや経歴に関係なく、実力のみを重んじるのが鸞翔らんしょう高校だ。皆の中には、権威あるご家庭から送り出された生徒もいるだろうが──」


 きん、と鼓膜をつんざくハウリングが、演説の間に挟まる。


「くれぐれも。軽率な行動はつつしむように」


 冷たい微笑みが突き立てられたのは、最前列で雑談を続けていた男子生徒たちだった。彼らは、戦後に解体のき目にあった財閥の子孫で、現在では押しも押されもせぬ大企業の御曹司おんぞうしでもある。財界のみならず政界に至るまで顔が広い親のおかげで、少年たちが昨日までのいつでも許されてきた自由時間は、綺麗に揃った彼ら自身の悲鳴で締めくくられた。


 目元を和らげた戌月いづきは、改めて新入生の全員を視界へ入れ直す。


「それにともない、我が校では苗字を使用しないことになっている。生徒同士でも下の名前で呼び合って、ぜひ親交を深めてほしい」


 ただし、模試や大学受験の時だけはフルネームを記名するようにと補足した彼の説明は、すらすらとよどみなく続いていく。


「寮の門限は夜の八時で、起床の鐘は六時半だ。他の時間帯は、男子寮であるわし寮と、女子寮のからす寮を互いに行き来して構わない。ただ今日は、疲れている生徒も多いだろうな。食堂で昼食を済ませたら、寮の部屋割りを確認して、各々の自室でしっかり身体を休めて欲しい」


 二時間にも及んだ式典への参列に対するねぎらいを締めの言葉として、簡素な学校説明会は幕を閉じた。プロジェクターの電源が切られ、カーテンが開け放たれた窓辺から注がれる弱い日光は、空に薄雲がかかっていることを示している。


「あすちゃん、お昼は誰かと約束してる?」


 立ち上がり、固まった背中の筋肉をほぐす桜兎おと天辺てっぺんは、身長が百六十センチある飛鳥あすかと比べて、顔の半分ほど上にある。


桜兎おとが良ければ、一緒にどう?」

「……ぼくから誘おうと思ってたのに」


 空気でむくれた彼の頬が、穴の空いた風船がしぼむように元の形へ戻っていく。互いに一桁台の歳の頃を知る友人の幼い仕草で、飛鳥あすかの顔はほころんだ。


「少し、遠回りをしたいの。すぐに食堂へ行っても混み合っているだろうし、校舎を回ってみたくて」

「もちろん。オープンキャンパスも、入れる場所が限られてたしね」


 足元に置いていた飛鳥あすかの荷物は、彼女が拾い上げる前に、桜兎おとの右肩へまとめてかけられた。抗議の声を上げた飛鳥あすかが取り返そうと腕を伸ばし、奪った彼がそれを避けて何度も振り出しに戻ることを重ねるうちに、運営の腕章をつけた通路沿いの二年生が咳払いをした。


「い、行こうか」


 ぶ厚いシラバスでキロ単位になった二人分の荷物は、男子生徒の腕によって大講堂を運び出されていった。


――――――


 三階建ての本校舎のうち、普通教室が集合している東棟を見物し終えた飛鳥あすか桜兎おとは、次に西棟の一階へと足を向けた。西棟には、理科室や美術室など、各科目用の設備に特化した専門教室が主に備えられており、また三階には、寮鳥会りょうちょうかいが占有することを許された部屋もある。参考書が詰められた蓋のないロッカーや、教室の扉に設えられた覗き窓から得られる僅かな情報を話のタネにする幼馴染たちの鼓膜は、不意に、用具室と保健室に挟まれた廊下の突き当たりで話し込む声をも拾い上げた。どちらからともなく中断された会話を埋めるために澄まされた聴覚は、彼らの会話が談笑ではなく、口論であることを脳へ伝達する。ざわめきの渦中から見て死角となる位置へ移動した二人が、柱の陰から様子を盗み見れば、女子が一人に、男子が二人。彼らに気取られないよう、飛鳥あすか桜兎おとは互いに耳打ちをした。


