第72話「帝国の状況」

 統一暦一二一一年八月十二日。

 グライフトゥルム王国王都シュヴェーレンブルク、ラウシェンバッハ子爵邸。マティアス・フォン・ラウシェンバッハ


 大賢者マグダによる治療により、私は一命を取りとめた。

 熱は下がり、腕や背中に広がっていた内出血もきれいに消えている。

 まだ倦怠感はあるが、食欲も徐々に戻っており、ベッドから起き上がれるほどに回復している。


 しかし、赤死病と今回の病気による寝たきり生活のため、体重は激減し、筋力も大きく低下している。今では一人で歩くことすら難しく、完全に回復するには年オーダーの時間が掛かりそうな感じだ。


 大賢者の提案通り、魔導師の塔“叡智の守護者ヴァイスヴァッヘ”のあるグライフトゥルム市に行って療養生活に入る予定だが、この体力では馬車の旅に耐えられないため、早くても十月頃にしか出発できないだろう。


 この状況では国政や軍務に携わることは不可能であるため、八月に入ったところで総参謀長を辞任した。

 後任には作戦部長であるヴィンフリート・フォン・グライナー男爵を指名した。


 グライナー男爵は素直な性格のため謀略を苦手とするが、緻密な作業を得意としており、私が作った長期戦略計画書に従って王国軍改革を進めていくには適任だ。


 先日見舞いに来た際には、後任に指名されたことを困惑していた。


『私がマティアス殿の後任と聞いた時には驚いて飛び上がりましたよ。作戦部長でも荷が重いのに王国の戦略を考えるなんて無理です』


『ヴィンフリート殿なら大丈夫ですよ。それに謀略はともかく、我が国に対して軍事行動が行われるのは少なくとも三年以上先です。その間に計画に従って防衛体制を整えるだけですから』


 昨年末から今年に掛けて世界中を席捲した疫病、赤死病は各国に多大な被害を与えている。


 レヒト法国では死者三十万人以上という情報があるが、四つの教会領の連合体という特殊な統治体制であるため、法王庁ですら正確な情報を得ていないほど混乱している。


 特に商業が盛んな西方教会領と南方教会領では船乗りを通じて疫病が広がり、他の教会領より大きな被害を出している。商業活動は徐々に回復しているが、戦争を行うための資金を確保できるほどには回復していない。


 ゾルダート帝国は更に被害が大きく、死者は四十万人に達し、帝都ヘルシャーホルストでは五万人が命を落とした。帝国軍にも多くの死者が出ており、皇都を失ったリヒトロット皇国への侵攻はあるとしても、シュヴァーン河という天然の要害を擁する我が国に早期に侵攻してくる可能性は低い。


 その帝国に関する情報を持ったライナルト・モーリスが屋敷を訪れた。

 彼は私の求めに応じて帝都を訪問し、皇帝を始めとした帝国の指導者たちと顔を合わせている。


「お身体の方は大丈夫なのですか? ずいぶんやつれておいでですが」


 ライナルトは不安そうな顔をしている。


「まだ力は入りませんが、これでも少しずつ良くなっているんですよ。大賢者様からも療養に専念すれば完治すると聞いていますから心配は無用です。ところでモーリス商会の帝都支店は大丈夫でしたか? ネーアーさんは罹らなかったとは聞いていたのですが」


 支店長のヨルグ・ネーアーは無事だと聞いていたが、帝都が酷いことになっているので気になったのだ。


「帝都全体と比べると被害は少ないと言えるのですが、従業員の家族に犠牲者が出ております」


「そうですか……」


「ですが、マティアス様に教えていただいた対処方法で助かったと皆感謝しております。特にうちの支店は人通りの多いところにある割には、驚くほど犠牲者が少なかったですので」


 教えたといっても手洗いとうがい、接触を減らすことくらいで、有効な方法とは言えない。

 ライナルトは話題を変えるため、帝都の状況を話し始めた。


「その帝都ですが、酷い状況でした。帝都の商業地区は開いている店も少なく、職人街もひと気がありませんでした。まだ立ち直ったとは言えないと感じました。帝国軍の駐屯地も訪問しましたが、こちらも閑散としていました。話を聞くと、疫病で自暴自棄になった者が野盗化し、地方の治安が大きく悪化しているそうです。その治安回復のために軍が派遣されたと聞きました……」


 帝国で被害が大きかったのは帝都とザフィーア河流域だ。帝都は早期に治安が回復したが、ザフィーア河流域では疫病の拡散を防ぐために移動が制限された。元々ザフィーア河流域は帝都と中部域を結ぶ水運で経済が回っており、移動制限によって収入を断たれる者が続出した。


