第55話「生還」

 統一暦一二一一年三月八日。

 グライフトゥルム王国王都シュヴェーレンブルク、ネッツァー邸。マティアス・フォン・ラウシェンバッハ


 私は死の淵から脱した。

 二月十五日に発症し、数日間高熱にうなされた。その後、一旦小康状態になったが、再び高熱が襲い、体中に赤い発疹が現れた。


 それから半月ほど死の淵を彷徨った。

 肺炎に対しては大賢者マグダが治療を行ってくれたため、それほど酷くはなかった。しかし、何度も高熱を発し、肺以外の内臓もおかしくなったようだ。


 その都度治癒魔導で治療してもらったが、ダメージは確実に蓄積し、嘔吐と下痢で体力を消耗すると、それがきっかけで熱を出す。その繰り返しだった。

 その時の記憶はあまりないが、大賢者からは非常に危険だったと言われている。


『儂も何度か諦めかけたほど酷かったの。最後の方では不整脈も出ておったし、心臓が耐えられぬのではないかと思ったほどじゃ。よく生き残ったの』


 それほど危険な状態であったため、熱は下がったものの、倦怠感が強く、まともに考えることができない。


 更に後遺症の不安もあった。

 今のところ、五感に異常はなく、言葉もしっかりと発せられるので、脳や神経への後遺症は考えにくいが、立ち上がることができないので運動機能に影響が出ている可能性はある。


 体力が戻るまで、他の病気になるリスクはあり、完治するまで油断はできない。


「気分はどうかな?」


 上級魔導師マルティン・ネッツァー氏が聞いてきた。


「以前よりずいぶんよくなりましたが、まだ食欲もありませんし、体中がだるい感じですね」


「生きているのが奇跡だと言えるくらいだから仕方がないよ。少しずつ体力を戻していくしかないね」


「私が寝込んでいた間のことが気になるのですが……」


 結局、一ヶ月近く外と接触を断っていたため、家族や王都がどのような状況になっているのか気になっていた。


「イリス君たちは全員問題ないよ。ラウシェンバッハ家では誰も発症していないから」


「それはよかったです。家族のことが一番心配でしたから。王都の様子はどうですか?」


「相変わらず、酷い状態が続いているよ。まあ、他の都市に比べたらずいぶんマシなんだけどね」


「そうですか……軍や政府はどうでしょうか? 上手くやっているのでしょうか?」


 そこでネッツァー氏は肩を竦める。


「死の危険は去ったといっても、まだ熱は下がり切っていないんだ。今は回復することに集中すべきだよ」


「確かにそうですね。この状況では知ったとしても何もできませんし」


 それから三日経ったが、微熱が続き、食欲不振も改善されない。嘔吐と下痢も何度もぶり返し、治る気配がない。

 疫病対策で私が作らせた経口補水液ですら、喉を通らないことがあった。


 そんな状態であったため、大賢者が診察してくれた。


「発疹は完全に消えておるの。赤死病は完全に治ったと見てよい。じゃが内臓が思った以上にやられておるの。こうなると儂やマルティンにできることはあまりない。自然に回復するのを気長に待つしかないからの。イリスも心配しておる。そろそろ屋敷に戻ってもよいのではないかの」


 治癒魔導は身体が正常に戻ろうとする自然治癒を、魔導によって手助けして回復させる。つまり、急性的な症状には効果はあるが、慢性化した場合は効果が極端に落ちる。今の私の状態がまさにそれに当たる。