「あれ。ナンパかな」

「にしては、ガラが悪すぎるでしょ」


 囲まれている女生徒の詰襟つめえりについたバッチが光に反射して、床に色が落ちている。らんの瞳から零れ落ち、空気に希釈きしゃくされた小さな点は、淡い赤色だ。


「女の子、一年生だよ」


 だからさあ、とストレス過分な女性の中音域が、一際大きく廊下へ響く。


「ありがたいとは思うんスけど、リアルに干渉されると厳しいっつーか」

「いいじゃん、堅苦しいこと言わないでさ」

「ちょっ、と! どこ触って……っ!」


 窓際に追い詰められていた一年生の腰が、異性によって服越しに撫でられる。前を閉じられた詰襟つめえりすそからせり上がろうとする男の手は、汗でじっとりと湿っていた。生温い湿気を押し付けられて、少女の体感温度は急降下していく。


「バラされたら困るのはお前だってこと、分かってないんだもんなあ」

「離せ、離してったら!」

「俺たちのおかげでいい顔してられるんでしょ。なら、ちょっとはいい思いさせてよ」


──これは、ダメだな。


 道すがら通り過ぎてきた東棟にある職員室へ向かうため、桜兎おとが振り向いた背後からは、彼のすぐ近くに陣取っていたはずの飛鳥あすかの姿がなくなっていた。桜兎おとがそれに気付くと同時に、先刻までは悠々ゆうゆうと脅しをかけていた男子生徒の悲鳴が、鍵のかかったガラス窓を強く震わせた。


「どう見ても非合意ですよね、先輩」


 温度のない声の持ち主を追った桜兎おとが目にしたのは、男子生徒のうち一人の両手を彼の背中でひねり上げた、仁王におう立ちの同伴者だった。痛みを訴える友人と、現れたばかりの一年生を交互に見遣ったもう一人の容疑者は、女生徒を守る詰襟つめえりのボタンを外すために持ち上げていた腕を引っ込めた。男が飛鳥あすかを見下ろす眼には、隠しきれない戸惑いが浮かんでいる。


「な、なんだお前……」

「嫌がってる相手を暴力で言うこと聞かそうなんて、最低ですよ」

「あすちゃん!」


 飛鳥あすかが二年生の手首を固定していた掌を、桜兎おとが強引に解く。そのまま丁寧に磨かれた廊下へと雑に放られた年上は、関節が外れる寸前だった疼痛とうつうと、ついた尻もちの鈍痛どんつうの両方に悩まされることとなった。


 入学式を手伝わせるための例外を除き、在校生は寮で一日自習をするよう通達されている今日、偶然に通りすがる年長者はいない。澄ましたらんの瞳の色で分断された陣営は、睨み合ったまま膠着こうちゃく状態に陥っていた。二年生の怒りの矛先ほこさきは、緊張した面持ちで他の一年生を背中にかば桜兎おとではなく、彼の後ろにいる飛鳥あすかへと向いている。


「い、ったー……暴力とか、自己紹介のつもりかよ。それとも、ツッコミ待ちのサムいギャグ?」

「そうそう。こっちはじゃれてただけなのにねぇ」

「女の子一人に対して、二人がかりで? どう見ても、襲っているようにしか見えませんでした」


 桜兎おとを横にずらし、毅然きぜんとした態度で彼らをにら飛鳥あすかと、こめかみに青筋を立てて苛立つ二年生に挟まれた桜兎おとは、血の気が引いた顔で両者を交互に見た。元から日焼けの少ない彼の肌が、より一層白さを増している。


「ま、まあまあ落ち着いて! すみません、ランチに行く途中でして。ね、きみも一緒に行こう、今すぐ行こう、それじゃ先輩ぼくたちこれで」

「この状況で、ハイそーですか、ってなるわけなくない?」


 二種類の痛みに見舞われたばかりの二年生が、かたくなに飛鳥あすかの身体を後ろへ回そうとする桜兎おとの胸ぐらを掴んだ。仕立てたばかりの真新しい制服に、無理に引き寄せられてできた皺の線が走る。


桜兎おと!」

「邪魔だよ」


 大きく振りかぶった先達の拳を左頬に見舞われた少年は、窓と窓の隙間にあった柱へ、後頭部をしたたかに打ちつけた。脳が揺れた拍子に目眩を起こした桜兎おとは、壁に背をつけたままずるずると座り込む。近すぎたが故に数秒を見逃しかけた飛鳥あすかが、うずくまった桜兎おとの様子で事の成りきを把握した瞬間、彼女の深い黒の眼光がぎらりと強まった。鬼の形相ぎょうそうとなった少女を前にして、威勢よくわめいていた二人はようやく口をつぐむ。拳を固く握りしめた飛鳥あすかが殴り返すより早く全員の動きを止めさせたのは、他の一年生たちから最も厳重に庇われていた女生徒の大声だった。


