番外編第七話「第一王子フリードリッヒ」
統一暦一二一三年五月十五日。
グライフトゥルム王国中部王都シュヴェーレンブルク、王宮内。第一王子フリードリッヒ
今日は十年前、私がこの王都からグランツフート共和国に向けて出発した日だ。
王都を去ったのは母であるマルグリットがアラベラに殺され、更に私も殺される可能性があったためと聞いている。
しかし、その時のことはほとんど覚えていない。
覚えているのは母が殺された日に見た、アラベラの憎悪に満ちた目だけだ。
恐怖に震えたまま、三ヶ月間自分の部屋に篭っていたが、危険を感じた父である国王がグランツフート共和国に送り出したらしい。
共和国の首都ゲドゥルトに到着しても、私は半年ほど屋敷に篭っていた。
当時の私は八歳。目の前で母を殺され、精神に異常をきたしてもおかしくはない。いや、十八歳になった今でもアラベラのあの目を思い出し、震えが止まらない時がある。
そんな私が王都に戻ってきたのは父が命令したからだ。
私は戻りたくなかったが、父の命令を受けた王宮の役人が私のところにやってきた。
『王都に戻るようにとの陛下のお言葉がありました。我々が護衛いたしますので、馬車にお乗りください』
私は王都と聞き、アラベラの目を思い出し、即座に拒否した。
『嫌だ。ここにいる』
『国王陛下のご命令なのです。王子殿下といえども従わなければなりません』
そう言って私の腕を掴んだ。
『やめろ! あの女に殺される! 私は王都になんか戻りたくない!』
そう言って抵抗したが、同行していた近衛騎士に強引に引きずられて馬車に乗せられてしまった。
いつも私の傍にいる
三月の下旬に王都に戻ると、王宮にアラベラの姿はなかった。一ヶ月ほど前に王都の北にある離宮に移ったと聞いた。
そのことで安堵するが、すぐに更に恐ろしい者に出会ってしまった。
『ようやくお戻りになったようですね、兄上』
二歳年下の弟、アラベラの子であるグレゴリウスが私の前に現れたのだ。
最初は久しぶりに会ったなというだけで、特に警戒していなかった。
『私は次期国王の座を望んでいます。兄上はどうですか?』
その瞬間、私を見つめるグレゴリウスの冷たい目に震えが止まらなくなった。
私は声が出なくなり、逃げるようにして自室に戻り、寝台の陰で震えていることしかできなかった。
その翌日、父である国王フォルクマーク十世に謁見するように言われた。
言ってきたのはアラベラの弟、宮廷書記官長であるミヒャエル・フォン・マルクトホーフェン侯爵だった。
彼もグレゴリウスと同じような冷たい目で私を見つめ、侮蔑を含んだ声で命じてきた。
『陛下がお呼びです。すぐに陛下の執務室に向かってください』
行きたくなかったが、父の命令なら抵抗しても無駄だと諦め、ノロノロと執務室に向かった。
部屋に入ると、父が疲れたような表情で待っていた。
『二人だけで話をする。皆、下がれ』
『王宮を預かる宮廷書記官長として同席させていただきます』
マルクトホーフェンは図々しくそう言ったが、父は更に出ていくように言った。
『親子の話をするだけだ。そなたも下がれ』
それでもマルクトホーフェンは居残ろうとしたが、父が頑として認めないため、渋々という感じで出ていった。
この時、少しだけ父のことを見直した。
父は母を殺したアラベラを処刑せず、再び王宮に迎え入れた。それほどまでにマルクトホーフェンの権勢が強いのだが、父が最後まで抵抗したことに称賛する気持ちが沸いたのだ。
二人だけになると、父は近くに来るよう命じた。近づくと、父は私の目を見つめて話し始めた。
『そなたには申し訳ないと思っている。だが、そなたを守るためには仕方がなかったのだ……』
その言葉に反発しそうになるが、言っても仕方がないので静かに聞いていた。
『そなたは長男だ。そして十八歳になった。我が王家の慣例で言えば、そなたを王太子として立てねばならん』
王太子という言葉を聞き、即座に拒否した。
『やめてください! そんなことをすれば私は殺されてしまう!』
父は小さく首を横に振った。
『そなたの命を守るためなのだ』
その言葉の意味が全く理解できなかった。アラベラとマルクトホーフェンがグレゴリウスを国王にしたがっていることは知っている。そして、グレゴリウス本人も玉座を狙うと宣言した。私が次期国王となる王太子となれば命を狙われることは明らかだからだ。
『どういうことなんですか?』
『お前が王位継承権を放棄すると宣言したとしよう。その場合、そなたはどうするつもりだ?』
深く考えていなかったが、王都にいることだけは避けるつもりだった。
『王都から出るつもりです』
そのことを言うと、父は悲しげな表情になる。
『恐らくだが、どこに行こうとも、マルクトホーフェンとグレゴリウスはお前を殺そうとするはずだ。そなたが生きている限り、奴らの政敵の旗頭になりかねんからな。そして奴らは後顧の憂いを無くすために必ずお前を排除する。しかし、王位継承権を放棄すれば、
『殺される……』
『そうだ。それを防ぐためには王位継承権を保持しておかなければならん。更に言えば、王太子となっておけば、暗殺という手段を封じることができる』
意味が分からなかった。私が王太子となれば、グレゴリウスの最大の障害になるのだ。どのような手を使ってでも排除しようとするはずだ。
私の表情を見て、父は理由を説明する。
『大賢者が暗殺という手段を否定している。もし、お前やジークフリート、そして私が暗殺された場合、
確かにその方が安全な気がしてきた。
『それにマルクトホーフェンのやり方に反発している者は多い。それらの者がマルクトホーフェンやアラベラを打ち倒せば、今のような怯える生活から解放されるのだ』
