第55話「ペテルセンの思惑」

 統一暦一二〇七年十月一日。

 ゾルダート帝国帝都ヘルシャーホルスト、白狼宮。ヨーゼフ・ペテルセン総参謀長


 王国の守護神クリストフ・フォン・グレーフェンベルク伯爵が死んでから、三ヶ月ほど経った。

 諜報局の調べでは王国に目立った混乱はなく、それどころか参謀本部の設立とラウシェンバッハが参謀本部次長に就任することが決まった。


 グレーフェンベルクが倒れてから後継者であるホイジンガー伯爵に対し、マルクトホーフェン侯爵を使って揺さぶりを掛けたが、ほとんど失敗に終わっている。


(ラウシェンバッハが優秀なのだろうが、マルクトホーフェンが思ったより使えなかったな。温い白ワインのようにキレがない……まあ、宰相と共に財務関係を滅茶苦茶にしてくれたことは評価できるが、侯爵の意図するところではなかったから、大慌てで対応していたようだが……)


 宰相であるメンゲヴァイン侯爵が思った以上に無能であったため、有能な財務次官オーレンドルフ伯爵が辞任した。その後任にマルクトホーフェンが自派閥のグリースバッハ伯爵を強引にねじ込んだ。


 しかし、グリースバッハはメンゲヴァインに匹敵する無能だった。そのため、王国の財務部門は僅か半月で機能不全に陥った。


 その情報を受け取った時、あまりのバカバカしさに思考が停止し、呑んでいたエールが気管に入ってむせ返ってしまった。

 

(マルクトホーフェンは恐ろしい奴だな。千キロ以上離れた場所にいるのに危うく殺されかけた。今後奴に関する報告を聞く時は酒を飲み込んでからにしようと思ったほどだ……)


 マルクトホーフェンもこのままでは拙いと思い、グリースバッハに部下からの上申はすべて承認しろと命じたらしいが、その上司であるメンゲヴァインが無能であるため、財務部門は混乱したままだ。


(今頃ラウシェンバッハが手を打っているだろうが、奴の名声がまた上がり、王国政府内の発言力が増してしまう。マルクトホーフェンも愚かなことをしたものだ……)


 そんなことを考えているが、私自身もラウシェンバッハに対しては手を拱いている。

 と言っても、現在は王国に対して隙が見えない限り、積極的に仕掛けない方針なので仕方がない面はある。


 王国に積極的に仕掛けない理由だが、謀略を行う諜報局と皇帝陛下直属の諜報機関“オウレ”をリヒトロット皇国に集中しているためだ。


 陛下が約束された皇都攻略の期限である三年に対し、既に半分ほどが過ぎ、時間的余裕がないためだが、それ以上にラウシェンバッハが構築した防諜体制が完璧で、下手に動くと諜報員を失ってしまい、皇都攻略作戦に支障が出ることを懸念したためだ。


 この点については陛下とも認識を共有している。


『まずはリヒトロット皇国を謀略によってボロボロにするということだな』


『はい。あの国には防諜という概念がありませんし、懸念していたラウシェンバッハの手の者もそれほど多くありません。さすがの“千里眼のマティアス”も国内のゴタゴタで我が国はもちろん、皇国への支援にも手が回っていないようですね』


『油断はするな。あの者は余の想像を超える手を何度も打ってきた。今も我らが気づかないだけで、恐ろしい策略が進行しているかもしれぬのだからな』


 陛下はラウシェンバッハに何度も煮え湯を飲まされているので、警戒心が強い。


『その点は私も同じ考えですよ。芸術的なまでの謀略を何度も見せられておりますので』


 正直な感想だ。

 特にフェアラートで行われた謀略はやられたゲルリッツ元帥ですら、私が指摘するまで気づかなかったほどで、今もこの帝都で奴の手の者が蠢動している可能性は充分にある。


『それでよい。しかし、警戒し過ぎて皇都攻略が遅れることは本末転倒だ。ラウシェンバッハが仕掛けてこられぬよう、先手を打ち続けるのだ』


 陛下のご命令により、皇国に対しては軍内部に不和の種を蒔き続けている。


 現在のリヒトロット皇国の状況だが、彼の国の上層部には三つの派閥がある。


 一つは徹底抗戦派と呼ばれ、我が国と妥協することなく、戦い続けるという主戦派だ。

 中心人物は水軍のイルミン・パルマー提督で、若手の有能な士官を中心に支持されている。しかし、現状では主流派とは言い難い。


 水軍だけでは防衛は可能でも、帝国軍に決定的なダメージを与えられず、戦いの長期化は避けられない。そのため、厭戦気分が蔓延している皇都では主流派になれないのだ。


 二つ目は和平派だ。

 宰相であるアドルフ・クノールシャイト公爵が中心人物で、皇都を我が国に割譲した上で、グリューン河とハルトシュタイン山脈という天然の要害を利用して時間を稼ぎ、グライフトゥルム王国やグランツフート共和国、シュッツェハーゲン王国と協力して我が国を打倒するという考えだ。