「先生、こっちでーす! 今日は外出禁止なはずの二年生がここにいまーす! なんなら一年が三人絡まれてるんで、どうにかして欲しいんスけどー!」


 廊下の先に向かって両手を振り、腹から声を出す彼女の発言を聞いた二年生たちは、呼びかけた方向を振り返るだけの余裕もなく、用具室の脇にある裏口へと慌てて駆け出した。彼らを追おうとする飛鳥あすかの脚を掴んで止めたのは、未だ立ち上がれない桜兎おとだ。騒がしい二人分の足音が、ぐんぐんと遠のいていく。


 しかし、女生徒から存在を匂わされた教師は、結局、ただの一人も現場に駆け付けることはなかった。


 つまりは。


「……ふぅ、だませるもんスねえ」


 安堵あんどの溜め息をついた一年生は、先の発言が演技だったことのネタばらしを同級生へすると共に、疲労がにじむ苦笑を見せた。


――――――


「本当に、もう平気?」

「大丈夫だよ。むしろ、付き添わせてごめん」

「アンタに謝られると、ヨネの立場がねーんスけど」


 己を「ヨネ」と称するウルフカットの女生徒は、養護教諭が出払っている保健室で桜兎おとを休ませる間に、夜猫よねこという本名を明かしていた。彼らとはどういう関係なのか、距離が取れないのであれば警察へ訴え出た方がいいとさと飛鳥あすかの前へ差し出されたのは、黒猫のシリコンカバーが被せられた、最新型のスマートフォン。画面に表示されているのは、全世界で最大のユーザー数を誇る大手動画投稿サイトで千万再生を突破したばかりの、とある動画のサムネイルだ。投稿者の名前は、「夜々中寝子よよなかねこ@公式」。ジェスチャーで夜猫よねこうながされるままに飛鳥あすかが再生ボタンをタップすると、アップテンポのイントロと、ペンライトを振り乱す人々の歓声が流れ始める。そのまま待つこと数十秒、ステージいっぱいに引き伸ばされたスクリーンへ、アニメ調の作画がなされた女性キャラクターが登場する。髪は黒のストレートで、瞳は切れ長の金。猫耳と長い尻尾は髪と同じ色で揃えられ、衣装には青のリボンがふんだんに盛り込まれた、可愛らしくも華やかなデザインを意図して作られた偶像がそこにいた。彼女は、右手に握ったマイクをおもむろに口元に寄せ、ゆっくりと息を吸い込む。次に吐き出された歌声を聞いた飛鳥あすか桜兎おとは、彼女が動画の中の歌姫と同一人物であることを理解した。


「ヨネさ、界隈じゃ結構名の知れたバーチャルアイドルなんスよね。二人に見てもらったのは、活動休止前にやった、先月のライブ映像」


 所有者によって停止された動画は、指先を下から上に滑らせるスワイプ操作で、液晶の描画範囲の外へと弾かれていった。


「バーチャルアイドルって……いてて。確か、声は生身の人間がアフレコして、外見は三次元モデルに踊らせる、ってやつだっけ」

「そう! 声の担当は踊らないから、バックで歌だけに集中できるんスよ」


 女子たちによる見様見真似で作られた氷嚢ひょうのうを頬にあてがった桜兎おとの浅い認識へ、夜猫よねこが太鼓判を押す。漫画や動画といった娯楽からはかけ離れた三年間を過ごしてきた飛鳥あすかは、初めて耳にする情報へ素直に耳を傾けていた。


「学業と両立できりゃ、一番良かったんスけどね。この高校に通いながらアイドルやってたら、両方ダメになりそうだったんで、バーチャルの世界は休業中。そんで、さっきの二人はヨネのファン」

「あまり、そういった業界に詳しくないのだけど……ファンだったらアイドルに何をしても許されるなんてこと、絶対ないと思う。あと、あなたも、有名人の自覚があるのなら、軽率に一人になるべきではなかったんじゃない」

飛鳥あすかチャンてば、すっごい棘あるぅ!」


 リノリウムの床を蹴り、腰掛けたオフィスチェアをくるくる回す夜猫よねこは言葉に笑いを混ぜてから一周、ゴム製のソール二枚を使って椅子の動きを止めた。


「ま、正論スね。いわくつきの学校に潜入できて、浮かれてたのは認めるっス」

「いわくって……評判じゃなく?」

「国立鸞翔らんしょう高等学校の校舎のどこかには、第二次世界大戦から隠され続けている秘密がある」


 怪談師の物真似で声の調子を変えた夜猫よねこは、目と口をそれぞれ三日月型にしてから、元の表情へと顔つきを戻した。飛鳥あすか桜兎おとの反応を窺うよりも、誰かとはかりごとを共有したくてたまらない気分になった夜猫よねこは、上半身が段々と前のめりになっていく。


