第51話「ヘルマン・ラウシェンバッハ」
統一暦一二〇七年八月十九日。
グライフトゥルム王国南東部ラウシェンバッハ子爵領、守備隊駐屯地。ヘルマン・ラウシェンバッハ
守備隊駐屯地でのイベントも後半に入った。
既に午後一時を過ぎ、暑さもピークに達しているが、領民たちは獣人族兵士たちの素晴らしい技量を見て興奮しており、元気いっぱいだ。
私の場合、少し複雑だ。
今後彼らを率いるのは私であり、あれだけの兵士を使いこなせるのか、全く自信がないためだ。
「ヘルマン様、クローゼル男爵閣下とレオノーレ様です」
振り向くと、ラウシェンバッハ子爵家の家臣エーベルハルト・フリッシュムートが、ゲオルグ・フォン・クローゼル男爵と令嬢のレオノーレ殿を案内してきたようだ。
「このような炎天下にお誘いして申し訳ございません」
貴族を招くようなイベントではないので、男爵とレオノーレ殿に謝罪する。
「いやいや、一昨日に話を聞き、参加させてほしいと言ったのは私の方ですからな」
領都に到着した翌日、婚約のことを話し合うため、屋敷で会っている。
その際、今日のイベントの話になり、是非とも見たいと言ってきたのだ。
「私に敬語は不要ですよ。既に名に“フォン”はありませんし、近い将来義理の息子になるのですから」
そもそも男爵家の当主が子爵家の次男である私に対し、砕けた話し方をしても問題ないのだが、王国南東部の有力者ラウシェンバッハ子爵の息子ということで、男爵は以前から礼儀正しく接してくれている。
“フォン”を取ったのは、兄マティアスの家督相続を受け、騎士爵となったためだ。本来なら別の家を立ち上げるのだが、クローゼル家に養子が入ることが決定しているので、貴族の証である“フォン”を取っただけの“ヘルマン・ラウシェンバッハ”と名乗っている。
これは家名を変えるとそれが問題ないか審議されるだけでなく、紋章を決めなければならず、結構面倒だからだ。但し、今回は兄が認めているので問題はないが、名を変えないと家督相続に異議があると取られかねないので、通常は短期間でも変えることの方が多い。
「では、そうさせてもらおう。話は変わるが、獣人族の実力は素晴らしいな。君が彼らを率いることになると思うと誇らしいよ」
男爵たちも獣人族の模擬戦などを見ていたようだ。
「私としては胃が痛いですよ。あれほどの兵士を率いるとなれば、責任も重大ですから」
正直な思いだ。
「マティアス殿、いや、マティアス様が君で大丈夫だと太鼓判を押されているのだろう。それならば問題はないさ。あの方が判断を誤るなど考えられんからな」
以前は独立した男爵家の当主であったが、私の養子の件をきっかけにラウシェンバッハ家の傘下に入るため、“様”と言いかえたようだ。
「それはそうなんですが……」
確かに兄は私でも問題ないと断言してくれるが、帝国軍がヴェヒターミュンデかリッタートゥルムを突破してラウシェンバッハ子爵領に雪崩れ込んできた場合、私が彼らを率いて帝国の精鋭と戦うことになる。
騎士団だけでも五千名、自警団まで合わせれば、最大二万名の兵士を指揮することになるのだ。この規模は王国最大の貴族派閥、マルクトホーフェン侯爵派に属する貴族軍全軍に匹敵する。
また、実力的には第一から第四までの王国騎士団より遥かに上で、ヴェストエッケ守備兵団やヴェヒターミュンデ騎士団を含めた王国騎士団長が指揮する戦力より強力だ。その軍隊を私が指揮することになると思うと、その責任の重さから胃が痛くなるのだ。
「いずれにしてもこれから頑張るしかなかろう。それよりも今日はこのイベントとやらを楽しまねばもったいない。ヘルマン君、レオノーレと二人で回ってはどうだね。今まで二人きりで話したことは少ないだろうから」
