第87話「王家の怪物」
統一暦一二一三年二月二十日。
グライフトゥルム王国王都シュヴェーレンブルク、王宮内。国王フォルクマーク十世
余はまだ薄暗い中、寝台で目を覚ました。
今日は余の即位二十周年の記念日だ。まだ夜明けまでに間があるだろうが、王宮だけでなく王都中で式典の準備が行われているだろう。
しかし、余は二十周年という節目の時を祝う気になれない。
我が傍らには愛する者はなく、王位など継がねばよかったと思っているからだ。
マルグリットが殺されてから十年、よいことなど一つもなかった。
マルクトホーフェンの傀儡であることはよい。ここ数代の王は皆、五侯爵家のいずれかの傀儡であったのだから。
しかし、余ほどないがしろにされた王はいないだろう。
王としての権力はもちろん、国政に意見することも叶わぬ。
私生活では側室を迎えることすら、マルクトホーフェンに脅されてできない。
奴は余が側室を迎えれば、不幸な事態が再び起きると笑顔で脅してきたのだ。もっともこの状況で側室を迎える気はなかったから問題はない。
しかし、このことで分かったことがある。
アラベラの暴走が単独で暴走し、マルグリットが殺されたと思っていたが、弟であるミヒャエルもマルグリットを生かしておく気がなかったということだ。
「マルグリット……」
思わず涙が零れた。十年前ならこのような時に彼女が優しく慰めてくれただろう。
王としても人としても情けないとは思うが、心を許せる者がいないという事実がこれほど精神を痛めつけることだとは思っていなかった。
そんなことを考えていると、窓の外が少しずつ明るくなってきた。
夜が明けたところで侍従が起こしにきた。
「陛下、お時間でございます」
「気分が優れぬ……」
そう言ってみるが、この侍従はマルクトホーフェンが押し込んできた者で、そのような言い訳は聞く耳を持たない。
「まずは起きてください。その上でまだご気分が優れぬようでしたら、
「わ、分かった……」
渋々起き上がり、寝台から出る。
あとは言われるままに食事を摂り、着替えていく。
式典が始まる前、マルクトホーフェンとアラベラが現れた。
「ご準備は終わっているようですな」
いつもより飾りが派手な服を着たマルクトホーフェンが尊大な態度でそう言ってきた。
「間に合ったようでよかったわ。それでは参りましょう」
アラベラは青い光沢のある生地に銀糸がふんだんに使われたドレスを身に纏い、王妃の王冠を頭に乗せている。そのドレスは胸元が大きく開いており、下品な娼婦のように見えた。
「エスコートをお願いできますかしら。それとも私に触れることも嫌ですか?」
そう言って侮蔑したような表情で私を見る。
「母上、そのような物言いは陛下に失礼です。お控えください」
いつの間にか部屋に入っていたグレゴリウスが窘める。
グレゴリウスも十五歳になり、身長も余とさほど変わらない。また、鍛えているため胸板が厚く、軍服調の礼服がよく似合っている。
「あら、どの言い方が駄目なのかしら? 私は敬意をもってお願いしたのだけど」
ここ最近、アラベラとグレゴリウスの関係がおかしくなっている。
余にとってはよいことだ。
もっともアラベラの子供であるグレゴリウスを、余の子と認めてはいない。もちろん、心の中だけだが。
グレゴリウスは余に敬意を持っているようにふるまうが、その実はアラベラ以上に蔑んでいる。言葉や態度からは感じさせないように努力しているようだが、あの視線は明らかに余を侮蔑しているものだ。
「時間がありませんぞ。すぐに式典会場に向かわねば間に合いません」
マルクトホーフェンが急かすが、まだ余裕はあるはずだ。恐らくグレゴリウスの機嫌が悪いため、話題を変えたかったのだろう。
余はその言葉に頷くことなく、歩き始める。
アラベラが余に近づき、腕を絡めてきた。
その瞬間、蛇が巻き付いたような嫌悪感を覚え、鳥肌が立った。
思わず振り払おうと腕を動かすが、アラベラはニヤリと笑いながら離そうとしない。
「式典の間だけでも我慢してください。これが終われば、私は離宮に入り、陛下の前に姿を見せないようにしますから」
離宮は王都の北の森の中にある静かなところだ。以前は先代の国王である父が亡くなった後に母が住んでいたところだが、今は国賓を招待する時くらいしか使っていない。