「ネットの掲示板とかでは、かなり前からある噂なんスよ。で、情報通なヨネちゃんは、この噂の真相を確かめるべく、頑張りに頑張って入学したってワケ」

「私は、聞いたことないけど。その噂って、手がかりとか、証拠はあるの」

「んにゃ。ただの勘」


 断言した夜猫よねこを目の当たりにした飛鳥あすか桜兎おとは、数秒間目を見合わせてから、揃って苦笑いを浮かべた。


「あなた、思い切ったことするのね」

「よく言われるっス!」


 氷がほとんど溶けた布袋をアルミのバットへけた桜兎おとは、自分の掌を胸の前で叩き合わせた。


「ええと、つまり。夜猫よねこさんは、その秘密のを探して、一人で行動していたと」

「そ。寮鳥会りょうちょうかいの部屋が怪しいって、ヨネの第六感が囁いてるんス。だから、式で役員が出払う今日を狙ったんスけど……まさか、って感じでさ。二人とも、マジでありがと」


 両膝に挟まれたクッションへ掌をついた夜猫よねこは、同級生たちに向かって頭を下げる。言葉の途中で揺れた声が、静まり返った保健室に染み入る。中々顔を上げない被害者に、まさか泣いているのか、と性を同じくする飛鳥あすかが心配して肩を叩こうとしたところで、怒りに燃える眼をたたえた夜猫よねこが勢いよく立ち上がった。


「泣き寝入りはしないっスよ。間違っても二度目がないように、キッチリお仕置きしてやんなきゃ気が済まねえや」


 夜猫よねこは、再び点灯したスマートフォンの液晶画面に並ぶアイコンから、受話器のマークが描かれた緑の正方形を指の腹で押した。続けて、あらかじめ登録してある電話番号が並ぶリストを一気に下までスクロールし、短く「パパ」と表示された見出しを叩く。間もなく呼び出し画面に切り替わった電子の板は、素早く彼女の右耳にあてがわれた。


「警視総監様に、直電で言いつけちゃうもんね」


 通話相手の応答を待つ間に、瞳孔がヘーゼルカラーで縁取られたアーモンドアイが、器用に左側だけ閉じられる。夜猫よねこの特別なファンサービスは、彼女がウインクをした瞬間、小さな星が流れる幻覚を二人に与えた。


「あ、もしもしパパ? うん、うん、ヨネもおにいも元気。でね、ちょっとお願いしたいことがあるんスけど……」


 事の顛末てんまつを説明する彼女は時たま、端末を顔から離し、騒音という名の愛ある説教をしかめっ面でやり過ごしている。スピーカーからあふれてあまりある成人男性の低い声は、現役の警視総監が記者会見に臨んだ際、全国規模のテレビ局から生中継で放映されたものと一致していた。


「これは、ぼくたちも迂闊うかつに悪いことできないね」


 夜猫よねこが父親と話し込んでいる間に、桜兎おとは幼馴染へそっと声をかける。話しかけられた飛鳥あすかは、彼に肩をすくめてみせてから、冷凍庫に保管された割り氷を白いアイススコップですくって、バットの上でくたびれているぬる氷嚢ひょうのうへ冷気を思い出させた。


――――――


 夕暮れが沈み、薄雲で天上が明るく感じられる午後七時。からす寮の玄関に貼りだされた部屋割りで同室となった飛鳥あすか夜猫よねこは、狐色の衣から湯気が立つイエガー・シュニッツェル――仔牛のパン粉焼きへ、マッシュルームのクリームソースをたっぷりかけたドイツ料理――に舌鼓したつづみを打った夕餉ゆうげの後、寮の自室ではなく、西棟の三階にある寮鳥会りょうちょうかい室に向かっていた。提案とは名ばかりのわがままを言い出したのは、未知の可能性に瞳を輝かせながら前をずんずん進む夜猫よねこの方だ。からになった皿へナイフとフォークを置いた瞬間に両手をさらわれ、さらに上目遣いで同伴どうはんをねだる新しい友人に押しきられた特待生はといえば、足音で誰かに勘付かれはしないかと、周囲を何度も見渡している。なお、二人と同じテーブルで食事をとっていた桜兎おとは、大事を取ってわし寮へ直帰ちょっきさせられていた。別れぎわ、彼はもの言いたげな顔を女子たちにさらしたものの、怪我けが人は安静にするべき、という点においては調査隊の意見が分かれることはなかった。


