番外編第六話「義弟ディートリヒ・フォン・ラムザウアー」
統一暦一二一三年五月十五日。
グライフトゥルム王国南部エッフェンベルク伯爵領、領都内ラムザウアー男爵邸。ディートリヒ・フォン・ラムザウアー男爵
エッフェンベルク騎士団の演習を終え、五日ぶりに伯爵邸に隣接するラムザウアー家の屋敷に帰ってきた。
妻のナディーネが一歳になる長男アーデルベルトを抱いて出迎えてくれる。
「お帰りなさい。お疲れになったでしょう」
ナディーネは私より三歳年下の二十二歳。結婚して二年以上経ち、子供も一人生まれているが、まだ初々しさが残っている。
「それほどでもないさ。まあ、精神的には少し疲れているが」
騎士団の演習は伯爵領の南部、ヴァイスホルン山脈に近い平原で行われた。
その辺りには
精神的に疲れた理由は獣人族の扱いだ。
彼らはエッフェンベルク伯爵家に忠誠を誓ってくれているが、マティアスさんにより強い忠誠心を持っている。
私はエッフェンベルク伯爵家の次男であり、マティアスさんの義弟ということで、彼らに認められているだけだ。そのため、常に気を張っている必要がある。
「お疲れさまでした。夕食の準備は終わっていますから、お酒を飲まれてはいかがですか? ヘルマン様から届いたワインがございますよ」
「それは楽しみだな。では、先に汗を流してくる」
装備を外し、汗を軽く流した後、食堂に向かう。
食堂には妻の他に義父フレリクと義母ベリンダが待っていた。
「お待たせしました。義父上、義母上」
そう言いながら席に座る。
「今回の演習は大規模なものだったと聞いています。団長として大変だったのではありませんかな」
義父は未だに伯爵家の次男であった私に丁寧な言葉を使う。何度か変えてほしいと言っているのだが、変えてくれないので最近では諦めている。
「演習自体は計画通りに進めるだけでしたので、団長である私は大した苦労はなかったのですが、獣人族との交流で少し気を使いました。彼らの忠誠心は本物ですが、いつ彼らを率いることになるか分かりませんから、気を抜くわけにはいきませんので」
「確かにそうですな。お館様が招集をかければ、五千人は集まるでしょう。そうなれば騎士団を含めれば八千五百。それもただの寄せ集めではなく、一騎当千の戦士が多数おります。実力を考えれば、王国騎士団長以上の戦力を率いることになるのですからな」
「ええ。私もそうですが、ヘルマン殿も同じことで悩んでいます。まあ、向こうはラウシェンバッハ騎士団五千に加え、一万五千人の自警団員を率いる可能性がありますから、私より遥かに大変そうですが」
私なら尻込みしたくなる戦力だ。ヘルマンさんも気を使うといつも言っている。
「マティアス様が回復されれば、イリス様も加わるでしょうから、ヘルマン殿の負担も大きく減るのでしょうが、二万人もの獣人を率いるとなると胃が痛くなるでしょうな」
そう言って義父が頷いている。
「マティアス様のお身体はどうなのでしょうか?」
妻が聞いてきた。
「
「それはよかったですわ。お義姉様も不安でしたでしょうし」
そんな話をしながら、昔のことを思い出していた。
私がマティアスさんと初めて会ったのは十歳の冬のことだ。
兄と姉が王立学院の初等部に入り、マティアスさんと仲が良くなったが、最初の頃はいつもラウシェンバッハ家の屋敷に行っており、なかなか会う機会がなかった。
もっともうちの屋敷に来てもすぐに会えたかはあまり自信がない。その前年まで私は兄や姉と一緒に居た記憶があまりないからだ。
当時はなぜ一緒に居られないのか理由が分からなかったが、今は知っている。父が騎士団改革に躓き、家臣たちが期待する兄を廃嫡し、私を後継者にしようとしていたためらしい。
兄たちが学院に入った後、その状況が劇的に変わった。
父の騎士団改革が王国に認められ、本格的に改革が始まり、上手くいき始めたからだ。それで父と兄の関係がよくなり、私も兄たちと一緒にいることが多くなった。
初めて会った時の印象は優しそうな人だなというもので、剣術を嗜む兄や姉の友人というのが意外だった。
その後、話をするようになり、凄い人だなと思うようになった。
特にそう思い始めたのは私が初等部に入った頃、すなわち兄たちが高等部に入った頃だ。
もちろん、その前から勉強のできる人だと思っていたが、兄たちの話の内容がよく分かっていなかったから凄い人という印象まではなかった。
凄い人だなと最初に思ったのは受験の時だ。
初等部の入試問題は一問だけ非常に難しい問題がある。兄ですら部分点を取るのが精いっぱいだったのにマティアスさんは満点を取っていた。
私も一応首席で入学したが、次席の兄どころか第三席の姉の点数にも達していない。
学院に入った後はマティアスさんだけでなく、兄と姉の凄さも実感している。
三人の評判は王都中に広まっているほどで、“王都の三神童”と呼ばれるほどだった。そのお陰でとても苦労した。
