鳥籠の学び舎

翠雪

プロローグ - 門出

 少女が家を移るたびに減らされた荷物は、開発時には一泊の旅程を想定されたキャリーケースにも、余裕をもって収まった。黒の詰襟へプリーツスカートを組み合わせられた中古の制服は、今日から彼女が通うこととなる、全寮制のエリート養成学校──国立鸞翔高等学校の卒業生によって、巣立ちと同時に母校へ寄付されたものだ。志願倍率は毎年三十倍を優に越す、熾烈を極めた受験戦争を勝ち抜いて得た門出を記念する新品は、彼女自身が自由にできる僅かな預金で買った学生鞄と、踵の高い黒革のローファーのみ。腰まで届く長い黒髪を高い位置で括った上で蝶々結びをされた赤いリボンは、飛鳥が六歳の誕生日に、父母が初めて買ってくれたホールのショートケーキの箱へ結ばれていたものだ。

 右肩へ鞄を担いだ少女は、七時を過ぎてから起き出した同居人の誰とも言葉を交わさないまま、彼女を透明人間として扱い続けた親戚の家を立ち去る。令和十六年四月三日、気象予報士が予言する天気予報では、東京は一日中曇り空のはずだった。


「入学おめでとうございます!」

「立ち止まらず、右手にある受付へ進んでください」

「式に参加される保護者の方は、こちらにご記名を」

「すみませーん、撮影は通行の妨げとならないようにお願いしまーす」

 青梅駅から八王子駅まで電車に揺られること五十分。学校の所在地へピンを立てた型落ちスマートフォンの地図アプリを片手に、徒歩で追加の二十分。足して一時間と十分を費やした飛鳥が辿り着いた通学先、兼、新居の入口は、真新しい制服に身を包んだ同級生の群れと、我が子と同様におろしたてのスーツでカメラを構える保護者たちでごった返している。「第百四十八回」と履歴を明記された立て看板の脇には、満面の笑みをたたえた見知らぬ一家が、デジタル式の一眼レフカメラのシャッターボタンを押していた。

――ここに、母さんも通ったんだ。

 じわりと込み上げてきた郷愁に、少女は三秒間だけ目を閉じる。瞼の裏に浮かんだのは、中学校の入学式の前日、交通事故に遭うなど夢にも思わなかった朝にも優しく頭を撫でてくれた両親と、彼らが事実婚であったというだけで父母と自分を蔑み続けた親戚たちの歪んだ顔だった。愛おしさと悲しみに怒りが混ざった胸の熱さが、飛鳥に校門をくぐらせる。学生鞄の持ち手を握りしめた彼女の掌には、ポリエステルの凹凸を写しとった浅い網模様ができていた。

「入学おめでとう。寮へ送る荷物は?」

「これだけです」

 受付で新入生の受験番号と名前を照合する係を任されていたのは、ハーフリムの眼鏡をかけた在校生だった。受付係の襟元には、横を向いた鳥の瞳へ濃紺の石が嵌め込まれた衿章が飾られており、手続きを行う彼が三年生であることを示している。飛鳥の詰襟にも同様に固定されている校章バッチは、鳳凰の一種でもある、霊鳥の「鸞」を元に考案されたものだ。現在の二年生は芥子、一年生は臙脂と定められている学年色は、入学してから卒業するまで変わることはない。

「寮の部屋割りは、説明会の後に貼り出される予定だ。女子は烏寮で確認してくれ」

 キャリーケースと交換された紅白の胸飾りを、安全ピンで左胸の生地に固定する。使い捨ての装飾と一緒に渡された不織布のトートバッグには、三センチの厚みがあるシラバスが詰め込まれている。芥子色もちらほらと見える手持ち看板の案内に従って大講堂へと移動すると、マスメディアの撮影用に潰された入り口近くの座席以外は、既に半分以上が埋まっていた。左右の端や後方でもステージが見えやすいように角度と段差をつけて設計された一階には新入生が、同じく大劇場さながらな設備である二階席には、彼らの保護者が誘導されている。

 前の列が全て埋まり、ちょうど折り返すタイミングで入室した飛鳥は、左端の椅子へ腰を下ろした。クッションが内蔵された折り畳み式の腰掛けは、長らく足が遠のいた映画館の座席を彼女に思い出させる。

──椅子へ直に座っても、前の座席の背もたれしか見えなくて。両腕をシートベルト代わりにする父さんの膝の上が定位置だったのは、何歳までのことだったか。

 鸞翔高校に在籍する間の全学費が免除される特待生は、入学試験で首席合格、かつ在学中の成績も常に学年上位であり続けることが条件だ。そのたった一枠を意地と努力で勝ち取ったのが、つい先々月のこと。

──ようやく。私が、私の時間を取り戻す番が来た。

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