本章
第1話 - 鳥と兎と犬猫と
──まだスタート地点に立っただけ。卒業まで踏ん張って……いや、それ以上に功績を残して、二度と私と、私の家族を馬鹿にできなくしてやる。
厳格な指導の賜物として、歴代の卒業生は軒並み各界で名の知れた人物に成長するのが、
「なっ、にか、用でも」
「あすちゃん、だよね」
「……え?」
二人の間に流れた数秒の空白で動いた身体の部位は、生きている以上は必須となるルーティンで瞬きを繰り返す、二対の瞼だけだった。
「ほら、小学校の……ええと、あすちゃんが引っ越すまでは、よく遊んでたんだけど」
覚えてないかな、と力なく眉根を下げる、少年の青い瞳と左目の泣き黒子を凝視した
「……もしかして、おと?」
恐る恐る口に出した
「そう、
『おい、見ろよ。おとのやつ、また女子と遊んでるぜ』
『おとチャンはオンナノコだもんなぁ』
『こんなもので遊んで、教育に悪ーい!』
『や、やめて、返してってば!』
『年長でおままごととか、気持ちわりーんだ、よっ!』
カーペットに叩きつけられた小さな人形の首が外れて、フェルトペンで「あすか」と書かれた少女の上履きにぶつかる。上履きの主人は、散らばったパーツを拾い上げ、ナイロン製の髪に絡んだ
『ねえ』
『うるさい、おんなが出しゃばるな!』
『人のことに口出しできるほどヒマなら、自分がかっこよくなるのをがんばったらどうなの』
小ぶりなポニーテールの根元に結ばれた赤いリボンが、髪の動きと合わせて揺れる。出しゃばるなと通達された少女は、半泣きの少年へ直した人形を手渡し、彼をからかっていた男子三人組へ遠慮なく距離を詰める。びし、と効果音がつきそうなほど彼らにきっぱりと指を差した「あすか」による
『いじわるしてるの、すっごくかっこ悪い』
しん、と静まり返った保育室に、昼休みが五分後に終わることを知らせる
『な、なんだよ……』
『行こうぜ、もう』
ばつの悪そうな顔で自分たちの席に戻った悪童は、半透明のビニール素材の筆箱を、忙しなく振り回している。
『あすちゃん』
呼びかけに振り返った少女は、青い瞳に涙をいっぱいに溜めた少年へ、開けたばかりのポケットティッシュを差し出す。
『ごめんね』
「おと」は、「ありがとう」よりも、「ごめん」の方が多い子どもだった。
女生徒の思い出に住む子どもの姿と、目の前に現れた男子生徒の体格は、印象が大きく異なっていた。痩せ型なのは昔から変わらないが、昔の彼は、身長が同世代の女子の平均よりも低かったはず。それが今では、軽く見積もっただけでも、男子の平均よりも高い背丈へと育っているのは明らかだった。
「男子三日会わざれば、って奴ね」
口角が上がったままの
「高校で会えるなんて思わなくて、自分の目を疑ってたんだ。じろじろ見て、びっくりさせちゃったよね」
「私の方こそ、すぐに気付けなくて。
「その分、成長痛は辛いよ」
「泣き虫は治ったの」
「あはは、どうだろう。背が伸びてからは、ちょっかいかけてくる子も減ったから」
頬をかく
――――――
「さて。そろそろ休憩は終わりにして、今後の説明を始めようか」
祝辞が長々と読み上げられた入学式が終わり、保護者が退席を促された後。おもむろに
「改めて、入学おめでとう。俺は、
隙間なく閉じられたベルベットのカーテンの向こう側では、高い位置に座した太陽が、雲の隙間を縫って大地を覗いている。しばしの別れの寂しさと、世界でも有数な名門校へ入学した我が子への感動を涙で流し終えた保護者らは、ぱらぱらと校門の外へと向かい始めていた。
「細かい規則や授業内容については、受付で渡したシラバスを確認して欲しい。この場では、最低限のルールだけ通達させてくれ」
マイクがなくともよく通る、声変わり済みの喉をもつ