「正式に許可を貰ってから探す、っていう案はないの? 今日は門限も近いし」

「だからこそ! 他の生徒に見つからずに、じっくり物色できるんスよ。それに、馬鹿正直にアポ取ってたら、絶対お目当ての品が隠されちゃうっス」

「確かな証拠もないのに、夜猫よねこさんの作戦を飛び込みで決行するのは」


 無謀むぼう、と続けようとした飛鳥あすかの言葉は、夜猫よねこが片手で横へとスライドさせた目的地の扉によって、いとも容易たやすき消された。


「あ、ヨネのことは呼び捨てでもいいっスよ」


――これは、彼女の気が済むまで、路線変更は出来なさそう。


 先に帰ることも許されず、夜猫よねこに手首を掴まれて強制的に室内へと引き込まれた特待生は、決死の思いで勝ち取った一枠を維持するために提示されているいくつかの条件の中に、生活態度の水準を指定した項目があったか否かを脳内で検索する。たとえ不文律だったとしても、寮鳥会りょうちょうかい室は生徒代表のための部屋、すなわち生徒用の設備である。学校敷地内の各棟を移動するためにかかる時間を把握していなくても、新入生という肩書があれば、不用意ではあっても不自然ではない。もしも誰かに発見された場合は、執行猶予の交渉で絶対に「はい」と言わせてみせるとくらい決意をした飛鳥あすかは、今しばらくは、スマートフォンの明かりをサーチライトのように使う夜猫よねこの宝探しを手伝うことにした。


 息を潜めて足音を殺し、動かした物を完璧に復元していっても、ひとたび部屋の電気を付けてしまえば、窓の外へ居場所を宣言することと同じだ。新旧二台の端末から放たれる光は、家具やインテリアの輪郭をおぼろげに浮かび上がらせている。


――第二次世界大戦から隠され続けている秘密、ね。単なる「学校の七不思議」だとは思うけど。


 南側の引き戸から入って右手側にある、執務しつむに使うと思しき長机には、「処理済」「承認待」「確認中」「差戻」「未確認」といったステータスごとに用意された書類ケースが、整然と並べられている。俗にお誕生日席とも呼ばれる位置に配置されている、天板の面積が特に広い引き出し付きの会長席にも、承認用であろう大ぶりな判子が、ケース入りの朱肉と並んでいる。全国的にペーパーレス化が進んで久しい今日でも、何かにつけてアナログな手法が重宝されることを象徴する眺めだった。


 向かい合った二つの長机とソファの向こう側、方角では北側に位置する壁際には、過去の卒業アルバムがずらりと並んだ棚が右手にある。左側には、入学式における人員配置の見取り図が書き残されたホワイトボードや、千枚単位で箱に詰められたコピー用紙が足元に山積する、整頓された部屋の中では比較的雑多な印象を受ける一群があった。


 事務作業の痕跡から飛鳥あすかが顔を上げた頃、夜猫よねこが頬を紅潮させて眺めていたのは、部屋の南側、開き戸の面に強化ガラスが採用され、収納した中身が見えるように作られた縦長の棚だった。中に収められているのは、袖のない膝丈のコートにケープを重ね、さらに背中で布地を縫い合わせて固定した、黒のトンビコートが一着。ワードローブ内にたった一つ用意されたトルソーは、この上着のためだけに存在していた。ドライクリーニングでは光沢の源泉である油脂ゆしが落ちてしまうため、日々のブラッシングや陰干しでのケアが推奨されるカシミヤで仕立てられた外套がいとうは、綾織あやおりにされた山羊の軟毛なんもうがしっとりと艶めいており、カビや虫食いも見当たらない。


「首席卒業者だけが袖を通せる、鸞翔らんしょう高校の伝統衣装なんスよ。一期生からずーっと受け継がれてる、かなりの年代物っス」


 スマートフォンをかざしていない彼女の右手が、笑う度に少しずつ硬くなる頬を支えるように添えられる。


「かっこいいっスよねぇ。うちの学校、平成終盤に制服を一新する案もあったらしいんスけど、トンビコートが合う洋服は詰襟つめえりだから却下された、なんて話もあるくらいだし」