一歳上のヘルマンさんは伯爵家の訓練に参加するため、よくうちに来ており、年齢が近いことからすぐに親しくなったが、兄たちのことで愚痴を言い合っていた。
『兄上と比較されるのは正直しんどいよ。ディートもそう思うだろ』
『ええ。僕なんか勉強だけじゃなく、剣術でも比較されるからもっと大変ですよ』
『そうだよな。僕たちも結構頑張っているんだけど比較対象が凄すぎるからなぁ……』
それでも初等部の頃はまだよかった。
高等部に入ると更に兄たちと比較されるようになり、それが大きな重圧になった。
しかし、いいこともあった。
それは騎士団改革の真の発案者マティアスさんから直接指導を受けていたこともあり、兵学部の授業や演習で困ることがほとんどなかったのだ。
『兄上に教えてもらっていてよかったと思うよ。騎士団の隊長や兵士にどう対応したらいいのか迷うことは少ないからね』
騎士階級の隊長や平民の兵士をどう扱うかで困惑している貴族出身の学生が多かったが、私もヘルマンさんも特に困ることはなかった。
『そうですね。ハルトさんと知り合えたこともよかったです。僕たちじゃ、平民の暮らしなんて想像もできませんでしたから』
『兄上に言われていたが、本当に役に立ったよ。それで更に兄上には敵わないと思ったけどね』
ハルトムートさんが兄たちの友人になり、エッフェンベルク伯爵邸によく来るようになった。最初のうちは少しギクシャクしていたが、マティアスさんが間に入ってくれたことと、剣術を指南してもらったことからすぐに仲良くなれている。
そのお陰もあって平民の兵士と上手く付き合え、私としては出来すぎの首席で卒業することができた。
エッフェンベルク伯爵家は兄ラザファムが首席、姉イリスが次席、私が首席と、王立学院の長い歴史でも一度もなかった偉業を成し遂げている。
統一暦一二〇五年十二月に学院を卒業し、翌年に王国騎士団に入団した。
残念なことに一二〇三年のヴェストエッケの戦いや一二〇五年のヴェヒターミュンデの戦いを経験することができなかった。
その後は大きな戦いがなく、実戦に出ることがなかった。
兄や姉、それに父のように、マティアスさんの神懸かった指揮や戦術を間近で見たかったと今でも思っている。
シュヴァーン河流域での後方撹乱戦術で活躍したヘルマンさんが羨ましく、そのことで彼に愚痴を言ったことがある。
『私も行きたかったですよ。まあ、私では役に立てなかったと思いますけど……』
『その気持ちは分かるよ。私も兄上の作戦に初めて本格的に参加したけど、想像していた以上に考えられていると思ったね。これほどの作戦を自分のミスで台無しにしたらどうしようかというプレッシャーはきつかったけどな』
『ヘルマンさんでも厳しかったんですか?』
『いや、作戦自体はギリギリの計画じゃないから問題はなかったし、あの兄上のことだから私がミスしてもいつでもフォローできるように考えていたと思う。それでも獣人族戦士たちの前で不甲斐ない姿は見せられない。“千里眼のマティアス”の弟として彼らの信頼を失うわけにはいかないからね』
その言葉で私も同じだと気づいた。
私も“氷雪烈火のラザファム”と“月光の剣姫のイリス”の弟であり、周囲からは高い水準が求められ、それを常に満足しないといけないためだ。
もちろん、それが必要であることは理解している。
私は名門エッフェンベルク騎士団の団長であり、伯爵領の代官だ。兄が不在の状態で領地を守り、騎士団を鍛え上げ、更に領地を発展させなくてはならないからだ。
それに近い将来、マルクトホーフェン侯爵との対決が待っている。
特に姉はマルクトホーフェン侯爵らを許す気はなく、兄が不在の今、私に期待していた。
『私はアラベラとマルクトホーフェン侯爵を絶対に許さない。彼を傷つけたことを後悔させてやるわ。その時のためにエッフェンベルク騎士団と獣人族戦士を掌握し、いつでも戦えるようにしておいてほしいの』
私も姉の言葉に否はない。
『私も同じ思いですよ。マティアスさんのこともそうですが、兄上を、主君であるエッフェンベルク伯爵を陥れた罪は必ず償ってもらうつもりです』
兄が辺境に追いやられたことで、私が兄に代わって伯爵家を継ぐべきだという者がいる。
しかし、私にその考えは全くない。兄を尊敬しているし、兄に代わることなどできないと思っているからだ。
『ヘルマンにも言っているけど、あなたたちがカギになるわ。よろしく頼むわね』
マティアスさんと姉が行動を起こすのは恐らく再来年だ。それまでに私はエッフェンベルク騎士団を鍛え上げ、獣人族から尊敬を勝ち取らなければならない。
難しいことは分かっている。だが、これは必ず成し遂げないといけない。
この国を守るため、家族を守るためには絶対に必要なことだから。
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