その言葉に思わず顔を見てしまう。
「私がいない方がよいのでしょう? グレゴリウスも独り立ちしましたし、私がここに居ても誰も会いに来ません。それに何もすることもありませんから、静かなところで暮らしたいと思ったのですよ」
妙にしおらしく、胡散臭いと思ってしまう。しかし、この女の姿を見ることがなくなれば、余の心も少しは安らぐだろう。
「よいだろう。だが、大賢者の言葉を忘れるな。そなたが愚かなことを仕出かせば、グレゴリウスの王位継承を認めぬ。
「そのようなことは分かっていますわ。それに大賢者の言葉と言わず、ご自分が気に入らぬから認めないとおっしゃればいいのに。その程度の気概もないのですね」
その言葉に怒りが湧く。
「式典の前に余を苛立たせるな。それとも不機嫌な顔のまま式典に出た方がよいと考えておるのか? それならば、そなたの思い通りにしてやるぞ」
小声で警告するが、アラベラは意に介した様子がない。
「母上、そのくらいにしていただけませんか。それとも本気で私の王位継承権を失わせるおつもりですか」
グレゴリウスの冷たい声が響く。
「そ、そんなことはないわ……もうやらないから……」
グレゴリウスの底冷えのするような声に、アラベラは怯えたような表情を見せる。
「父上もよろしくお願いします。民に王家の威信を示す式典なのですから」
息子の言いたいことは分からないでもないが、余とグライフトゥルム王家に威信などない。
すべてそなたに流れる血、マルクトホーフェンの血がそうさせたのだと言いたいが、この息子が怒り狂ったら何をするのか分からない恐ろしさがあり、口に出すことはできない。
式典は計画通りに進み、午前中にパレードを行い、午後から園遊会が行われた。また、夕方からは晩餐会が行われた。
園遊会も晩餐会もマルクトホーフェンの息が掛かった者ばかりで楽しめるようなものではなかった。
すべての行事が終わったところで、ようやく解放された。
そう思ったのだが、余の私室にグレゴリウスが一人でやってきた。
「父上に、いえ、陛下にお話があります」
いつになく真剣な表情で思わず身構える。
「陛下と呼んだということは、国王に対してということだな。余に何の権力がないことはそなたも分かっておろう。その上でどのような話をしたいのだ?」
「母を始末しましょう。あの人は我が国に必ず災いをもたらします」
実母を殺すという提案に言葉が出ない。
「陛下は叔父のことを警戒されているようですが、叔父も必ず賛同してくれます。陛下と私を除けば、一番迷惑を掛けられているのは彼なのですから」
確かにアラベラを処罰しなかったのはマルクトホーフェンが反乱を起こし、私を殺すことを恐れたためだ。
「よいのか?」
そう聞くものの、引っかかるものがあり、認めるという言葉は出なかった。
「但し、私を王太子として認めるという条件が必要です。そうであれば、叔父も安心するでしょうから」
息子はまだ十五歳だが、恐ろしい提案をしてきた。
自らが王になるために実の母を殺すと言ってきたのだ。
「陛下が手を下す必要はございません。すべては私と叔父で行います。陛下は私の立太子だけを表明してくだされば、他に何もする必要はないのです」
マルグリットの仇が討てると思わず頷きそうになった。しかし、アラベラを殺した後、余がどうなるのかと考え、動きが止まる。
この冷酷な息子とあの狡猾な侯爵が余を生かしておくだろうか。アラベラの死を余の責任として、母の仇を討つと言って余を殺すのではないか。
そんな思いが頭に浮かび、小さく首を横に振った。
「そなたが手を汚す必要はない。そのような手段で王となることがよいこととは思えぬ。あのような者でもそなたの母なのだ。今の話は聞かなかったことにする」
「必ず後悔しますよ。あの時、私の提案を受けなかったと」
そう言うと、グレゴリウスは冷たい笑みを浮かべながら部屋を出ていった。
その後ろ姿に余は震えが止まらなかった。
余の息子が世界に害悪をまき散らす
余は寝台の潜り込み、嗚咽を漏らしながら震えることしかできなかった。
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