 家族を失って失意に沈んでいる中、収入まで断たれ、経済的にも困窮した。帝都から適切な支援があればよかったのだが、内務尚書のヴァルデマール・シュテヒェルトが病死し、政治的にも停滞したため、絶望した者が続出したらしい。


「……内務府も酷い状況でした。シュテヒェルト内務尚書は優秀な方でしたが、後任の尚書は無能とは言いませんが、この混乱期を何とかできるほどの人物ではなかったようです。私も話をしましたが、融資を頼むというだけで、政策をどうするのかという私の問いにまともに答えられなかったのです。皇帝とも話をしましたが、内務府の話をすると人材不足を認めたほどです」


「皇帝の様子はどうでしたか?」


「疲れたような感じはなかったですね。以前と同じ自信に満ちた感じは変わっていませんでした。私に弱みを見せたくなかったとしても、余裕があるように見せた胆力はなかなかのものです」


「実際には余裕がないとライナルトさんは見たわけですか」


「はい。帝都の状況が悲惨である中、我が商会からの融資がどうしても必要だったのでしょう。私が融資を引き揚げる可能性を示唆すると、一瞬だけ笑みが引きつっていました。実際、我が商会以外に帝国に融資できるところはないですから」


 商都ヴィントムントも疫病で大きな被害を出したが、それ以上に経済活動が滞ったことの影響が大きかった。


 この世界でも為替による決済が行われており、資金に余裕のない中小の商会は自転車操業に近い決済を繰り返していた。

 そのため、経済活動が停滞すると一気に資金がショートし、多くの商会が倒産している。


 大手の商会は倒産こそしなかったものの、取引先が潰れたことで資金が回収できず、その損失を埋め切れていない。そのため、大規模な融資を行う余裕はなかった。


「我が商会は今回の疫病で大きくなりましたし、皇帝もそのことを知っていたのでしょうね。まあ、私のところはあれがありますから、他より圧倒的に有利でしたので……」


 ライナルト率いるモーリス商会は大都市に長距離通信の魔導具を持っており、どの商会が資金難に陥るか予想できた。そのため、資金があるうちに回収しておき、潰れそうになったところで買い叩いて吸収合併している。


 その結果、一人勝ちの状況で資産を大きく増やしており、商人組合ヘンドラーツンフト所属の商会で最大手になっている。


「チャンスは逃さずものにする。さすがはライナルトさんですね」


 私がそう言うと、ライナルトは苦笑する。


「これもマティアス様から、商売相手の取引先は常に確認しておくようにとご助言いただいたからです。この状況も見越しておられたのですね」


「そんなことはないですよ」


 ライナルトは私のことを過大評価する傾向にあるので、すぐに否定しておく。


「帝国軍の上層部はどうなったのかしら? 元帥や将軍が疫病で倒れたとは聞いていないのだけど」


 イリスが話に加わってきた。


「上層部に病死した者はいないようです。但し、上級騎士や騎士などの現場で指揮を執っていた指揮官には被害が多く出ており、元帥や将軍は危機感を持っていました」


 上級騎士は大隊長、騎士は中隊長や小隊長に当たる。遺体の処理は大隊が行っており、現場に出た指揮官が被害に遭ったようだ。


「どの程度の被害かは分からないけど、いい情報ね。これで帝国軍が大規模に動くことが難しくなったわ。士官学校から補充されるとしても一年や二年では難しいでしょうから」


「それはどうだろうね」


「どういうこと?」


 イリスの顔に疑問が浮かぶ。


「元々帝国軍は第四軍団を作るつもりでいたんだ。中級士官や下級士官が大量に必要になることは分かっていたから、余剰人員はあったはずだよ」


 帝国は皇都攻略作戦が終わった時点で四つ目の正規軍団、第四軍団を編成する予定だった。しかし、皇都攻略で得られる賠償金等が入らず、資金不足のため見送っている。


「忘れていたわ。だとすると、帝国軍には思ったより被害はないということ?」


「そうでもないよ。軍務尚書を始め、軍務府の役人に大きな被害が出ている。兵站を担う組織がボロボロになっているから、大規模な軍事行動に大きな制限は掛かるはずだよ」


 軍務尚書のシルヴィオ・バルツァーを始め、軍政を担う軍務府の役人も多くが被害に遭っている。また、大動脈であるザフィーア河流域の出先機関も被害を受けているので、以前と同じような軍事行動ができるようになるには時間が掛かるはずだ。


「今後のことですが、我が商会はどうすべきでしょうか?」


「そうですね……この機に更に帝国に食い込みましょう。具体的には……」


 私はライナルトに具体的な方策を説明した。

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