「まるで、恋する乙女みたいな顔をするのね。夜猫よねこは、これを着たいの?」

「んー……。物に付随ふずいしたドラマが好き、って感じっス。目の前の物に、誰かの強い思いが込められてるんだ、ってのにドキドキしちゃう」


 だから、着たいっていうんじゃなくて、もっと知りたいとか、じかに見たいとかが強いかなあ――己の思考を整理しながら言葉を選ぶ夜猫よねこからは、嘘をつく時に見られるような、細いげんを張り詰めた上で綱渡りをする様子にも似た緊張感が微塵みじんも感じられない。良くも悪くも表裏おもてうらのない人間なのだろうということと、こういった知識欲が旺盛おうせいなばかりに現在があるということの両方を理解した飛鳥あすかは、奔放ほんぽうな彼女を叱るに叱れなくなってしまったなと内心で苦笑した。


「隣は……予算案、要望書、ボランティア活動一覧。ファイルの背表紙を見る限りでは、普通の棚みたいっスね。こっちも鍵かかってら」

「そうなると、他に隠し物ができそうな所は……」


 西側に面した会長用の机には引き出しが付いていたが、それらも施錠せじょうされていた。加えて、相談事や掃除でも頻繁ひんぱんに人が行きい、簡単に覗き見ができる位置へ何かを隠すとは考えにくい。内緒話は、知っている人が多くなればなるほど露呈ろていしやすくなる。今回の探し物は、昔からネット上で噂になってはいるものの、決定的な証拠が未だにないという情報から、飛鳥あすかは会長席の周りを捜索対象から弾いた。


「なんつーか、この部屋、ちょっと違和感あるんスよね」


 次の可能性を探す飛鳥あすかの耳に、非公認ツアーの主催のぼやきが届く。


「ほら、ここって三階スけど、一階の保健室と同じ位置にあるじゃないっスか。それにしては、保健室よりも微妙に狭い気がして……」


 暗いからそう見えるだけかなあ、と後頭部をかく夜猫よねこは、喉に小骨が刺さったような顔で、寮鳥会りょうちょうかい室を見渡している。一方、彼女の発言を聞いた飛鳥あすかは、口元を手で隠すように覆い、視線を暗い床へ落とした。十秒弱そのままの姿勢で固まっていた特待生は、おもむろに、ホワイトボードと未開封のコピー用紙が山積さんせきした方面へと歩き出した。


――――――


「あった……」


 予測していた以上に物が積み重なっていた部屋の北西地点から、二人で少しずつ山を切り崩した先には、一枚の扉がたたずんでいた。


「すっ、げー! 飛鳥あすかチャンてば大天才!」

「いよいよ怒られそうで、後が怖いけど」


 その場で足踏みをして喜びをあらわにした夜猫よねこは、発掘したばかりの扉へ待ちきれないといったふうに手をかける。施錠せじょうできない造りの片開き戸は、簡単に奥への口を開き、二人を迎え入れた。


 到達した未知の世界は、棚、棚、棚で四方が天井まで埋め尽くされていた。窓があるはずの西側の壁も隙間なく戸棚が敷き詰められており、内側からは目視できない。入室の瞬間までは賑やかだった夜猫よねこも、想像していた以上の光景が現実として目の前に現れた衝撃に、今日一番の静けさを見せていた。手近な位置にあった引き出しに触れてはみたものの、鍵か仕掛けかがほどこされているらしい木製の収納は、飛鳥あすかの両腕で引いてもびくともしない。夜猫よねこが感じた息苦しさは、この閉塞感へいそくかんに満ち満ちた小部屋を作成するために切り詰めた分の体積だったのである。


 飛鳥あすかは、ワードローブを制作した工房が手掛けたと察せられる、戸の部分が強化ガラスになっている本棚を覗き込む。一冊の幅が辞書にも匹敵するファイルの背には、「第一期生」から始まり、先月卒業したばかりの「第百四十五期生」までが左から順番に書き込まれていた。


――卒業生の、何を、ここで管理しているの?