「肝が座ってる」
小さく独りごちた
「第一に、ここでは生徒の誰もが平等に評価される。
きん、と鼓膜をつんざくハウリングが、演説の間に挟まる。
「くれぐれも。軽率な行動は
冷たい微笑みが突き立てられたのは、最前列で雑談を続けていた男子生徒たちだった。彼らは、戦後に解体の
目元を和らげた
「それに
ただし、模試や大学受験の時だけはフルネームを記名するようにと補足した彼の説明は、すらすらと
「寮の門限は夜の八時で、起床の鐘は六時半だ。他の時間帯は、男子寮である
二時間にも及んだ式典への参列に対する
「あすちゃん、お昼は誰かと約束してる?」
立ち上がり、固まった背中の筋肉をほぐす
「
「……ぼくから誘おうと思ってたのに」
空気でむくれた彼の頬が、穴の空いた風船が
「少し、遠回りをしたいの。すぐに食堂へ行っても混み合っているだろうし、校舎を回ってみたくて」
「もちろん。オープンキャンパスも、入れる場所が限られてたしね」
足元に置いていた
「い、行こうか」
ぶ厚いシラバスでキロ単位になった二人分の荷物は、男子生徒の腕によって大講堂を運び出されていった。
――――――
三階建ての本校舎のうち、普通教室が集合している東棟を見物し終えた
「あれ。ナンパかな」
「にしては、ガラが悪すぎるでしょ」
囲まれている女生徒の
「女の子、一年生だよ」
だからさあ、とストレス過分な女性の中音域が、一際大きく廊下へ響く。
「ありがたいとは思うんスけど、リアルに干渉されると厳しいっつーか」
「いいじゃん、堅苦しいこと言わないでさ」
「ちょっ、と! どこ触って……っ!」
窓際に追い詰められていた一年生の腰が、異性によって服越しに撫でられる。前を閉じられた
「バラされたら困るのはお前だってこと、分かってないんだもんなあ」
「離せ、離してったら!」
「俺たちのおかげでいい顔してられるんでしょ。なら、ちょっとはいい思いさせてよ」
──これは、ダメだな。
道すがら通り過ぎてきた東棟にある職員室へ向かうため、
「どう見ても非合意ですよね、先輩」
温度のない声の持ち主を追った
「な、なんだお前……」
「嫌がってる相手を暴力で言うこと聞かそうなんて、最低ですよ」
「あすちゃん!」
入学式を手伝わせるための例外を除き、在校生は寮で一日自習をするよう通達されている今日、偶然に通りすがる年長者はいない。澄ました
「い、ったー……暴力とか、自己紹介のつもりかよ。それとも、ツッコミ待ちのサムいギャグ?」
「そうそう。こっちはじゃれてただけなのにねぇ」
「女の子一人に対して、二人がかりで? どう見ても、襲っているようにしか見えませんでした」
「ま、まあまあ落ち着いて! すみません、ランチに行く途中でして。ね、きみも一緒に行こう、今すぐ行こう、それじゃ先輩ぼくたちこれで」
「この状況で、ハイそーですか、ってなるわけなくない?」
二種類の痛みに見舞われたばかりの二年生が、
「
「邪魔だよ」
大きく振りかぶった先達の拳を左頬に見舞われた少年は、窓と窓の隙間にあった柱へ、後頭部をしたたかに打ちつけた。脳が揺れた拍子に目眩を起こした
「先生、こっちでーす! 今日は外出禁止なはずの二年生がここにいまーす! なんなら一年が三人絡まれてるんで、どうにかして欲しいんスけどー!」
廊下の先に向かって両手を振り、腹から声を出す彼女の発言を聞いた二年生たちは、呼びかけた方向を振り返るだけの余裕もなく、用具室の脇にある裏口へと慌てて駆け出した。彼らを追おうとする
しかし、女生徒から存在を匂わされた教師は、結局、ただの一人も現場に駆け付けることはなかった。
つまりは。
「……ふぅ、
――――――
「本当に、もう平気?」
「大丈夫だよ。むしろ、付き添わせてごめん」
