第74話「大賢者来訪」

 統一暦一二一一年九月三日。

 グライフトゥルム王国北部、ネーベルタール城内。ラザファム・フォン・エッフェンベルク伯爵


 ここ北の辺境ネーベルタール城に赴任してから五ヶ月ほど経った。

 赴任した四月の上旬はまだ雪が残っており、寒さに震えたが、夏には可憐な野草の花が咲き誇るなど、意外に過ごしやすい。


 私に同行したのは一人息子のフェリックスの他に、従者であるベテランの従士ノーマン・ショルツと彼の妻ネリーだけだ。ノーマンとネリーは四十歳くらいで、王都の屋敷で働いていたから、私は幼い頃からよく知っているし、フェリックスも懐いている。


 伯爵家の当主にしては従者が少ない。多くの者が同行を希望したが、辺境の地ということとマルクトホーフェン侯爵を刺激しないため、二人に絞ったのだ。当時はまだ妻シルヴィアのことで心が整理できておらず、できるだけ人と接したくなかったということもあるが。


 ここに来てよかったと思ったのはジークフリート殿下と出会えたことだ。

 殿下は王子とは思えないほど心優しい方だ。私が妻を失ったと知ると気遣ってくれた。また、自分と同じように母を失ったフェリックスにも心を配り、息子も懐き始めている。


 殿下とは剣術の修業の他に、士官学校の教本を使い、指揮官としての心得や戦略について教えている。


 殿下は切れるという感じの方ではないが、理解しようと常に努力される。その結果、着実に力を付けており、よき指導者になるのではないかと期待している。


 唯一の不満は野心が少なすぎることだ。

 二人の兄がいるから玉座に就く可能性が低いことは事実だが、心が弱いと言われているフリードリッヒ殿下や、アラベラとマルクトホーフェン侯爵の影響を強く受けるグレゴリウス殿下より、多くの者が王として望ましいと思うはずだ。


 もっとも玉座を巡って兄弟で争うより、平穏な人生を送ることができるだろうから、そういう選択肢もあるとは思っている。


 しかし、二人の王子はともかく、あのアラベラがライバルになり得るジークフリート殿下をこのまま放置するとは思えない。


 今のところ、ここネーベルタール城に隠棲しているとは気づかれていないから、暗殺者は送り込まれていないが、マティアスがしつこく狙われていることを考えると安心はできない。


 マティアスは大賢者様の治療によって何とか助かったが、健康を大きく損なったため、総参謀長を辞任し、叡智の守護者ヴァイスヴァッヘの塔で療養することになったと、イリスからの手紙で知った。


 王都からマティアスがいなくなると、アラベラとマルクトホーフェン侯爵を野放しにすることになる。マルクトホーフェン侯爵はともかく、アラベラが自由に行動できるということに強い危機感を抱いている。


 ここには私が知る限り、闇の監視者シャッテンヴァッヘ陰供シャッテンが五名いる。


 それに加え、護衛のアレクサンダー・ハルフォーフと私の指揮下にある城の守備兵約五十名がいる。しかし、この城の兵士は近隣の農村や漁村の次男や三男であり、盗賊や比較的弱い魔獣ウンティーアを相手にできる程度で、とても精鋭とは言えない。


 今のところジークフリート殿下の存在が明らかになっていないから、暗殺者が送り込まれてくる可能性は低いが、マティアスの護衛の目を掻い潜ったことを考えると、不安が残る。

 これについては陰供シャッテンのリーダー、ヒルデガルドに増員を提案している。


 アレクサンダーは常に殿下の傍で護衛に徹している。

 何度か手合わせをしたことがあるが、四元流の皆伝である私でも全く手も足も出ない。


 私より一歳年上なだけだが、実力的にはグランツフート共和国軍のケンプフェルト元帥に匹敵するだろう。


 戦い方が元帥に似ていると思い聞いてみたら、十代半ばの頃、王国軍改革の際に王国を訪れたケンプフェルト元帥に憧れ、共和国まで押しかけて弟子にしてもらったらしい。


 僅か二十歳で四元流の極伝を許された武術の天才で、更に槍使いとしても神狼流という流派の極伝になっていると聞いている。


 そんなアレクサンダーがここにいる理由は大賢者様にスカウトされたからだ。

 彼は一二〇五年のヴェヒターミュンデの戦いで功績を挙げて騎士爵に叙任され、第一騎士団の近衛騎士になったが、同僚たちとそりが合わず、武者修行の旅に出た。


 その修行先で大賢者様と出会い、ジークフリート殿下の護衛となったそうだ。

 彼がいれば“ナハト”の暗殺者が来ても対処できると思うが、マティアスに対して行われたような搦め手に対しては不安が残る。


 それでもこの状況に、私は失っていた気力が満ちてきている気がしている。

 不謹慎なことだが、ジークフリート殿下をお守りするという使命を果たさねばならないという思いが、妻を失い生きる気力を失っていた私に目的を与えてくれたのだ。


 今は守り役のシュテファン・フォン・カウフフェルト男爵とヒルデガルドの三人で、暗殺に対する防衛策と万が一の際の脱出方法を検討しているところだ。


 まだ完璧とは言い難いが、シャッテンの増員が叶えば、真実の番人ヴァールヴェヒターの暗殺者なら十分に対応できるし、“ナハト”の暗殺者が十人ほど来ても、殿下を逃がすことはできると思っている。


