第56話「勧誘:前編」

 統一暦一二一一年三月十六日。

 グライフトゥルム王国王都シュヴェーレンブルク、エッフェンベルク伯爵邸。ラザファム・フォン・エッフェンベルク伯爵


 私は謹慎を理由に自宅に引き篭っていた。

 と言っても、自室ではなく、客室の一つに閉じ篭っている。

 妻との思い出が詰まった部屋にいることが、どうしてもできなかったためだ。


 唯一の救いは一人息子のフェリックスの存在だ。

 息子は三歳であり、母親が死んだことがまだ理解できていない。そのため、“母様はどこ?”と何度も聞いてくる。


 私はその都度慰めているのだが、そのことで息子を守らなければという思いが強くなり、それが生きる希望に繋がっている。


 そんな生活を送っていたが、本日意外な人物が我が家を訪問してきた。

 それは叡智の守護者ヴァイスヴァッヘの上級魔導師マルティン・ネッツァー氏と大賢者マグダ様だ。


 大賢者様は妻を失った数日後にも一度訪ねてこられた。その時は悲しみに暮れて何を話したかあまり覚えていない。

 お忙しい大賢者様が再び私のところに来たことが意外だったのだ。


「マティアスが自宅に戻った。まだ予断は許さぬが、赤死病に関しては問題ないじゃろう」


「ありがとうございます!」


 私はその言葉を受け、大きく頭を下げた。

 親友であるマティアスまでいなくなったら、私の心は完全に壊れたことだろう。

 しかし、わざわざ大賢者様がそのことを伝えにきたことに違和感を持った。


 そのことが顔に出たのか、大賢者様は小さく頷いた後、私を見つめる。


「そなたはこのまま世捨て人になるつもりかの?」


「分かりません。ただ、愛する者がいない世界で生きていくことに何の価値があるのかと……」


「気持ちは分からぬでもない。儂も多くの別れを経験しておるからの。特に先代の管理者ヘルシャーとの別れは未だに整理できておらぬ。既に千年以上の時が流れておるというのに……」


 大賢者様はそうおっしゃると遠くを見つめていた。

 永遠の時を生きると言われている“助言者ベラーター”という存在だということに今更ながら気づく。


 千年以上もの長い時で、別れを繰り返してきたのだ。

 私が今感じているような大きな喪失感を抱いたことが何度もあったことだろう。


「すぐに立ち直れとは言わぬ。時が必要であることは儂が一番分かっておるからの……」


 その言葉に自然と涙が浮かんできた。


「そこで儂から提案がある……」


 意外な言葉に思わず疑問が口を突く。


「提案ですか?」


「そうじゃ。ここにいては妻の思い出に浸ることもできぬ。マルクトホーフェンはそなたを完全に潰すまで手を緩めぬじゃろうからの。それに対抗するにはマティアスの力が必要じゃが、あの者はまだ完全に治り切ってはおらぬ。ここで無理をさせれば、命を縮めかねぬ」


 その言葉に頷くことしかできない。


「確かにその通りですね。マティなら無理をしてでも私を助けようとするでしょうから」


 今回の件はマルクトホーフェン侯爵が私に謀略を仕掛けてきたのだと思っている。但し、明確な証拠はなく、私自身の油断が大きな原因でもあるから、それを追求するつもりはなかった。


 しかし、大賢者様のおっしゃる通り、奴がこのまま手を拱いているとは思えない。特にマティアスが万全でない状況なら、この機に一気に潰しに来る可能性は十分にあるだろう。


「そこでじゃ。王都から遠く離れた場所で静かに暮らしてみぬか」


 王都は思い出が多すぎて離れたいと思っていた。しかし、離れるといっても領地であるエッフェンベルクに戻るくらいしかないが、そこにも思い出が多くあり、ためらいがあった。


「ここから遠く離れた場所……どこなのでしょうか?」


「ネーベルタール城じゃ」


「ネーベルタール城ですか……」


 すぐにピンとこなかったが、王国の地図を頭に思い描き、ようやくどこにあるか思い出した。


 ネーベルタール城は北部の辺境にある城で、以前はリヒトロット皇国の侵攻を防ぐための防衛拠点だった。しかし、リヒトロット皇国が膨張政策をやめたため価値が無くなり、治安維持のための少数の部隊が駐屯しているだけだと聞いている。