「アンタに謝られると、ヨネの立場がねーんスけど」
己を「ヨネ」と称するウルフカットの女生徒は、養護教諭が出払っている保健室で
「ヨネさ、界隈じゃ結構名の知れたバーチャルアイドルなんスよね。二人に見てもらったのは、活動休止前にやった、先月のライブ映像」
所有者によって停止された動画は、指先を下から上に滑らせるスワイプ操作で、液晶の描画範囲の外へと弾かれていった。
「バーチャルアイドルって……いてて。確か、声は生身の人間がアフレコして、外見は三次元モデルに踊らせる、ってやつだっけ」
「そう! 声の担当は踊らないから、バックで歌だけに集中できるんスよ」
女子たちによる見様見真似で作られた
「学業と両立できりゃ、一番良かったんスけどね。この高校に通いながらアイドルやってたら、両方ダメになりそうだったんで、バーチャルの世界は休業中。そんで、さっきの二人はヨネのファン」
「あまり、そういった業界に詳しくないのだけど……ファンだったらアイドルに何をしても許されるなんてこと、絶対ないと思う。あと、あなたも、有名人の自覚があるのなら、軽率に一人になるべきではなかったんじゃない」
「
リノリウムの床を蹴り、腰掛けたオフィスチェアをくるくる回す
「ま、正論スね。いわくつきの学校に潜入できて、浮かれてたのは認めるっス」
「いわくって……評判じゃなく?」
「国立
怪談師の物真似で声の調子を変えた
「ネットの掲示板とかでは、かなり前からある噂なんスよ。で、情報通なヨネちゃんは、この噂の真相を確かめるべく、頑張りに頑張って入学したってワケ」
「私は、聞いたことないけど。その噂って、手がかりとか、証拠はあるの」
「んにゃ。ただの勘」
断言した
「あなた、思い切ったことするのね」
「よく言われるっス!」
氷がほとんど溶けた布袋をアルミのバットへ
「ええと、つまり。
「そ。
両膝に挟まれたクッションへ掌をついた
「泣き寝入りはしないっスよ。間違っても二度目がないように、キッチリお仕置きしてやんなきゃ気が済まねえや」
「警視総監様に、直電で言いつけちゃうもんね」
通話相手の応答を待つ間に、瞳孔がヘーゼルカラーで縁取られたアーモンドアイが、器用に左側だけ閉じられる。
「あ、もしもしパパ? うん、うん、ヨネもお
事の
「これは、ぼくたちも
――――――
夕暮れが沈み、薄雲で天上が明るく感じられる午後七時。
「正式に許可を貰ってから探す、っていう案はないの? 今日は門限も近いし」
「だからこそ! 他の生徒に見つからずに、じっくり物色できるんスよ。それに、馬鹿正直にアポ取ってたら、絶対お目当ての品が隠されちゃうっス」
「確かな証拠もないのに、
「あ、ヨネのことは呼び捨てでもいいっスよ」
――これは、彼女の気が済むまで、路線変更は出来なさそう。
先に帰ることも許されず、
息を潜めて足音を殺し、動かした物を完璧に復元していっても、ひとたび部屋の電気を付けてしまえば、窓の外へ居場所を宣言することと同じだ。新旧二台の端末から放たれる光は、家具やインテリアの輪郭をおぼろげに浮かび上がらせている。
――第二次世界大戦から隠され続けている秘密、ね。単なる「学校の七不思議」だとは思うけど。
南側の引き戸から入って右手側にある、
向かい合った二つの長机とソファの向こう側、方角では北側に位置する壁際には、過去の卒業アルバムがずらりと並んだ棚が右手にある。左側には、入学式における人員配置の見取り図が書き残されたホワイトボードや、千枚単位で箱に詰められたコピー用紙が足元に山積する、整頓された部屋の中では比較的雑多な印象を受ける一群があった。
事務作業の痕跡から
「首席卒業者だけが袖を通せる、
スマートフォンを