 部屋はほとんど汚れておらず、棚の段差にも埃がまっていない。人が住まなくなった家は痛む。そして、その定義は部屋にも同様に適用されるはず、と思い至った飛鳥あすかの顔から、一気に血の気が引いていった。


――誰かが、頻繁ひんぱんに部屋へ出入りしている。


「すぐここを出て、早く!」


 飛鳥あすかは、ほうけたままの夜猫よねこの手首を掴み、己よりも先に小部屋の外へと押し出した。追って自身も引き返そうとした拍子に、通路の狭さと焦りが災いして棚に肩をぶつけた飛鳥あすかは、頭上から落ちてきた一冊の本を拾わざるを得なくなった。早く元に戻さねば、と震える手がやっとの思いで掴んだのは、歴代の首席卒業生の記念写真を一冊にまとめている、四六判しろくばんのアルバムだった。創設当初からデザインが変わらない制服の上にトンビコートを羽織って、寮鳥会りょうちょうかい室や教室、中庭などといった敷地内の各所で撮影された写真の脇には、被写体の名前も手書きで記されている。文字は卒業生本人が書いたものらしく、筆跡はバラバラだ。他に落ちたものはないかとスマートフォンの画面を床へかざすと、飛鳥あすかは裏返しになった写真を見つけた。きっとがれてしまったのだろう、と紙片しへんを摘み上げた少女は、印刷面の汚れを確認するために手首をひねり――その刹那、彼女の瞳孔は拡がって揺れた。


「……かあ、さん?」


 白枠の中で微笑む少女は、首席卒業者の証であるトンビコートを羽織っている。背景は、カーテンが微風そよかぜになびく、寮鳥会りょうちょうかい室の窓辺だ。やや色褪いろあせた写真の中心にたたずむモデルは、飛鳥あすかの母親であるうみと同様に、左右の耳垂じすいにピアスのような黒子ほくろがあった。しかし、被写体の名前の手掛かりとなる付記ふきを求めて裏返しても真っ白で、母体であるはずのアルバムにも空白のページはない。


――鸞翔らんしょう高校が母さんの母校であることは、幼い頃のいつかに聞いた。


 二度と会えない両親のうち、かよった高校が残存している母の面影おもかげを学びに求めたのも、飛鳥が鸞翔らんしょう高校を志望した理由の一つだった。


――でも、この少女の名前が仮に「うみ」だとしたら……どうして、この写真は、仲間外れなの?


飛鳥あすかチャン」


 手持ちのカードでは答えが出ない思考の泥沼にはまりかけた飛鳥あすかを引っ張り上げたのは、先に秘密の部屋から脱出し、寮鳥会りょうちょうかい室と接続している出口から覗き込んだ夜猫よねこの声だった。


「あの、大丈夫スか? 気分でも悪い?」

「……ごめんなさい、平気よ」


 居場所のない写真をアルバムに挟み、収納できる手ごろな隙間を探す。すると、飛鳥あすかの視界の隅では、タイプライターに似た形の器具を収めたガラスの引き戸が半開きになっていた。機材に気を遣ってか、道具の横には数センチの隙間もある。タイプライターにとって最も重要な部品であるキーボード以外にも、歯車型のホイールや、古めかしいガスコンロで見るようなツマミが埋め込まれた箱の用途に疑問を抱きつつ、少女はアルバムを差し込んだ。


――――――


 障害物を移動させる前に撮影しておいた写真を頼りに、急いで隠し部屋を封じ込めた二人のひたいには、季節と時間に見合わない玉の汗が浮かんでいる。特に、直前の飛鳥あすかの様子と体調を案じた夜猫よねこは、重い用具の運搬うんぱんを自ら進んでったため、肉体労働の余韻よいんが全身に広がっていた。


「つ、疲れたぁ……」


 革張りの四人掛けのソファにうつせで横たわった夜猫よねこは、くぐもった声でぽつりと言ってから、しばらく動きを止めた。飛鳥あすかとしては、物理的にも危険と隣り合わせである寮鳥会りょうちょうかい室よりも、二人のために用意された寮の自室で休息を取りたかったが、その願望を実行するべく身体を動かせない程度には、異常事態の連続に頭が追い付いていなかった。自重じじゅうで結び目が落ちてきたポニーテールを解き、赤いリボンをポケットへ入れた飛鳥あすかは、近くの壁に背を預けた。


――夜猫よねこが探していた秘密かどうかは分からない。本当は、単なる物置かもしれない。


 けど、何かが意図的に隠されている気がするのは、きっと勘違いじゃない。

 夜猫よねこしかばねのように伸びていたはずのソファで突然鳴った音は、先の出来事を真剣に反芻はんすうする飛鳥あすかを無視して、新しい玩具おもちゃを与えられたばかりの子どものように無邪気な笑みの少女が飛び起きたことにより発生したものだった。


