夜更けの渚まで

わた氏

第1話 日が落ちて

 噂があった。


 死んだような深い夜。

 誰もいないはずの闇の中に、彼らが現れる。


 ——その名を、ポーカーと言った。


 人の姿をしながら、人間離れした風貌の彼ら。

 草木を縫い、夜を迷わず駆ける人外。

 白い服を身に纏い、闇夜に浮かぶ星屑たち。


 そしてポーカーは、出会った人を食ってしまうのだという。




 ————


 太陽が西に傾き始め、金色の光が教室に差し込む午後三時四十五分。

 青い空に、銀色の雲が揺蕩う。雲は強い力で千切られたようにギザギザな形状で、その下部は金色に縁どられていた。


 六時限目が終わるまで、あと五分。

 生徒たちが放課後に向けて気持ちを浮足立たせ、教師がそれを制止せんと言わんばかりに板書を連ねる時間だ。

 一部の生徒は、もう教科書を整理し始めている。

 しかしそんなことなどお構いなしに、ふじかわみおはノートに向かっていた。

 濃い紫色の髪を耳にかけ、右手で持ったシャーペンを滑らせる。


 人ならざる人型のポーカー。

 白よりも純白な彼らを、ノートの隅に描いていたのだ。


 噂や都市伝説を基本信じない質の澪が、その与太話を描き起こしたのは、あまりに授業が退屈だったせいだ。


 白い服……白装束のことかな。


 そんなことを考えながら、ノートの罫線に逆らって和服を描いていく。


 少年少女だから、顔はこんな感じ……これじゃあ天使だ。

 ついでに輪っかもつけちゃえ。


 女の子の頭上に白い輪をつけたところで、チャイムが鳴った。




 終礼が終わると、次々と生徒が教室を出ていく。

 そんな彼らに見向きもせず、澪は荷物を片付けた。

 席に座ったまま、引き出しの中の教科書を鞄へ押し込む。

 ただし、持って帰るのは課題のある科目だけだ。

 明日までの課題がある科目を思い出しながら、教科書を選んでいく。


 雲が橙色に染まり、緑の葉が風に揺れた。


 廊下を歩く生徒の楽し気な声が、近づいては遠ざかる。

 まるで「波」のようだと、ふとそんなことを考えて……不意に手が止まる。


 どうして、手が止まったのだろう。

 思案したが、夏が近いからということにした。


 ——西日さす教室に、彼女だけが残っている。


 帰る準備を終えたものの、学校を出る気にはなれなかった。

 部活もなければ習い事もない。

 家に帰っても一人で、退屈だ。


 日が落ちて暗くなる前に帰れば良い。


「あそこ、いこうかな」


 彼女は徐に席を立ち、教室を後にした。




 廊下を、ゆったりとした足取りで歩いていく。

 目指すは旧校舎。

 新校舎の傍らにぽつんと立つ、小さな建物だ。

 授業以外で生徒や教師が訪れることは滅多になく、澪にとっては静かな憩いの場となっていた。


 地平線と雲が、淡く赤らんでいる。

 太陽は地へとゆっくり落ちていく。

 窓から差す斜陽に目を細くしながら、彼女は目的地へと歩を進める。


 やがて辿り着いたのは、旧校舎の隅にある小さな教室。

 扉と向かい合う窓の傍には、十セットほどの机と椅子が窓際に並べられていた。不要だと切り捨てられた備品が、埃をかぶって沈黙している。きっと、教室が使われなくなったその日から、時間が止まってしまったのだろう。


 部屋の中央にあるソファとテーブルは、澪が隣の元生徒会室から移動させたものだ。

 埃を払い、タオルで汚れを拭きとられたその二つだけが、時間の流れに乗っている。


 この部屋には、そもそも電気だって点かない。

 だから、自前で持ってくる必要があるわけで。

 ソファに腰かけ、鞄の底からランタンを出し、テーブルの上に置く。

 明かりを点けると、薄暗かった部屋がほのかに色づいた。


「あー……もうそろそろ駄目かなぁ」


 ランタン光量は明らかに弱い。自分自身の輪郭が、かろうじて分かる程度しかない。


「電池……替えなきゃなぁ」


 そう独り言ち、澪は茫然と視線を落とした。






 ■■■■


 ——何不自由ない生活を送っている。


 友達もいなければ、家族とも離れ一人暮らしをしている澪だったが、特段それらを強く求めたことはない。


 可も不可もない。とでも言うのが正しいか。

「これが良い」ではなく、「これで良い」の繰り返し。


 何一つ不満がない。

 そんな自分に何も感慨を抱けない。


 だから私は、オカシイと思う。

 だけど、そんな私を好きにも嫌いにもなれない。


 埃のように、空っぽで。

 雲のように、取り留めも無くて。

 影のように、カタチがない。


 それはまさに、置物の人形。

 だから、こんな場所にいるのが適当であるように思えて。


 自分の境界線も曖昧だから。

 これが夢だとも、最後まで気づかなかった。


 ■■■■


 




 目を覚ましたのは、夜の最中さなかだった。

 向かい合う天井は、暗いせいでそこにないような錯覚を受ける。


 ランタンの明かりは消えていた。スイッチを入れても、光は灯らない。

 どうやら電池が切れたようだ。


「はぁ……やっちゃった……」


 髪を掻きながら、溜息をつく。

 少し休むつもりが、ここまでぐっすり眠るとは。

 あまりにここが静かだったからか。


 家には帰れそうにない。

 このまま一晩明かすのが良いかな。


 そう思いながら、顔を上げると——。


「おはようさん。やっと気づいたな」


 白い学生服を着た、金髪の青年が笑っていた。











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