「かっこいいっスよねぇ。うちの学校、平成終盤に制服を一新する案もあったらしいんスけど、トンビコートが合う洋服は
「まるで、恋する乙女みたいな顔をするのね。
「んー……。物に
だから、着たいっていうんじゃなくて、もっと知りたいとか、
「隣は……予算案、要望書、ボランティア活動一覧。ファイルの背表紙を見る限りでは、普通の棚みたいっスね。こっちも鍵かかってら」
「そうなると、他に隠し物ができそうな所は……」
西側に面した会長用の机には引き出しが付いていたが、それらも
「なんつーか、この部屋、ちょっと違和感あるんスよね」
次の可能性を探す
「ほら、ここって三階スけど、一階の保健室と同じ位置にあるじゃないっスか。それにしては、保健室よりも微妙に狭い気がして……」
暗いからそう見えるだけかなあ、と後頭部をかく
――――――
「あった……」
予測していた以上に物が積み重なっていた部屋の北西地点から、二人で少しずつ山を切り崩した先には、一枚の扉が
「すっ、げー!
「いよいよ怒られそうで、後が怖いけど」
その場で足踏みをして喜びを
到達した未知の世界は、棚、棚、棚で四方が天井まで埋め尽くされていた。窓があるはずの西側の壁も隙間なく戸棚が敷き詰められており、内側からは目視できない。入室の瞬間までは賑やかだった
――卒業生の、何を、ここで管理しているの?
部屋はほとんど汚れておらず、棚の段差にも埃が
――誰かが、
「すぐここを出て、早く!」
「……かあ、さん?」
白枠の中で微笑む少女は、首席卒業者の証であるトンビコートを羽織っている。背景は、カーテンが
――
二度と会えない両親のうち、
――でも、この少女の名前が仮に「
「
手持ちのカードでは答えが出ない思考の泥沼に
「あの、大丈夫スか? 気分でも悪い?」
「……ごめんなさい、平気よ」
居場所のない写真をアルバムに挟み、収納できる手ごろな隙間を探す。すると、
――――――
障害物を移動させる前に撮影しておいた写真を頼りに、急いで隠し部屋を封じ込めた二人の
「つ、疲れたぁ……」
革張りの四人掛けのソファにうつ
――
けど、何かが意図的に隠されている気がするのは、きっと勘違いじゃない。
「何アレ。絶対、ぜーったい面白いじゃないっスか!」
暗闇に慣れた
「隠し部屋ってだけでワクワクしてたっスけど、あんないかにも怪しいですって内装、そうそう拝めるもんじゃないっスよ! アルファベットが書かれた資料もあったけど、どうも英語じゃなさそうだったし。そもそも、何のために集めてんのかってのも調べたすぎる! ね、ね、再チャレンジしたいんスけど、明日はさすがにダメ?」
食堂で探検に誘ってきた時以上に輝く瞳で迫る
「ちょっと! 今日みたいなのはもうダメ、危ないわ」
「でも、先生とかの監視付きじゃ、さっきの部屋は入れないっスよね」
学校が隠そうとしているものの解明を、教師が容認してくれるとは思えない。そう話す
――私も、あの写真の子について調べたいけど。
自由に部屋へ出入りができて、かつ、怪しまれない立場でなければ、あの膨大な量の調査を
「……あくまで、可能性の話だけど。
――
「新学期初日から
「門限はとっくに過ぎているぞ。名前と学年、それからクラス、を……」
手持ちのライトを暗くしながら歩み寄ってきた彼は、
「君は、彼女に巻き込まれたのか?」
「……最初は、まあ、そうですね」
男子生徒からなされた質問に、頭の上に疑問符を浮かべたままの
「あのな、ヨネ。そんなに俺を
「お
「今日はじゃなくて、今日も、の間違いだろ……」
腰に手をあてて項垂れた会長が
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