第2話 夜の最中に

 暗がりの「海」に沈んだ旧校舎の一室。

 世界が息継ぎを忘れたような、しんとした空間。

 静寂の中、二人は目を合わせる。


 彼が開けたのか——窓から風がそよぐ。

 初夏の生ぬるい空気に、澪の心に黒々としたモノが蟠る。

 高い湿度のせいか。人肌のようなぬくもりに、息苦しいと感じる。

 彼女の髪先が、肩のあたりで踊っている。普段なら鬱陶しいと耳にかけるのにも関わらずそうしなかったのは、自分の感覚が鈍磨するほど、彼に釘付けになっていたからだ。


 淡い月明かりが、彼というカタチを映し出す。

 死後の装束のように真っ白な学生服は、噂で聞いたポーカーそのもので——。


 ——「綺麗」だと思った。


 ただの月光で、これほどはっきり姿が見えるものなのだろうか。闇に映えるものだろうか。


 眉目秀麗という意味の「綺麗」ではない。


 真っ黒な世界から、ぽっかりと白いヒトガタが浮き出ている。

 その異質さが、「綺麗」という感覚を抱かせた。

 それはまるで、夜空に浮かぶ星のようで——。


「おーい、目ぇ開けたまんま寝てんのか?」


 青年の茶色い瞳が、澪を覗き込む。


「……起きてますけど」


 咄嗟に、敬語で答える。

 それを聞いた青年は、口元を綻ばせ問いかける。


「じゃあ聞いてもいいな。お前さんが、藤川澪で合ってるか?」

「そうですが」

「そっかそっか。なら話が早い」


 男は、笑顔を作り直して——こう続けた。


「俺はポーカー――なぎ。お前さんを、守りに来たんだ」


 その言葉に、澪は呆気にとられていた。


「まも……る?」


 彼の口から飛んできたのは、あまりに突拍子のない――少女漫画に出てくる男の子が言うような、キザそのものの台詞。

 その言葉、そしてそれを言われたという事実がなんとも現実離れしていて、脳が理解を拒絶する。

 

 守られる謂れなんてないのに。


「こーんな顔立ちの良い男に『守りに来た』だなんて、滅多に言われないぜ? ってのに、どうしてそんな疑り深い顔してんだよ」

「信じられるわけないでしょ。そもそも普通に事案ですし。通報しますよ?」

「ああ待て待て! 由緒正しいポーカーが警察のお世話とか、前代未聞だっての!」


 携帯を掲げる澪を、なぎは慌てて制止する。


「分かった、出血大サービスだ! その文明機器を下ろしてくれたら、俺のこと全部教えてやる!」

「興味ないです」

「冷たいなぁ。今時のヤツってこんななのか?」


 つまらまさそうに、なぎは溜息をつく。

 黒々とした夜空を見ながら、


「昔はそんなキャラじゃなかったんだろ?」


 そう、吐き出す。

 だが、その言葉に——「昔は」という文言に、歯車がキリキリと軋むような違和感を覚える。


「……昔って何ですか? 会った覚えなんてないんですけど」

「おおっ、やっとこさ食いついた」


 なぎは、してやったりな笑顔を向けている。


「気になるだろ? 気になるよな?」

「早く話してください」


 澪の言葉に、小さな棘が生えていく。

 得意げに焦らす様が、どうにも鬱陶しい。


 なぎは一呼吸置き、口を開く。

 手品の種明かしをするように、得意げな笑みを浮かべて。


「お前さん、深月みづきなぎさを知ってるだろ? 俺は、そいつの『願い』から生まれたんだ」


 なぎがそう言い終えると、再び静寂が包み込む。

 何も言わず、他人事のように次の言葉を待っている澪に、なぎは困惑の面持ちで問う。


「……あ、あれ? 反応なし? 俺、めちゃくちゃ重要なこと言ったんだけど?」

「まぁ、何一つ分かんないですし」

「分かんない?」


 澪はおずおずと頷き、尋ねる。


「そもそも、深月渚って……誰です?」


 ――その言葉に、なぎは明らかに衝撃を受けた。

 顔は強張り、両目は大きく見開かれ、終いには「えっ」と声を漏らす始末。


「事前情報だと、渚とお前さんは仲が良かったって話だったんだが」


 確かめるように、なぎは告げる。先程までの余裕は、すっかり消えていた。


「だから知らないです」


 澪は、眉を寄せる。

 見ず知らずの人と仲が良いと言われて、「はいそうですか」と流せるはずもない。


 じっとりと蒸し暑い、夏の空気が。

 光のない、夜のセカイが。

 得体のしれない、眼前の青年が。


 黒くカタチのない蟠りを、一層大きくさせる。


「というか。どこ情報ですか、それ」

「渚のネットワークだな。言わば、御本人様の記憶から引っ張ってきた情報ってわけだ」

「は、はぁ」


 理解の追いつかない澪だったが、それはなぎも同じらしい。


「ネットワークの障害か? それとも、こいつが本当に忘れてるだけ……?」


 ぶつぶつと呟くなぎだったが、やがて手を叩き、あっけらかんと笑う。


「まあいいや、お前さんを守ればいいってだけの話だしな」


 彼の口から何度も出る、「守る」という言葉。

 それは、彼女の持つ情報……噂と矛盾している。

  

「……食べないんですか」

「ん?」

「ポーカーなら、人を食べるんじゃないんですか」

「おおっ? やっぱ俺に興味津々じゃないか」

「いえ。興味があるのは貴方じゃなくてポーカーについてです」


 そう言うと、なぎは「つれないなぁ」と、口を尖らせる。


「安心しろ。人間なんぞマズくて食えるか」


 どうやら、噂は実際と異なるらしい。

 

「なんだなんだ? 気ぃ強そうに見えて、意外とビビりかぁ? こりゃ、守り甲斐もあるってもんだ」

「『守ってもらう』だなんて、一度も言ってないんですが」

「いいじゃないか。損はさせないからさ」


 腰に手を当て笑いかけるなぎ。


 不信感は拭えない。拭えるはずもない。

 髪を耳にかけ直した澪は、彼の煩わしい笑みを避けるように、視線を外へと向けた。

 

 下弦の半月だけが浮かぶ——何の不自由もないはずだった闇に、星がか細く息づいていて。

 星と呼べるかさえ怪しい、淡く白い光の存在に、彼女はようやく気がついた。




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夜更けの渚まで わた氏 @72Tsuriann

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