 文官の多くが支持し、主流派となりつつあるが、皇都の民を見捨てるという案であるため、自らが積極的に動きたくないと考え、動きは鈍い。また、クノールシャイト宰相はマイヘルベック将軍と同じく、爵位だけで重要な地位に就いた無能であり、まとめ切れていない。


 三つ目は降伏派だ。

 我が国に対して恭順の意を表し、自分だけ生き残ろうとする連中で、伯爵以下の貴族や騎士階級で構成されている。但し、中心となる人物はいない。


 私が言うのもなんだが、情けないことにこの降伏派が最も多い。

 彼らは財産さえ保護してもらえるなら、侯爵以上の無能な大貴族が牛耳る皇国より、我が国の方がマシだと思っているようだ。


 実力主義の我が国に来て生き残れるほどの人材がいるとは思えないが、それほどまでに皇国の腐敗は進んでいる。


 この三つの派のうち、和平派と降伏派にアプローチしている。

 具体的には、和平派に対して皇都を明け渡すのであれば、財産の移動を許可することと、不可侵条約の締結の示唆だ。


 クノールシャイト宰相は財産の移動の許可に加え、民も皇家の財産なのだから移動を許可すべきだと言っているらしい。民を逃がすことができることで、後ろめたさがなくなり、少しずつだが、動き始めている。


 降伏派に対しては情報操作を積極的に行っている。

 帝国は優秀な人材を求めており、皇国で一定の地位にあった者は優遇されるという噂を流した。


 実際に優秀な人材は常に欲しているし、皇国内の有益な情報を持つ者は優遇するつもりなので嘘ではない。

 この噂で和平派から降伏派に鞍替えする者が出始めている。


 皇都を明け渡し、西部に遷都したとしても皇国自体が縮小するため、身分が低い者は政府の役職に就くことが難しい。また、西部には領地を持つ貴族が多く、皇都から脱出した自分たちの地位が守られる保証がないことも不安を掻き立てている。


 情報操作を依頼した内務尚書のヴァルデマール・シュテヒェルト殿と、この件について話している。


『これほど無様に踊ってくれるとは思わなかったですな』


 私の言葉にシュテヒェルト殿はいつもの柔らかい表情で応える。


『そうですね。自分たちの実力すら把握できぬ小物たちが、噂一つでバタバタと跳ね回る姿はまさに喜劇ですよ。彼らに政治的な才能はないでしょうが、喜劇役者としての才能はありそうですね』


 シュテヒェルト殿は若輩の私にも丁寧な口調で接してくれる。と言っても私に心を許しているわけではなく、皇帝陛下の腹心に対して敬意を表しているに過ぎない。


『その通りですな。彼らにとっては喜劇ではなく悲劇ですが、見ている我々にはまさに滑稽な喜劇。それにしても諜報局もなかなかやりますな』


『相手が皇国だからですよ。“千里眼のマティアス”殿がいるグライフトゥルム王国はもちろん、グランツフート共和国でもここまで完璧な仕事はできなかったでしょう』


 シュテヒェルト殿の言葉に私も大きく頷いた。


 皇帝陛下直属の“オウレ”だが、現在何をしているのか、私も詳細に聞いていない。これは私が望んだことだ。


 陛下は狭量な方ではないが、猜疑心が強い。私が謀略部隊を指揮することで、陛下に不信感を抱かれるくらいなら、最初から実務には携わらないと宣言し、信頼を得ておいた方が得策だと考えたためだ。


 もちろん、諜報局や独自に得た情報を基に謀略を提案するし、陛下とも突っ込んだ協議も行っている。しかし、“オウレ”がどの程度の間者を有し、誰が現地で指揮を執っているかなどについては、私は一切知らない。


 陛下からは皇国の徹底抗戦派に対して、謀略を仕掛けていると聞いているが、諜報局の情報網にもどのような謀略が行われているのか、一切引っかかってこない。


 陛下に状況を確認すると、ニヤリと笑われた。


「そろそろ結果が出るはずだ。卿でも驚くと思うぞ」


「では、楽しみにしております。ですが、そろそろ本格的に皇都攻略作戦の準備を始める時期です。作戦の決行は来年の夏頃と考えておりますが、陛下のご存念をお伺いしたいと思います」


「卿の認識通りだ。来年の八月頃から軍を動かし、冬になる前に皇都を陥落させる。その前に王国に対しても何らかの対応が必要だと思っているがな」


 今回は陛下が親征されるため、第一軍団も出陣する。つまり三個軍団九万の兵を動かすことになるから、三ヶ月で皇都を落とすことは難しくない。


「冬になる前であれば、三月には凱旋できます。三年という期限にはいささか余裕がありませんので、王国への手当てが鍵になりますな」


「その通りだ。その点については卿に期待している。よい策を献じてくれ」


 その言葉に恭しく頷き、手に持っていた赤ワインのグラスを掲げた。

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