クローゼル男爵家とは近くの貴族家ということで、私が幼い頃から交流はあった。しかし、十代の頃に四歳も離れていると、会話らしい会話にならず、父たちの会話に入って話した程度の記憶しかない。
「分かりました。レオノーレ殿、では」
そう言って腕を差し出す。
「はい……」
レオノーレは恥ずかしげな表情を浮かべて僅かに下を向きながら、私の腕を取った。
彼女は現在十七歳。身長は百六十センチほどと私より頭一つ分低い。
今日も淡いブルーのワンピースに幅の広い帽子を被っており、年齢よりも幼く見えるが、愛らしい令嬢だ。
以前密かに憧れていた義姉イリスが大輪の白バラだとするなら、レオノーレは可憐なスミレの花だ。
「喉が渇きませんか? 兄上がモーリス商会に用意させたビールが美味しいそうなので、それを目指しましょう」
「はい、ヘルマン様」
それから二人で厨房棟の方に向かった。
「ヘルマン様、おめでとうございます!」
「美しい奥様で羨ましいですよ!」
領民たちからそんな声が掛かる。
「慕われているのですね」
レオノーレが尊敬の眼差しで私を見上げている。
「父上と兄上のお陰ですね。私は十年近く前に王立学院に入ってから、ほとんど領地には戻っていませんから」
王立学院に入ってからは夏休みに帰ってきたが、何もない領都に飽きて、すぐに王都に戻っていたのだ。
ビールを受け取り、空いている席を探すと、領民が場所を空けてくれた。
「こちらへどうぞ!」
「済まないな」
元々余裕があったわけではなく、無理やり空けさせたようで軽く謝罪する。
「いえいえ、未来の騎士団長さまと同席できるなんて光栄ですよ!」
席に着くと、同じテーブルの者たちの視線を感じた。
「では、乾杯しようか。ラウシェンバッハ子爵領の繁栄と皆の健康、そして、私のレディに、乾杯!」
「「「乾杯!!」」」
普段の私なら絶対に言わない少し気障なセリフだが、兄から気に掛けていることをはっきりと示すようにと助言されていたため、最後の言葉を付け足した。
『レオノーレ殿はほとんど領地から出ないからね。それに引き換え、お前は王都に長く住んでいるだけでなく、兵学部を第五席で卒業し、若くして王国騎士団の中隊長になったエリートだ。彼女が気後れしないように気を遣ってあげなさい』
兄の作戦は功を奏したようで、レオノーレは頬を紅潮させながら私を見つめている。
「ヘルマン様と奥方様、これが領都で人気の料理ですよ。先ほどマティアス様も美味いとおっしゃっていた、あけぼの亭のスペアリブです」
紡績工場の工員らしい三十歳ほどの男が勧めてくる。
「あんたは馬鹿かい。お嬢様にそのまま出しても食べられないだろ。ちゃんと切り分けて出さなきゃ」
彼の妻らしき恰幅のいい女性が男の頭を軽く叩くと、皿を取り上げてナイフで肉を切り分けようとした。
レオノーレはそれを止める。
「構いませんわ。そのまま食べた方が美味しいのでしょ?」
「よろしいので? 確かにイリス様は豪快にかぶりついておられましたが」
「はい。皆さんと一緒の食べ方の方が良いと思いますから」
私を含め、皆があっけに取られている中、レオノーレはスペアリブを一本取り、私に差し出してきた。
「ヘルマン様もどうぞ」
私が受け取ると、彼女も皿から一本取り、小さな口で肉にかぶりつく。小動物のような愛らしさに魅入ってしまうが、私もスペアリブにかぶりついた。
赤身部分のしっかりとした食感と、脂と甘辛いタレが混じった濃厚な液体が口の中に広がる。
本能的に左手に持つジョッキに口を付け、一気にビールを流し込む。
「美味い!」
「美味しいですわ!」
ほぼ同時に同じ言葉を口にした。
「あけぼの亭だったな。今度一緒に行ってみましょう」
「はい! 私もこの味を再現できないか、挑戦してみますわ」
その言葉に驚く。
男爵家とはいえ、貴族の令嬢が料理をするとは思っていなかったからだ。