「ありがとうございます。ですが、潜伏期間が怖いので、もう数日だけ様子を見させてください」


 この病気の潜伏期間がどれくらいかは分からないが、発病前に見た情報から、十日ほどはあると見ておいた方がよいと考えている。


「そうじゃの。普通なら一週間ほどで完治するのじゃが、そなたの場合は少し事情が違う。様子を見た方が安全じゃろう」


 大賢者の了承が得られたので、更に五日間様子を見た。


 三月十六日。熱は下がったが、倦怠感は相変わらずで、一人で立ち上がることも難しい状況だ。


「もう少しここにいてもよいぞ」


 大賢者にそう言われるが、治癒魔導はほとんど掛けられておらず、ここにいる必要性はあまりない。


「屋敷に戻ります。その方がイリスも安心するでしょうから」


 イリスは私の言いつけを守り、屋敷からほとんど出ていない。そのため、ネッツァー氏の屋敷には一度も来ていない。


「ラザファムについてじゃが、第四騎士団長を辞めておる。無実の者に罰を与えるという失態を冒し、自ら辞任するといって辞表を出したのじゃ」


 その言葉が最初は信じられなかった。


「ラズが無実の者を罰したのですか? 彼がそんなミスを冒すとは思えませんが」


 彼は何事にも手を抜くことなく、緻密な頭脳で物事を見極めていた。そんな彼が慎重に行うべき判断でミスをするとは思えなかったのだ。


「詳細は分からぬが、誰かに嵌められたようじゃ。出てきた証拠が数日後に偽と分かっただけではなく、証言まで覆されておるからの。まあ、ラザファムの精神状態がおかしかったことが一番の原因じゃろうが」


「シルヴィアさんの死を乗り越えられていなかったということですか……」


 彼なら愛妻の死を乗り越えられると思っており、その後のケアを怠った私のミスだ。


「そのようじゃの。今は落ち着いておるようじゃが、無気力になっておることは間違いない」


「ラズが無気力に……信じられません」


 子供の頃から彼のことを知っており、常に努力を続けてきた彼がやる気をなくしているということに驚きを隠せなかった。


「儂も心配しておる。この後は領地に戻ると言っておるが、あの若さで世捨て人になるのではないかとの」


「世捨て人ですか……」


「そうじゃ。儂が話した感じではすべてを諦めておる。息子のことをどうするのじゃと聞いても答えが返ってこぬほどじゃ。儂はあの者に期待しておる。そなたと共にジークフリートの師となってほしいと考えておるほどじゃ」


 ジークフリート王子は大賢者が最も期待しているヘルシャー候補だ。昔から私に指導してほしいと言っていたが、ラザファムにも期待していたらしい。


「一度彼と話をしてみます」


「そうしてくれるかの。あの者がこのまま消えていくのは、王国にとっても大いなる損失じゃからの」


 私はネッツァー氏や他の魔導師に礼を言った後、約一ヶ月ぶりに帰宅した。


 一人で歩くことが難しいため、執事姿のシャッテン、ユーダ・カーンが支えてくれる。彼は私の闘病中、ずっと傍で看病してくれていたのだ。


「お帰りなさい、あなた……」


 玄関でイリスが涙を浮かべて出迎えてくれた。


「ただいま。約束通り帰ってきたよ」


 そう言うと彼女は私の胸に顔を埋める。


「本当に良かった……何度もあなたが帰ってこない夢を見たの……」


「心配かけたね。でも、赤死病についてはもう問題ないよ。まだ体力は戻っていないけどね」


 屋敷の使用人たちからも言葉が掛けられた。


「お帰りなさいませ」


 メイド姿のシャッテン、カルラ・シュヴァイツァーを筆頭に、皆私のことを心配していたようで、心から喜んでくれていた。


「心配を掛けました。私の不在中、家族を守ってくださり、ありがとうございます」


 そう言って私は大きく頭を下げた。

 高熱を発して朦朧としている状態でも、家族のことが一番心配だったのだ。


 イリスとこの一ヶ月間のことを話し合いたかったが、私の身体がそれを拒否した。

 僅かな時間だったが、馬車での移動がよくなかったようで、すぐに体調を崩したのだ。


「今はゆっくり休むべきよ。ホイジンガー閣下には私の方から連絡を入れておくわ」


「すまない……」


 私は不甲斐ないと思いながらもベッドに横になり、そのまま眠りに就いた。

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