「何アレ。絶対、ぜーったい面白いじゃないっスか!」


 暗闇に慣れた飛鳥あすかの目で捉えた夜猫よねこの表情は、お手本のような満面の笑みだった。


「隠し部屋ってだけでワクワクしてたっスけど、あんないかにも怪しいですって内装、そうそう拝めるもんじゃないっスよ! アルファベットが書かれた資料もあったけど、どうも英語じゃなさそうだったし。そもそも、何のために集めてんのかってのも調べたすぎる! ね、ね、再チャレンジしたいんスけど、明日はさすがにダメ?」


 食堂で探検に誘ってきた時以上に輝く瞳で迫る夜猫よねこと、壁際かべぎわで逃げ場がない飛鳥あすか。危機感というものがそなわっていないのかといぶかしみつつ、距離を取るために両手を胸元へ上げた特待生の顔つきは、大層苦い。


「ちょっと! 今日みたいなのはもうダメ、危ないわ」

「でも、先生とかの監視付きじゃ、さっきの部屋は入れないっスよね」


 学校が隠そうとしているものの解明を、教師が容認してくれるとは思えない。そう話す夜猫よねこの言には異論がない飛鳥あすかは、上げていた手を下ろして腕を組んだ。


――私も、あの写真の子について調べたいけど。


 自由に部屋へ出入りができて、かつ、怪しまれない立場でなければ、あの膨大な量の調査を完遂かんすいすることは不可能だ。加えて、開かない棚が大半とくれば、部屋に侵入できるだけでは意味がない。鍵を持っているか仕掛けを知る管理者か、それに準ずる、一時的な貸与たいよが認められる地位が必要だった。瞼を閉じて思案していた飛鳥あすかは、そろそろと目を開ける。


「……あくまで、可能性の話だけど。寮鳥会りょうちょうかいの一員になれたら」


 くだんの隠し部屋への通り道である寮鳥会りょうちょうかいが、秘密と無関係であるとは考えにくい。加えて、当該組織に所属する生徒の選抜方法は、教師陣からの推薦である。公表されている生徒代表としての仕事以外にも、彼らには何らかの権限が付与されているのではないか、というのが飛鳥あすかの推測だった。


――寮鳥会りょうちょうかいに、選ばれれば。


「新学期初日から夜更よふかしとは、感心しないな」


 飛鳥あすか夜猫よねこへ説明するために開けた口から言葉が出る前に、男性の低い声が水を差す。パチ、という軽い音で明るくなった部屋の入口を揃って振り返った二人の視界に飛び込んできたのは、入学式後の説明会で「軽率な行動はつつしむように」と睨みをかせた戌月いづきが、押下したばかりの照明のスイッチから人差し指を滑らせる姿だった。彼の右手には、下へ向けられた懐中電灯が握られている。作戦会議に没頭ぼっとうしていた女生徒たちは、校則の番人たる会長が校舎を巡回する足音を、すっかり聞き逃していたのだった。


「門限はとっくに過ぎているぞ。名前と学年、それからクラス、を……」


 手持ちのライトを暗くしながら歩み寄ってきた彼は、飛鳥あすかから夜猫よねこの順番で顔を確認した途端、油の切れた機械のように突然立ち止まった。首を傾げる飛鳥あすかとは異なり、夜猫よねこは誰もいない方角に向かって口笛を吹いている。青みがかったウルフカットの襟足で見え隠れする首筋には、っすらと冷や汗が流れていた。


「君は、彼女に巻き込まれたのか?」


 飛鳥あすかと目を合わせた戌月いづきは、消灯した懐中電灯の先を夜猫よねこに向けている。彼の声色こわいろは、凛として張りがあった第一声から一転、疲労とあきれが滲むものへと変わっていた。


「……最初は、まあ、そうですね」


 男子生徒からなされた質問に、頭の上に疑問符を浮かべたままの飛鳥あすかが応えると、戌月いづきは深い溜め息をついた。ついでに、左手の親指と人差し指を眼鏡のブリッジの上へと回して、皺の寄った眉間を揉んでいる。


「あのな、ヨネ。そんなに俺を胃潰瘍いかいようにさせようと頑張らなくていいんだぞ」

「おにい、今日は大目に見て欲しいっスぅ」

「今日はじゃなくて、今日も、の間違いだろ……」


 腰に手をあてて項垂れた会長が夜猫よねこ実兄じっけいであることが飛鳥あすかに明かされたのは、二人が無断で門限をやぶったことに関する説教が始まってからのことだった。

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