『怯えなくてもよくなるということですか?』
『そうだ。それにお前が王位継承権を放棄すれば、その者たちが旗頭にするのはジークフリートになる。しかし、ジークフリートは第三王子だ。第二王子のグレゴリウスの方に正統性があると言われれば、マルクトホーフェンに敵対する者たちが立ち上がりにくくなるのだ。この状況を打破するためにもそなたが立太子される方がよい』
父の言うことが正しいように思えてきたが、グレゴリウスの目が忘れられない。
『ですが、グレゴリウスは諦めないのではありませんか?』
父もグレゴリウスのことを警戒しているのか、すぐに認めた。
『そうかもしれん。だが、余はグレゴリウスを王太子にするつもりはない。マルグリットを殺した女の子供に王位を渡すわけにはいかんのだ!』
父は憎しみを込めた目で宙を見つめている。
『私が王太子になった方が安全というのは何となく分かりました。ですが、すぐには答えられません』
『もちろん分かっておる。それに大賢者がいる時の方がよい。
父との話を終え、自室に戻ったが、考えはまとまらなかった。
そして、二ヶ月経った今も結論は出ていない。
幸い、大賢者の脅しが効いているためか、暗殺者に襲われることはなかった。しかし、日に日にグレゴリウスの評価が高まっており、このままでは父もグレゴリウスの立太子を認めざるを得なくなると思えた。
それでも決断できなかった。
王太子になれば後戻りはできない。あのグレゴリウスと対決するなど恐ろしくて考えたくもない。
結論を先送りにしていたが、本日大賢者マグダが王宮を訪れた。
父は宰相であるオットー・フォン・メンゲヴァイン侯爵と宮廷書記官長のマルクトホーフェン、王国騎士団長マンフレート・フォン・ホイジンガー伯爵らを集め、御前会議を開いた。
私とグレゴリウスも父の後ろに控えている。
大賢者マグダはひれ伏したくなるような威厳を纏い、父の前に座る。
「陛下より相談があると聞いておるが、どのようなことかの」
父は一度ゴクリと唾を飲み込んだ。
そして意を決したように表情を引き締める。
「次期国王となる王太子を定めようと考えている。大賢者の意見を聞きたいと思い、この場に来てもらった」
そこでマルクトホーフェンが口を挟む。
「陛下! そのような重大な案件を小職とすり合わせることなく、御前会議の場に出すことはおやめください!」
「王太子を定めるのは国王たる余の専権事項だ。無論、重臣たちの意見を聞かねばならんことは理解している。だからこそ、そなたらの意見を聞けるこの場で切り出したのだ」
父はこのタイミングを狙っていたようだ。
「儂は構わぬぞ。マルクトホーフェン侯爵よ、そなたにはなんぞ不都合があるのかの?」
大賢者の言葉にマルクトホーフェンは答えに詰まる。
「問題ないようじゃの。では陛下、どなたを王太子として指名されるのかの?」
父は気合を入れて話し始めた。
「第一王子であるフリードリッヒを王太子としたいと考えている。これに関し、大賢者の考えを聞かせてくれぬか」
私は父の言葉を聞き、ついにこの時が来たと暗澹たる思いになった。
「儂はよいと思う。フリードリッヒ殿下は第一王子であり、歳も十八になっておる。健康に不安はないし、これまで見た限り残虐さや姦淫さは持ち合わせておらぬ。質素倹約の点でも望ましい。陛下のお考えに儂は全面的に賛同……」
「お、お待ちください!」
そこで焦ったマルクトホーフェンが口を挟む。
「なんじゃ。儂が陛下と話しておるのじゃ。邪魔をするでない!」
大賢者が強い視線でマルクトホーフェンを睨む。私なら怯えて失禁するほどの強い視線だが、マルクトホーフェンは顔を引きつらせながらも反論する。
「フリードリッヒ殿下よりグレゴリウス殿下の方がふさわしいのではありませんか! 国政について真面目に学んでおられるのはグレゴリウス殿下です。その点を考慮いただければと……」
「確かにグレゴリウス殿下は有能じゃ。だが、フリードリッヒ殿下もこれから学べばよいだけじゃ。それにグレゴリウス殿下にはあの母親がおる。あの者が国政に口を出す危険を考えれば、陛下の判断は妥当と言えるじゃろう」
そこでグレゴリウスが反論する。
「大賢者様に申し上げます。私は母に口出しなどさせません」
「そうかの? あの者の暴走を止められなかったではないか。儂の警告が無視されたことは忘れておらぬぞ」
「確かにそうですが……今は何もできぬように離宮で謹慎しております」
そこでグレゴリウスは珍しく表情を歪ませていた。
「本当にそうなのかの? 儂が知る限りではいろいろとやっておるようじゃが?」
「直ちにやめさせます!」
「うむ。そうした方がよいの。じゃが、それとこれとは話は別じゃ。陛下のご下問に対し、儂の意見が変わることはない」
グレゴリウスは悔しげな表情を浮かべ、下を向いている。
その後、宰相や騎士団長からも賛成の意見が出され、私の立太子が決定した。
御前会議が終わった後、自室に戻ろうとしたが、その時、グレゴリウスと目が合った。
その目には今までになかった昏い炎が見え、私は思わず後ろずさる。
「兄上には譲りません。どのような手を使っても……」
私にだけ聞こえる声でそういうと、弟は踵を返して出ていった。
残された私は膝から崩れ落ちそうになり、テーブルに手を突いた。
(断ればよかった……私は必ずあいつに殺される……間違いなく……)
私は王太子になったことを強く後悔した。
絶望に包まれ、寝台に身を投げて嗚咽を漏らすことしかできなかった。
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