「そこにはジークフリート王子がおる。彼の教育をそなたに任せたい」


「ジークフリート殿下が……」


 ジークフリート殿下は七年前のマルグリット殿下暗殺事件の後、北部のどこかで静養されていると発表されていた。しかし、その場所は暗殺者から守るという理由で極秘になっている。


 殿下がそんなところにいることが意外だったが、それ以上に私に教育を任せるとおっしゃったことに驚いた。


「私が殿下の教育係ですか?」


「そうじゃ。あの者が王になるかは分からぬ。じゃが、将来この世界にとってなくてはならぬ者になるじゃろう。生半可な者に任せられぬ」


「世界にとってなくてはならぬ者ですか……」


 おっしゃっている意味が分からず聞き返してしまう。


「今は詳しくは言えぬ。儂は常々そなたとマティアスに任せたいと思うておった。どうじゃ、ネーベルタールに行かぬか? そなたが行ってくれるなら、儂が国王に談判するがの」


 領主、そして軍人としての責任を放棄することになるが、大賢者様の申し出を魅力的に感じていた。


「考えさせてください。父も弟も私がいなくなれば困ることになりますので」


「無論じゃ。マティアスとも話をするがよい。あの者もそなたのことを心配しておったでの」


「分かりました」


 自分が病で苦しんでいたのに、私のことを気に掛けてくれたことが嬉しかった。


「じゃが、儂がここにおるのはそれほど長くはない。早めに決めてもらえると助かるの。国王を説得せねばならんからの」


 そうおっしゃると、帰っていかれた。


 その後、父に相談した。

 父は二月の半ばには回復していたが、まだ体調は万全ではなく、乾いた咳をすることが多い。

 大賢者様からの話を伝えると、父は考え込んだ。


「うむ……」


 そして、考えがまとまったのか、ゆっくりと話し始めた。


「よい話だと私は思う。助からなかったとはいえ、大賢者様はシルヴィアの治療を行ってくださったのだ。半神ともいえるお方にそこまでしていただいたのだから、そのご恩に報いる必要がある」


「確かにそうですね」


「それにお前がここにいれば、マルクトホーフェンは必ず付け込んでくるはずだ。マティアス君も万全ではない今、時を置くことは悪くないと思う」


 父の考えを聞き納得するが、聞いておくべきことがあった。


「父上はどうされるおつもりですか? 軍務次官を辞任されるのですか?」


 父は体調を崩してから、激務である軍務次官を辞めたいと言っていた。

 また、私がシルヴィアの死の衝撃で腑抜けになり、大きなミスをしたことで更に心労を掛けている。


「今は辞められん。マルクス殿が立ち直れぬ状況で、私まで辞めれば軍務省はマルクトホーフェンに牛耳られてしまうからな。マティアス君が回復すれば、私も辞められるのだが、彼の回復がいつになるか分からぬ状況では……」


 軍務卿のマルクス・フォン・レベンスブルク侯爵はシルヴィアの父だ。弟であるアウデンリート子爵に続き、愛娘を失ったことで悲嘆し、王宮に出仕していないと聞いている。


「分かりました。領地はディートがいますから問題ないでしょう。念のため、マティにも相談してみます」


 私が家督を継いだ後、弟のディートリヒを代官に指名した。彼はラムザウアー男爵家に養子に入り、エッフェンベルク騎士団の団長と代官の任に就いている。

 どちらも大変な職責だが、優秀な弟なら問題ない。


 三月十九日、ラウシェンバッハ子爵邸を訪問した。


「兄様……」


 イリスが私を出迎えてくれたが、掛ける言葉が出てこないようだ。


「心配を掛けた。マティと話ができるかな」


「大丈夫よ。寝室で横になっているけど、今日は体調もよさそうだから」


 マティアスの部屋に入ると、メイド姿のカルラがいつも通り出迎えてくれる。


「マティアス様もお話ししたいそうです。但し、あまり長時間は難しいと思いますので、ご配慮いただければと」


「分かっているよ。大賢者様に伺ったが、マティが生きているのは奇跡らしいからね。ここでせっかくの奇跡を無駄にするわけにはいかない」


 私がそう言うとカルラは大きく頭を下げた。

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