 本日、珍しい方がこの寂れた城を訪れた。

 大賢者マグダ様だ。

 シュテファン殿に聞くと、大賢者様は定期的にここを訪れ、ジークフリート殿下に会っているらしい。


 大賢者様が第三王子である殿下に何の用があるのかは分からないそうだが、マティアスが殿下のことを気に掛けていたことと合わせて考えると、私たちが知らない理由があるのだろう。


 大賢者様は城の南にある船着き場に到着した小さな漁船から姿を見せられた。

 私はシュテファン殿と従士のノーマン・ショルツと共に出迎える。


「元気そうで何よりじゃ。少しは落ち着いたかの」


 私に慈愛に満ちた声を掛けてくれた。


「以前よりは落ち着きました。この環境がよかったようです」


「それは重畳。では、ジークフリード王子に会わせてくれるかの」


 大賢者様は供も連れずに船着き場から城に向かう。

 階段を上りながら、大賢者様が話し掛けてこられた。


「王子がやる気になっておると聞いた。そなたのお陰だそうじゃな」


「いいえ。私は特に何もしていません。逆に殿下に慰めていただき、助けられたと思っております」


「いずれにせよ、二人とも前向きになったことはよいことじゃ」


 そうおっしゃると声を上げて笑われた。


 城の中に入ると、すぐに殿下の部屋に向かう。


「そなたも来てほしい。その方があの者も心安らかになるじゃろうからの」


 そう言われるが、どのような意味か分からない。

 それでも何も言わずに部屋に入ると、陰供のヒルデガルドが片膝を突いて出迎える。


「王子と話はできるかの」


「殿下はお会いしたくないと……」


「うむ。では出直すとするかの。また、夕方に顔を見せると伝えてくれぬか」


「はい。そのようにお伝えします」


 ヒルデガルドの顔に失望に似た表情が浮かんだ。シャッテンである彼女が感情を見せることは珍しく、何があるのだろうと気になる。


「そなたと話をしたいが、時間はあるかの」


「もちろんです。この城で私がする仕事などほとんどありませんので」


 雰囲気を変えるために軽口を叩く。


 私の執務室に入り、ソファに座ると、ノーマンの妻のネリーが茶を用意してくれた。

 彼女が出ていくと、大賢者様がゆっくりとした口調で話し始めた。


「ジークフリード王子は儂を憎んでおるのじゃ」


「大賢者様を憎む? なぜでしょうか?」


 母であるマルグリット殿下を殺したアラベラを憎むことは理解できるが、大賢者様を憎む理由が分からない。


「あの者はマルグリット王妃が殺されたのは儂が認めたからじゃと思い込んでおる。儂が叡智の守護者ヴァイスヴァッヘの創設者であり、闇の監視者シャッテンヴァッヘの元締めだと聞いたようじゃの。それに初代国王フォルクマークの建国を手伝ったことも知っておった。あの物語に出てくる“助言者ベラーター”は何度もフォルクマークを助けておる。だからアラベラを止めることができたはずじゃと思っておるらしい」


 確かに大賢者様は神に匹敵する力を持ち、悪の魔導師オルクスによって世界が滅ぼされるのを防いだという伝説を持っておられる。

 また、英雄譚では必ずと言っていいほど登場し、その超人的な能力で主人公を助けていた。


「しかし、大賢者様には何の関わりもないことではありませんか? あの時、イリスが現場にいましたが、誰もがアラベラ本人が暗殺を行うなど思ってもいませんでした。現場にいらっしゃらない大賢者様がそれを防ぐことなど不可能です」


 私の言葉に大賢者様は寂しそうな表情を浮かべられた。


「そうなのじゃがの……アラベラが暗殺者を雇ったことは知っておった。毒を使うことも分かっておったし、それを防ぐことも命じておる。警備体制は完璧だと思っておったのじゃが……結果としてマルグリット王妃を失ったことは事実じゃ。目の前で愛する母を殺されれば、恨みたくなる気持ちも分かるのでの……」


 弱々しく話されるが、おかしいと思った。


「大賢者様が非難される話ではないと思います。私が殿下にそのことを説明してきます」


 私が出ていこうとすると、大賢者様は止めた。


「よいのじゃ」


「しかし……」


 私が言い募ろうとすると、それを遮って話される。


「あの者の心を壊さぬためには目に見える憎悪の対象がおった方がよい。見えぬ相手を憎悪すれば、心に闇ができるからの。その点、目の前におれば怒りをぶつけることができる。溜め込んで心が荒むよりマシじゃから、無理に誤解を解く気はないのじゃ」


 間違っていると思うが、的確な反論ができない。こんな時、マティアスがいてくれたらと思うが、彼はここにいない。


 大賢者様に掛ける言葉が見つからないまま、沈黙するしかなかった。

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