「料理をされるのですか?」
「はい。我が家には専属の料理人がおりません。ですので、母と私たちで料理を作っております。と言っても田舎料理なので、王都で長く暮らしていらっしゃるヘルマン様のお口には合わないかもしれませんが」
「私は美食家ではありませんから大丈夫ですよ。というより、騎士団の者は基本的に食べられれば、何でも文句を言わずに食べないといけないので、味に拘ってはいられませんから」
今度は彼女の方が驚く。
「まあ、そうですの! そう言ったお話を聞きたいですわ」
それからビールを飲み、料理を食べながら、いろいろな話をした。
喉の渇きも癒され、腹も多少膨らんだので、会場を回ることを提案する。
「もう少し回ってみませんか?」
「はい。皆さん、お邪魔しました。料理もありがとう」
レオノーレが貴族の令嬢らしく、美しい所作で礼をする。
「私からも礼を言うよ。美味い料理を紹介してくれて助かった」
私たちの言葉にその場にいた者たちが慌てる。
「お礼を言われるようなことじゃありませんよ!」
両手を振って慌てているので、軽く手を上げて問題ないと示した後、その場を離れる。
それから獣人族の兵士たちや調理を手伝っている領民たちとも話をし、兄たちと合流した。
「仲良くやっていそうだね」
兄の言葉に頷く。
「このイベントのお陰でレオノーレ殿とたくさん話ができました。感謝していますよ」
「それはよかったわ。レオノーレさんはどうだったかしら?」
兄に続き、義姉にも話しかけられて、レオノーレは少し緊張気味だ。
「は、はい。ヘルマン様が以前と変わらず優しい方だと分かってよかったです」
「それはよかったわ。でも、まだ飲み足りないようね。これからは一緒に飲みましょ」
そう言って、レオノーレを自分たちのテーブルに引っ張っていく。
その姿を見ながら、兄に話しかけた。
「大成功だったようですね。獣人族と領民がいい感じで打ち解けていたと思いますよ」
「そうだね。お前も獣人族の兵士たちに近づけたんじゃないか? 少しは自信が付いただろ?」
兄の言う通り、兵士たちと打ち解けることができた。
それまでは兄に対する忠誠心はあっても、弟に過ぎない私が団長になることに、難色を示す者がいるのではないかと思っていた。しかし、そのような素振りの者は全く見かけなかった。
それどころか、私が団長になることを心から歓迎していたのだ。
『マティアス様はヘルマン様を心から信頼されております。ならば我らが不満に思うことなどあろうはずがありません。それにヘルマン様はマティアス様の教えを受けた方であり、あの方に忠誠を誓っておられます。我らを存分に使ってくださると信じております』
彼らは兄が自分たちを積極的に使ってくれないことに、複雑な思いを抱いている。
兄はレヒト法国の戦力を落とすという目的のために、彼らを故郷から引き離したので平和に暮らしてほしいと思っている。しかし、獣人たちは兄に一族ごと命を救われたのでその恩を返したいと思っており、そのギャップがもどかしいと考えているのだ。
彼らは私なら兄のために自分たちの命を使い潰すことも厭わないだろうと考え、歓迎してくれた。
私自身も王国を守る兄のために、命を投げ出す覚悟を持っている。
そのことが彼らにも伝わり、仲間として受け入れてくれたのだ。
兄のことだから、こうなることも計算の上だろう。
「さて、もう少し飲もうか」
兄の言葉に大きく頷く。
「ビールに飽きましたから、ワインを取りにいきませんか?」
「そうだね。ゆっくり飲みたいからその方がいいかもしれないな。彼女たちの分も持っていこう」
楽しげに答えた兄と一緒に、私はワインがあるブースに向かった。
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